第十七話
レクセルはベッドの上で仰向けに寝転がり、深い溜め息をついた。そして右手を天井に向かって伸ばす。先ほど彼女が泣いた時、この手は彼女を引き寄せようとした。
彼女のやるせない過去を思い出し、寸前で軌道を修正して彼女の頭に乗せたのだが……。
(突然泣き出すから、驚いた)
そもそも話題を持ち出したレクセルが悪いのだが、まさか恋人を失っていたとは思わなかった。
結婚前に彼女のことは一通り調べさせたが、自分にとって必要な情報のみで良いと指示を出していたので知らなかったのだ。
(レオ、と呼んでいたな)
留学先で海難事故に遭うとはなんて不運な。それも、結婚を誓った彼女を置いて。
残された彼女は一体どんな思いで生きてきたのだろうか。恋人を失い、不貞の疑いをかけられ家庭教師の職を失い、母親は病で離れ離れ。
ああ、そうか。だから彼女は初めて会った時、この結婚に同意したのか。全てを諦めたような冷え切った表情をレクセルは思い出す。
きっとどうでも良かったのだろう、自身の幸せなんて。
レクセルは掲げた右手で拳を握り、自身の額を小突く。
彼女は自分自身のことを、こちらから尋ねない限り語らない。おそらく語る必要がないと思っているのだろう。――これは形だけの結婚だから。
けれど、自分たちの間で何かが動き出している。でなければ、こんなにも心を乱されない。
彼女が涙を零した時、正直動揺した。彼女が零す涙があまりに綺麗だったから。ひどく心を揺さぶられて、無意識に手を伸ばしてしまう程に。
冗談で不細工と言ってしまったが、あれは単なる誤魔化しだ。ダリアが言うように、彼女は綺麗だ。ダリアのような華やかさはないが、清楚な美しさがある。
自分だから良いものの、外で泣いていたら良からぬ男が寄ってくるだろう。彼女の場合、それを絶対に自覚していない。
彼女の友人、ヒルダが自分に向ける視線の意味がなんとなく分かった気がする。
彼女は自分を見定めている。ニーナの側にいて良いのかどうかを。
(そもそも、金と引き換えにこの結婚を了承させたのは俺だ。俺の評価なんて、はなからマイナスだろうな)
レクセルは自嘲するように笑みを浮かべた。
けれど形だけの妻とはいえ、ニーナを蔑ろにするつもりはない。もう、知り始めてしまったから。彼女という人間を。
知らなければ知らないまま、互いに背を向けて暮らせることができた。でも、もう彼女が生活の一部になりつつある。
毎朝身支度を調えてダイニングへ向かえば、彼女は淹れたてのお茶を差し出してくれる。テーブルには新聞が置かれ、お茶を飲みつつ目を通していると、今度は朝食を運んできてくれる。そして彼女と共に朝食をとる。大した会話はないけれど心地よい時間。
仕事で帰りが遅くなっても、彼女は起きて待っている。先に休んでいろと言っているのに、彼女は契約の対価が合わないからと譲らない。何より、温かい食事を食べてほしいそうだ。で、結局いつも夕食も共にしている。なので最近は、なるべく早く帰宅するよう心がけていると、周りから「お熱いことで」と揶揄われることもある。もちろん、一睨みして退社するのだが。
自分たちは歪だ。それぞれ思惑があって妥協した、契約上の結婚。
この結婚はどこに向かうのか。何故、遺言で彼女を指名した。自分たちを結び付けた祖父、サミュエル・ベックに問いたい。
自分の予想では、ニーナの家系と何か繋がりがあると踏んでいたのだが、何の繋がりも今のところ見当たらない。
奴が残した石油会社の相続については、裁判所に申し立てたところだ。まだ相続できていない。
おそらく、本家の奴らは納得がいかないはずだ。婚外子に、一部とはいえ財産を奪われることにプライドが許さないだろうから。
言葉すら交わしたことのないサミュエルはこの世にいない。奴は一体、何を考えて遺言を残したのだ。
机の上に放置したままの、一通の招待状を視界の端で捉える。
北部と王都を結ぶ、リチェット=カルドル鉄道開通三十周年を祝うパーティーへの招待状だ。国内だけでなく、国外からも招待客が集まってくる。
そもそも自分は直接関係ないのだが、出資に祖父が絡んでいること。また、蒸気機関車の技術者であり国に大きな貢献をもたらしたジョン・アーチャーの孫が、あのリクである。そういった関係で招待状が届いている。
参加すれば本家の奴らと鉢合わせすることは間違いない。自分一人なら構わないが、妻であるニーナを連れていくとなると、彼女に迷惑をかけるだろう。自分一人が受ける誹りは慣れているが……。
(さて、どうするか)
ニーナを連れていくことで、祖父が残した謎を知る手掛かりになるかもしれない。それにだ。自分側だけでなく、近いうちにニーナの母親にも会っておきたい。もちろん祖父との繋がりを問いたいこともあるし、何より、ニーナがずっと心配している。
(彼女にとってたった一人の肉親だ)
自分にはもう、唯一の肉親であった母はいない。当時の自分には、力も金もなかった。ろくな治療を受けさせることもできず、母はあの世に逝ってしまった。
だからたとえ仮初めの妻なのだとしても、協力は惜しまない。
レクセルは瞼を閉じ、思考を手放した。
「パーティー、ですか」
朝食の席でニーナは首を傾げた。話を切り出したレクセルは、カップを片手にニーナの表情を窺う。
「付き合いで顔を出す必要がある。本家の奴らもやってくるから、正直嫌な思いをさせると思うんだが」
「ああ、例の」
ニーナは思い出したように頷いた。今日もニーナは後れ毛一つなく、きっちりと赤髪を一つにまとめている。彼女の几帳面な性格を表しているようだ。
「わたしは構いません。参加すれば、旦那様のお爺様との繋がりが何か分かるかもしれませんし」
ニーナは悩む素振りを見せることなく返答した。相変わらず理解が早い女だと改めて思う。
「いいのか」
「はい。粗相のない様に努めます」
「粗相って……。その点は心配してない。それとあんたの母親の件なんだが、俺が連絡を取ってみてはだめか」
眼鏡の奥でニーナは瞬きした。
「その、仮とはいえ会っておくべきだろう。あんたが面会を申し込んでも断られるし、それなら俺が言ってみたらどうかと思うんだ。……会いたいんだろ、あんた」
ニーナは下唇を噛んで頷いた。そしてフォークを静かに置き、不安の混じった目をレクセルに向ける。
「はい。ですがその、母は結核です。面会になられて、旦那様は――」
「気にするくらいなら、こんなことは言い出さない」
「すみません」
「謝るなよ。とにかく、病院を通して聞いてみようと思う。それでいいか」
「はい。よろしくお願いします」
ニーナは長い睫毛を伏せ、深くレクセルに頭を下げた。
「本当に、母のことはずっと気になっていて。母は妙に頑固で、心配性で。ですから、旦那様から話を持ち掛けてもらったほうが助かります」
「そうか……。なら、今日のうちに電報を打ってみる」
「ありがとうございます」
顔を上げたニーナの表情は、珍しくとても嬉しそうだった。柔らかく目を細められ、レクセルは咳払いして顔を逸らす。思わず動揺したレクセルは、テーブルに置いていた新聞を広げて平静を装った。
「言っておくが、返事次第では断られるかもしれないからな」
「それでも有り難いです」
「そうかよ」
新聞の見出しには、エルシャの南にある島国、バルハから皇族が訪れることが記されている。大した記事ではないが、最近は見出しになる大きな出来事がないのだろう。
「あの、旦那様」
「なんだ」
「話は戻るのですが、パーティーに臨むためにひとつお願いが」
彼女からの申し出は珍しいな、とレクセルはちらりと視線をニーナに向ける。
「ドレスならヒルダに頼めばいいだろ。金は払う」
「違います。その、分かる範囲で構いませんので、出席者の方々の情報をお教えください。頭に入れておきたいんです」
予想外の答えが返ってきてレクセルは苦笑するしかない。やはり彼女は頭が良すぎ
る。というより気遣いすぎだ。
「本当、真面目な奴」
レクセルはぼそりと呟いた。
「え?」
「なんでもない。近いうちに資料を作らせるから、少し待ってろ」
「はい。よろしくお願いします」
彼女は家庭教師をしていただけあって、礼儀作法は大丈夫だろう。むしろこちらが指摘されそうだ。ただ、心配なのは身だしなみだ。彼女の場合は、なんというか地味だから。
(パーティーの前にどこか買い物に連れだすか)
いつの間にか朝食を食べ終えたニーナが、手際よく片づけをしていく。彼女の姿を目で追いながら、レクセルは考えるのであった。
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