第十八話
窓からは、初夏の日差しが降り注いでいる。柔らかな風が、白いカーテンをふわりと揺らす。
病室にて、サシャ・ランデルは電報を受け取っていた。一人娘の夫、レクセル・フランソンからである。要件は面会を希望したいというものだ。
サシャはベッドに腰かけたまま、じっと窓の外に視線を向ける。
下界と隔離されるように、高原に建てられたこの病院に近づく者は少ない。
木々の緑は濃く、瑞々しい。少し足を延ばせば湖畔があり、鳥の囀りが耳を楽しませてくれる。この病の療養にはうってつけである。
(面会を断り続けるのは、そろそろ限界ね)
娘のニーナが結婚すると聞いた時、驚いた。彼女は亡き婚約者を思い続けていたからだ。新たに一歩、踏み出してくれたのなら良かったと思ったが――。
「調子はどうかな、サシャ」
振り返れば、主治医であるトム・ウェリトンが扉の側に立っていた。
「変わりありません。むしろ良い方です」
サシャは背筋を伸ばしたまま答えた。
「本当に?」
「ええ」
「だが、昨日の夜は発作があったと聞いたけれどね」
「昨日は昨日。今日は良いですもの。嘘はついておりません」
淡々と答えれば、トムは困ったように眉尻を下げた。そして近づいてくる。彼はサシャの手首をとり、脈をとった。
「まあ、確かに今は落ち着いているか」
「ですからそう言っております」
「まったく……。何度も言うが、そろそろニーナに話をしないと。何も知らない、というのは酷な話だよ」
サシャは答えをごまかす様に瞼を閉じ、膝の上で手を組んだ。二人の間に、沈黙が流れた。
「もう一度言うが、君の体はいつ限界がきてもおかしくないんだ。発作が起きる回数も増えてきている。それに最近は、微熱がずっと続いているだろう」
「……相変わらずはっきり言いますね、先生は」
「君が、ニーナを遠ざけ続けているからだよ」
サシャは眉間に皺を刻み、青白い手に視線を落とす。
「わたしは、あの子の重荷になりたくありません。あの子には幸せになってもらいたい。ただ、それだけなんですよ。親が子に負担をかけるなど、情けない。我が子の足枷になるなんて……」
正直、生きていることが辛い。でも、死ぬこともできない。ニーナを一人、残していってしまうなんて。愛しているのだ、彼女のことを。たった一人の大切な娘だから。自分が死んでしまえが、誰が彼女を支えてくれるのだろうか。
家庭教師の職を失い、工場で働きながら必死に自分の入院費を支払い、自分のことを二の次にしてきたニーナ。
辛い時に、この病のために彼女を抱きしめることもできず、何が母親だ。
そして彼女が突然結婚した途端に、金銭面のことは何一つ心配要らないと、結婚の挨拶の手紙でニーナの夫が知らせてきた。
ニーナが結婚した意味を、母親である自分が分からないはずがない。
ニーナは自分のために結婚をしたのだ。
もし彼女が幸せな結婚をしたのであれば、事前に手紙で、夫となる男性のことを綴ってくる。しかし、それすらなかった。
一体彼女の夫はどんな男性なのだろうか。金にものを言わせてニーナを酷く扱っていないだろうか。そんな心配もある。
しかしニーナから送られてくる手紙には、彼は口数の少ない人だけれども、とても優しい人だと記されていた。夫の友人と、ニーナの友人を呼んで自宅でパーティーをする予定だとも。
「ねえ、トム」
サシャは、トム、と彼を名前で呼んだ。
彼はサシャの主治医であるが、亡き夫の友人でもあり、昔からの顔馴染みだ。
振り向いたトムに、サシャは震えそうになる手を強く握った。
「わたしはね……。準備を、しておかないといけないのよ」
「準備?」
「ええ。……心の準備よ。いずれ来るであろう、別れの時。その時のために、あの子を突き放していないと。わたしの死に囚われないように、あの子が、自分の幸せのために生きられるように。わたしは、最後まで厳しい母親でなければいけないわ」
「サシャ、それは――」
「もちろん会うわ。結婚相手も気になるから……。そして、叱らないとね。これからは、自分の幸せのために生きなさいって。……抱きしめてあげれない代わりに、うんときつく」
憂愁に閉ざされそうになる心を振り払うように、サシャは明るく笑った。
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