第十六話
客人たちが帰宅した後、ニーナは黙々と食器を洗っていた。賑やかだった食卓を思い返せばニーナの口元が自然と綻ぶ。あんなに大勢で、食卓を囲んだのはいつぶりだろうか。
レクセルの同僚たちは皆楽しい人たちで、仲の良さが伝わってきた。会社設立時のメンバーだから付き合いが長いのだろう。レクセルは相変わらず仏頂面だったが、会話は弾んでいた。ヒルダもいつの間にか彼らに馴染んでいたし。特にダリアはヒルダの店に興味があるようで、今度彼女の店を訪れると言っていた。
ニーナは昔からヒルダが作る服が好きだ。シンプルで洗練されている。そして動きやすい。地元にいた頃から、ヒルダは服を作ることが好きでお洒落だった。彼女は何をするにも手先が器用で、お針子として働き出してからもすぐに頭角を現した。
(ヒルダのお店、もっと人気が出てもおかしくないんだけど。……やっぱり、あの噂が邪魔しているのかしら)
あの噂、とはヒルダが今の店を持つに至った経緯にある。
ニーナが眉根を寄せて難しい顔をしていると、風呂上がりのレクセルが傍にやってきた。石鹸に練り込まれたラベンダーの香りがふわりと鼻先を掠める。
「どうされましたか。あ、お茶を淹れましょうか」
「後でいい。……食器拭くから、さっさと寄越せ」
「大丈夫ですよ。すぐに終わりますから」
どうやら彼は手伝いに来てくれたようだ。
「料理、たくさん作ってくれただろ。構わない」
ちらりとレクセルの横顔を見上げる。濡れた前髪が妙に色っぽくて、ニーナは慌てて視線を手元に戻した。一方、レクセルはさっさと食器を寄越せと片手を伸ばしてくる。
これは意地でも引かないなと察したニーナは、大人しく彼の手を借りることにした。
「あの、今日は皆さんとお話しできて、とても楽しかったです」
「あいつら、うるさかっただろ」
「いえ。ヒルダも楽しそうでした」
「ふうん。でもあいつ……いや、なんでもない」
何かを言いかけたが口を噤んだレクセルに、ニーナは首を傾げる。
「ヒルダ、何か失礼なことをしましたか?」
「いや、その、なんだ。敵意は感じないんだが、見張られているというかなんというか」
レクセルの台詞に、ニーナは苦笑した。
「もしかしたら、わたしを心配しているのだと思います。彼女は心配性なので。……その、わたしが職を失った理由を、ヒルダとイーリスには話してありますから。旦那様がどんな方なのか、気になるのだと思います。あっ、もちろんとても安心できる方だということは伝えてあります」
失礼な言い方になってしまったかもしれないと、ニーナは言葉を付け加えたが、彼の眉間にはすでに皺が寄っていた。
「……あの、すみません。わたしの言葉が悪かったです、旦那様は何も悪くないのに」
「別にそういうわけじゃない」
「でも、眉間に皺が寄っていますよ」
指摘すると、レクセルの皺はさらに深くなった。
「元々こういう顔だ! ほら、手が止まってるぞ」
「あ、は、はいっ」
何故か怒鳴られ、ニーナは肩を竦めて急いで食器を洗っていく。
「あんたさ」
レクセルは拭いている食器に視線を落としたまま、言いにくそうに口を開く。
「その……。形だけとはいえ、結婚して良かったのか」
「え?」
思いがけない台詞にニーナは目を瞬かせた。そして顔を上げてレクセルを見る。
彼は手を止めて、ニーナを気まずそうに見下ろした。
「夕食の時に気づいた。あんた、故郷に恋人がいたんじゃないのかって」
ニーナは翡翠色の目を大きく見開いた。
(どうして気づくの。もう、どうにもならないのに。もう、レオはいないのに)
誤魔化して話を流してしまおうと考えたが、レクセルの真っすぐな目を前に、それは出来なかった。観念するように目を閉じれば、睫毛が震えた。
「……確かに、いました。とても大切な人でした。結婚の約束もしていました」
レクセルが息を呑んだのが気配で分かった。
「なら、なんで――」
ニーナは洗っていた皿をするりと手から離した。水を張った桶の中で、皿はゆっくりと沈んだ。
「もう、彼はいないからです。レオは留学先で海難事故に遭い、帰らぬ人となりましたから」
努めて冷静に話せ。もう過去のことだ。振り切って前に進むしかない。だからこの結婚を受け入れた。ニーナは無理やり笑みを作った。
「だから、旦那様が気を砕く必要はありませんよ。全て納得した上で、自分の意思でこの結婚を受け入れましたから」
「なら、なんで泣いてんだよ」
「え?」
見上げた先にあるレクセルの顔が、くしゃりと歪んだ。そしてぼやけた。涙が、ニーナの頬を伝い落ちていく。
ああ、どうして泣いてしまうのかと、ニーナは眼鏡を外して袖で涙を拭った。
「すみません。年甲斐もなく、泣いてしまいました」
レオのことで、これ以上泣くまいとあの時誓ったのに。どうして思い出すだけで、こんなにも簡単に涙が出てくるのか。もう、過去のことなのに。
すると、温かな手が遠慮がちにニーナの頭に添えられた。
「……たまには泣いたっていいだろ」
ぶっきら棒な物言いなのに、彼の優しさが伝わってくる。
ニーナは小刻みに頷いて鼻を啜った。
冷たい様に見えて、不器用な優しさを併せ持つレクセル。異性に近寄られるだけで緊張していたのに、レクセルの手は不思議と安心する。
自分はおそらく、レクセルに心を許し始めている。
それが良いことなのか悪いことなのか、今のニーナには分からない。
涙が引っ込んだところで、ニーナは顔を上げてレクセルに礼を告げた。
「あの、もう大丈夫です」
「……そうか」
レクセルはじっとニーナの顔を見つめてから、手を離した。
「泣き顔、不細工だからあんま他所で見せないほうがいいぞ」
優しいと思った矢先にデリカシーのない言葉が飛んできて、ニーナはムッと眉を寄せた。
「今、そういうこと言いますか」
「言うね」
「泣いたっていいって言ったのは、旦那様ですよ」
「だから、家の中では構わない。他所で泣くのはやめろ。ほら、泣き終わったならさっさと洗って寄越せ」
先程感じた優しさは何だったのだろう。ニーナは嘆息して、再び食器を洗っていく。
とそこで、ニーナもレクセルに質問してやりたい気持ちになった。
「あの、わたしも旦那様に質問して良いですか」
「なんだよ」
「ダリアさんと付き合っていたんですか」
「……昔な」
「今は違うのですか」
「違う」
「どうしてですか」
「どうしてって、あんたなぁ。そういうこと聞くか?」
「聞きたいです。わたしはちゃんと答えたのに、フェアじゃないです」
レクセルは面倒くさそうな表情をして、溜め息をついた。
「言うね、あんたも」
「はい」
してやったり、とニーナは面白そうに微笑んだ。
「まあ……。あいつの事情も絡む問題だから詳しくは言えないが、おれとあいつは似た者同士って奴だな」
「似た者同士、ですか」
「ああ。傷の舐め合い、みたいなもんか。おれは母親失くしてから一人で。あいつは継母と粗利が合わなくて一人だったからさ。寂しさを紛らわしてくれる相手が欲しかったんだよ、お互いに」
レクセルは苦笑してニーナを横目で見た。
「それにお互い気づいて、ただの友人に戻った。今じゃ、過去のことを持ち出して堂々と厭味言ってくるような奴だ。男もとっかえひっかえして。早く落ち着けばいいのに」
「ダリアさん、人気あるでしょうしね」
「外見はいいからな。ただし、中身は男だぞあいつ。仕事ぶりは男顔負け、私生活でも男を振り回してる」
「ふふ。なんとなく想像できますね」
ダリアは華やかな容姿でいて、目には勝ち気さが溢れている。
「質問には答えたからな、これでいいだろ」
「はい、ありがとうございます」
いつの間にか洗い物も終わっていた。タオルで手を拭くと、指のささくれが引っかかってしまい思わず顔を顰めた。
レクセルはニーナの手に視線を向ける。
「どうしたんだ」
「あ、ちょっとささくれが」
「馬鹿、無理やり引っ張るなよ。ちょっと待ってろ。確かこのあたりに……ああ、あった」
リビングにおいていたキャビネットの中から、レクセルは小瓶を取り出してニーナに手渡した。
「知り合いからもらったオイルだ。保湿作用があるらしい」
「頂いて良いのですか?」
「構わない。どうせおれは使わないしな。ほら、さっさと風呂に入ってそれ塗って寝ろよ」
「は、はい」
用は終わったと言わんばかりに、レクセルはニーナに背を向けた。今から就寝するのだろう。
だが、去り際にレクセルがちらりと振り向いた。
「今日は助かった。……ありがとな」
そしてレクセルは二階へと上がっていった。
(もしかして、お礼を言うために皿洗いに付き合ってくれたのかしら)
ニーナはレクセルの背中を見送りながら、口元を綻ばせた。
不器用な男性だ。でも、やっぱり優しい人。ちょっと生意気で口が悪いところもあるけれど、レクセルの新しい一面を発見するたびに楽しくなる。
手のひらにある小瓶をきゅっと握りしめ、ニーナは脱衣所に向かった。
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