第十五話

 ニーナは郵便受けを開けて嘆息した。

 母に結婚の報告をしてから一度は返信があったものの、それ以降の連絡がない。

 結婚の本当の理由には触れていない。理由を口にすれば母は怒り、何より自分自身を責めるだろうから。だが、どんな理由であれ結婚は結婚だ。実は結婚前、母に挨拶をしにいくべきだろうとレクセルが申し出てくれたのだが、母に返信で断られた。病をうつしてはいけないからと。

 母の病状は一体どうなっているのだろう。主治医からは、変わりはないと連絡が来ているがそれでも心配だ。


(一度、先生の元を訪れるべきなのかしら)


 主治医の先生とは昔からの付き合いだ。住所も知っている。

 空の郵便受けをじっと眺め、ニーナは郵便受けの扉を閉じた。

 その夕方、ニーナは黙々と料理を作っていた。マルクスたちがやってくるからだ。

 テーブルの上に広げられたノートには、母から教わったレシピがぎっしりと記されている。パンはワインに合うように、なおかつ食べやすいように、スティック状にして軽い触感のものにする。オムレツにはジャガイモと玉ねぎをたっぷりと入れた。サラダは作り慣れたオレンジのサラダを選んだ。見た目も華やかでいいだろう。スープは豆と玉ねぎ、ニンジンを細かく刻んで煮込んだ。


(なんとか間に合いそう)


 掛け時計をちらりと見ると、呼び鈴が鳴った。玄関の扉を開けるとヒルダが立っていて、ニーナを認めると笑顔を向けてくれた。準備を手伝うため、皆より一足先に来てくれたのだ。


「ヒルダ、いらっしゃい」

「お招きいただきありがとう、ニーナ」

「ごめんね、早めに来てもらって」

「いいのいいの。仕事もちょうどキリが良かったし、気にしないで。あと、頼まれてた服を持ってきたから、準備が終わったら着替えてみせてね」


 ヒルダは手にしているトランクケースを持ち上げてみせた。


「ありがとう! さ、入って入って」


 ヒルダを中に案内すると、彼女は興味津々といった様子で、きょろきょろと室内を見渡す。


「なんか、シンプルな家ね」

「旦那様は、あまり家に興味がないようだから」


 どうにもこの家を購入するに至った一番の理由は、車を置くことのできる大きな倉庫があったからだそうだ。つまり倉庫が一番で家は二の次。そのおかげで、本当に必要最低限のものしか置かれていない。そしてニーナはあくまで仮初めの妻であるため、今後のことを考え物は増やしていない。


「ふうん。ま、男の人なんてそんなものなのかもね」


 ヒルダはトランクケースを床に置いて呟いた。そしてニーナから受け取った白のテーブルクロスを敷く。一方ニーナは、たまには花くらい飾っても良いだろうと、花瓶に花を挿してみた。


「少しは華やかになったかしら」

「うん、いいと思う。でも、わたしまでお邪魔して良かったのかしらね」

「声をかけてきたのはマルクスさんたちだし、いいと思う。それにわたし、ヒルダがいてくれると嬉しいわ。落ち着くもの。慣れない人は緊張するし」


 素直にそう告げると、ヒルダは表情を綻ばせてニーナに抱き着いた。


「ニーナ、好きよ。あの仏頂面にはもったいないくらい」

「ぶ、仏頂面って」


 ニーナは思わず噴き出した。


「旦那様は、ずっと仏頂面というわけでもないわよ」

「そうなの?」

「うん」

「ふーん。じゃあ今日、観察してみようかしら。それより今日のメインは何?」

「アクアパッツァよ。みんなが揃ったら、火を通すわ」


 メインは何にするか悩んだが、市場で良い魚が目に入ったのでアクアパッツァに決めた。

 買ってきた魚はすでに下処理してある。 


「楽しみだわ」


 ニーナとヒルダは顔を見合わせ、どちらからともなく微笑んだ。

 準備を終えた後、依頼していた服を試着したりしていると、あっという間に日が暮れていた。



「お邪魔しまーす」

「邪魔するなら帰れ」

「そうね、今すぐ帰るべきだわ」

「社交辞令だろ、おまえら!」


 賑やかな仕事仲間を引きつれ、レクセルは玄関の扉を開ける。


「先にお邪魔しています」


 レクセルたちを出迎えたのはニーナではなく、彼女の友人ヒルダであった。


「あ、ああ」


 いつも出迎えてくれるのがニーナであったため、レクセルは反応に出遅れた。意識していなかったが、いつの間にか習慣として刷り込まれているようだ。やや戸惑った表情のレクセルを、ヒルダが興味深げに見上げた。


「ニーナが美味しい食事を用意してくれてますよ」

「やったね! あ、これ買ってきたワイン。みんなで飲もう」


 ダイニングへ入ると、テーブルの上にはたくさんの料理が並んでいる。ニーナは、鍋に入っているスープを皿に移しているところだった。


「あ、お帰りなさい。皆様、お仕事お疲れ様です」


 白いエプロンを身に着けたニーナは、皆に会釈した。テーブルの上には人数分のグラスが既に用意されている。レクセルは鞄を置くと、買ってきたワインを開ける準備に取り掛かった。ワインを客に振る舞うのは、昔から主人の役目である。


「美味しそう! オレンジのサラダ、珍しいわね」


 席につきながら、ダリアが声を弾ませた。


「わたしの故郷ではよく作られます」

「ニーナさんはどこの出身なの?」

「アルギスです」

「ああ、なるほど。南は果実が豊富だものね」

「はい」

「あっ! リク、まだ乾杯してないでしょ! なに勝手につまみ食いしてんのよ!」

「……美味い」


 いつのまにか席に座っていたリクが、指でサラダをつまみ食いしていた。皆、呆れた視線を彼に向ける。


「まったくおまえは」


 レクセルはリクの頭頂部に軽い拳骨を落とすと、皆のグラスにワインを注いで回った。

 そして自身も席について、グラスを持った。


「あー、じゃあ乾杯」

「乾杯!」


 レクセルに続き、皆は楽し気な声を上げてグラスに口をつけた。


「あーっ、美味い! 仕事終わりの一杯は最高だね。ニーナさん、料理を頂いても?」

「はい、遠慮なく召し上がって下さい」


 ニーナはマルクスに頷くと、メイン料理を作るべく席を立った。


「ん、オムレツうまっ!」

「ね、マルクス。サラダも美味しいわよ。レクセルったら。こんな美味しい食事を毎日食べれるなんて、ほんと贅沢者ね」

「……ダリアは料理、下手だから」

「ほんとほんと。ダリアの料理は、壊滅的」

「あんたたち、わたしに喧嘩売ってんの!?」

「おい、おまえら静かに食べろよ」


 どこにいても騒がしいマルクスたちに、レクセルは呆れた目を向けるしかない。


「仲が良いのね、皆さん」


 静かに食事をしていたヒルダが、彼らを見てぽつりと呟いた。


「そうか?」

「長年の付き合い、って感じね」

「まぁ、言われてみればそうだな」


 レクセルはマルクスたちの顔をそれぞれに眺めて頷いた。


「会社を立ち上げたメンバーだからな、腐れ縁だ。そういうあんたも、あいつとは仲がいいんだろ」


 キッチンに立つニーナの後ろ姿に、レクセルは視線をやった。


「ええ。ニーナは控えめだけど、賢くていい子でしょ。昔から誰よりも気遣いができて、優しいのよ」


 ヒルダは微笑を浮かべた。だがその声は僅かに哀感を帯びていて、ニーナを見つめる彼女の目は何かを案じているようだ。

 案じる――自分との結婚をか。いや、何か違う。もちろんそれもあるのだろうが、もっと大切な何か。自分には分からない、何かだ。


「へぇ。本当にニーナさん、レクセルには勿体ないなぁ」


 するとヒルダの横に座るマルクスが、ほんのりと頬を赤く染めて大きく頷いた。マルクスは酒を飲むとすぐに顔が赤くなる。レクセルは思考を一旦中断させた。


「そりゃ悪かったな」

「ニーナさんに比べてこいつなんてさぁ、昔っから暴君なわけ。おれらをこき使うわ、無茶振りするわ、もーそりゃ大変で」

「そうそう。皆で深夜まで仕事場に残ったり、顧客を集めるためにひたすら歩いたり。ふふ、懐かしいわねえ」

「皆さん、苦労されたのですね」

「すごい大きな魚! ニンニクの良い匂い!」


 ニーナがオーブンで焼いたアクアパッツァを、フライパンのまま持ってきた。オーブンを離れても、スープがぐつぐつと煮立っている。


「市場で良い魚を見つけたので」

「本当にニーナさんは料理が上手ね」

「母が料理上手なんで、そのおかげです」

「へぇ、羨ましいなぁ。わたし、なんでか料理できないのよねぇ」


 ダリアは首を傾げて呟いた。


「ダリアの料理はある意味天才。ボスが風邪をひいた時、ダリアの手料理に殺されかけたとボスが言ってた」


 リクの台詞に、フライパンを置いたニーナの手が一瞬止まった。束の間、妙な沈黙が落ちた。


「そ、そんなこともあったかしら」


 ダリアは頬を引きつらせながら、横に座るリクの脚をテーブルの下で蹴った。レクセルは眉間に皺を寄せたまま、ワインを口に含む。

 リクは本当に空気を読まない。悪気がないのは分かっている。彼はただ事実を告げただけだ。


(いや、ちょっと待て。別に、おれが気にする必要はないだろ)


 そもそもレクセルが慌てる必要はない。何せ結婚するにあたり、互いに干渉しすぎないという決めごとがある。互いに割り切った関係だ。彼女もそれを了承した。だから気にしなくていい。

 ちらりとニーナに視線を向ければ、彼女は黙々と魚を切り分けていた。いつも通り淡々と手際よく。表情に変化の兆しは何一つ見られない。


(ほらな)


 安堵したのと同時に、言い知れぬ靄のようなものが胸に蠢いた。口の中で、ワインの渋みが増したような気もする。よく分からない何かに、レクセルは内心で首を傾げる。


「まぁ、うん。ダリアは修行を積むべきだな。見ろ、このアクアパッツァを! 食べなくとも、魚介の旨味が伝わってくる!」

「いや、食べなきゃ旨味は分からないでしょ」


 空気を元に戻そうとするマルクスに、ヒルダが的確な指摘をして皆の笑いを誘った。

 こうした気まずい雰囲気の時、マルクスはいつも場を取り持ってくれる。相変わらず社交性の高い男だ。

 レクセルは胸に感じた違和感はひとまず置いておいて、ニーナが差し出してくれたアクアパッツァを一口食べた。魚の白身はふわりと柔らかく仕上がっていて、塩、ニンニクと貝の旨味が絶妙に合わさっている。ニーナが作る料理は、本当に全て美味しいと思う。


「んーっ、幸せ! 美味しい」


 ダリアは頬に手を添えながら目尻を下げた。それを見たニーナは、良かったと胸を撫で下ろした。


「うん、本当に美味しいよ」

「あ、ありがとうございます。マルクスさん」

「ニーナの作る料理は、昔から美味しいの。この間お会いしたお店の夫婦も認めてるわ」

「確か、彼らも幼馴染みと言ってたな」

「ええ。あ、ニーナ。眼鏡が曇ってるわよ」

「あ」

 

湯気で眼鏡が真っ白に曇ってしまい、ニーナは眼鏡を外した。食事に夢中であるリク以外の視線がニーナに集まる。

 白い肌に映える翡翠色の大きな瞳。下がり気味の目尻は優しさを滲み出し、けぶるような睫毛が肌に影を落としている。風呂場で目にした時よりも、はっきりと彼女が

見えた。


「ニーナさんって、眼鏡で顔が隠れちゃって分かりにくいけど綺麗よね」


 ダリアがニーナを見て、納得したように頷いた。レクセルはハッとして、ニーナから視線を逸らす。そんなことは分かっていたことだと思いつつ。


「そ、そうでしょうか」


 ニーナは恥ずかしくなったのか、袖でレンズを拭って慌てて眼鏡をかける。


「わたし、初めて見た時に思ったの。まずスタイルがいいし、眼鏡を外したら綺麗だろうなって思った」

「いえ、そんな」

「ニーナは昔から綺麗よ。村でも人気だったもの」


 フォークで貝殻を外したヒルダが呟いた。何故だか、ちらりとレクセルを見て。まるでレクセルの反応を窺う様に。レクセルは不機嫌そうに眉根を寄せる。


「そんなことないわよ。この通り赤毛だし、からかう人も多かったじゃない」

「でも、恋人の一人や二人はいたんでしょう?」


 ダリアの何気ない問いに、ニーナの手からフォークが滑り落ちた。カラン、と音を立ててフォークの持ち手が皿にぶつかる。


「あら、図星ね」


 ダリアは茶目っ気たっぷりに目を細めた。


「す、すみません。失礼しました」


 ニーナはぎこちなさそうに笑ったが、桃色の唇が震えたのをレクセルは確かに捉えた。僅かな変化だったが、表情が一瞬強張った。


「おーいダリア。お喋りもいいけど、さっさと食べないとリクに取られるぞ」

「ちょっとリク、これはわたしの分よ!」


 いつの間にか綺麗に皿を平らげたリクが、ダリアの皿に手を伸ばしていた。マルクスが教えてやらなければ取られていただろう。ダリアは目尻を吊り上げ、リクの手を叩いて撃退した。

 どこまでも煩い連中にレクセルは眉を顰める。一方ニーナは、面白そうに微笑みながらダリアとリクを見つめていた。先ほどのぎこちない表情ではない。普段通り、静かで控えめ。決して前に出ることはない女。

 けれどあの一瞬の表情を、レクセルは過去に見たことがある。ニーナの料理の腕を誉めた時、彼女は泣いた。同じだった。深い悲しみに染まった、ひどく傷ついた表情。まるで氷の壁面が粉々にひび割れたような。

 あの時は、何故料理を褒めただけで泣くのか疑問だったが、何か分かったような気がする。彼女には過去に恋人がいたのだ。それは今の態度から明らかだ。今となっても、彼女の心を乱すほどの誰かが。

 とそこで、再びヒルダの視線を感じた。一体何なんだと睨む様に視線を返すと、彼女は肩を竦めて食事を再開させた。


(……なんなんだ、こいつは)


 レクセルはヒルダに良い印象を抱いていない。初対面で真っ向から睨まれた。妙にむしゃくしゃする気持ちを抱きつつ、レクセルは無言のままパンを齧るのであった。


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