第十四話


「どうした、ニーナ。なんか顔色悪いぞ」


 キッチンへ戻ると、ユリウスが額の汗を腕で拭いながら振り向いた。


「う、うん。ちょっと、予想外の出来事が」


 ニーナはニーナで、別の緊張の汗が額に浮かんでいた。


「ねえニーナ! あの人が旦那って、本当なのっ!?」


 イーリスが興奮した様子でキッチンに戻ってきた。その言葉に、ユリウスがキッチンから身を乗り出して客席を覗く。


「どいつだ。三人いるじゃねえか」

「み、見なくていいから。後からちゃんと、説明するから。ほら仕事、仕事!」


 ニーナはユリウスたち夫婦の腕を引っ張って後ろへ下げた。後で絶対に説明しろよという視線を背中にひしひしと感じつつ、ニーナは平常心を意識して料理をせっせと運ぶ。しかし、自分としてもレクセルがいるテーブルが気になる。なにしろ、ヒルダがあのテーブルから動いていない。形だけの結婚とはいえニーナの結婚を、レクセルをヒルダは快く思っていない。以前の会話でそれは感じている。ヒルダは昔から喧嘩っ早いので、レクセルにつっかかるようなことはしていないだろうか(すでに先ほど突っかかったところであるが)。

 だがヒルダがメニューを指さしているところをみると、料理について説明してくれているようだ。ニーナの視線に気づいたヒルダが顔を上げてニーナに手を振った。


「ニーナ、注文だって」

「う、うん」


 ニーナはぎくしゃくした足取りで、レクセルたちのテーブルに向かう。レクセルは気まずいのか、腕を組んで窓の外を眺めていた。


「すみません、さっきは煩くして。おれらはレクセルの元で一緒に仕事しています。おれはマルクス、彼女がダリア、彼がリク」


 話を切り出したのは、栗色の髪をした優しい風貌の男だった。


「こ、こちらこそはじめまして。わたしはニーナと申します。挨拶が遅れて申し訳ありません」

「いえいえ。奥さんの仕事先を把握してないこいつが悪い」


 マルクスは笑顔のままレクセルを指さした。レクセルはいつもに増して仏頂面である。ニーナは苦笑した。とそこで、ぼさぼさ頭のリクと呼ばれた男に見覚えがあり、ニーナは目をぱちくりさせた。確か、バスの二階席で話しかけてきた不思議な男性だ。


「リクがどうかしましたか」

「あ、いえ。以前、バスの中で少し会話を。その、乗り心地についてなど。旦那様の会社の方だったのですね」

「そうだったか?」


 だが彼は覚えていないらしい。リク以外の三人は揃って呆れた目を彼に向けた。


「リク。出会った人間誰彼構わず、仕事のためとはいえ質問攻めにするのはやめろと言ったじゃないか」

「何を言う、マルクス。仕事のためだからいいだろう」

「……人の話、本当に聞いてないな」

 

 三人は呆れたように大きなため息をついた。


「すみません。リクは車のことしか頭にないんで。時々トラブルを起こすんです」

「あはは」


 バスの中で詰め寄られたことを思い出し、ニーナは苦笑した。


「あっと、そうだ注文だ。すみません、足を止めさせて。ええとトマトとバジルのピザと、ヒルダさんおすすめのリゾット。ええと、それから」

「わたしとリクはクロックムッシュとサラダ。あと、コーヒーを人数分お願いします」


 美しい金髪を複雑に編み込んだダリアが、マルクスの言葉に続いた。彼女はニーナを見上げ、黄金色の目を細めて微笑んだ。同性でも思わずドキリとしてしまう、自信に満ち溢れた優艶な微笑み。なんとも美しい女性だ。ニーナの頬がほんのり赤みを帯びる。


「畏まりました」


 ニーナは短く答え、キッチンへと戻った。



「なんか意外だな。おまえに似合わないというか、もったいない」

「……ちょっと会話しただけで、何が分かる」


 ニーナの後ろ姿をちらりと見送っていると、マルクスがにやりと笑った。レクセルは眉を顰める。


「わかるさ。奥さんには良い友人がいるからね。なんせ、女性一人でおれらを威嚇してくるくらいだ」


 マルクスは立ったままのヒルダを見て、面白そうに口端を持ち上げた。


「あら。見る目がありますね、マルクスさん。ニーナとは同郷で昔から仲がいいんです。ちなみにこの店のご夫婦も同郷よ。まさか、ニーナまでこっちに来ると思っていませんでしたけど」


 ヒルダはもの言いたげな目でちらりとレクセルを一瞥した。ちくりと責めるような目だ。

 言っておくが、これは互いの利害が一致した故の結婚だ。しかし最近になって、多少の罪悪感が芽を出しつつあるのをレクセルは自覚している。特に、クルキ夫妻を訪れたあの日から。

 レクセルは何も言わず、ヒルダの視線をただ受け止めた。するとヒルダは片眉を僅かに持ち上げ、会話に区切りをつけるように嘆息した。


「このお店の料理、贔屓目なしに美味しいですよ。ごゆっくり」


 ヒルダはそう言うと、大人しく席に戻った。小柄な女であるが、中々肝っ玉が据わっている。


「素敵なお友達ね」


 着席したヒルダの後ろ姿をちらりと眺め、ダリアがくすりと笑った。


「ニーナさんも、想像していた人とは全然違うし。なんだか興味が湧くわね。制服のパンツ姿もすごく似合ってる。野暮ったくないし、黒が綺麗に見えるわ」

「そうか?」


 お洒落や流行に敏感なダリアが、働いているニーナの姿を見ながら呟く。レクセルは、早く食事を済ませて会社に戻りたいと思った。契約上の妻とはいえ、元恋人と同じ空間にいるというのは、さすがのレクセルもなんだか落ち着かない。だがニーナには、結婚生活を始めるにあたって互いのプライベートには干渉せず、基本は自由にしろと言っている。だから自分とダリアとの過去をニーナが知ったところで、彼女は何の反応も示さないだろう。

 そう考えると、もやっとした何かが胸を覆った気がして、レクセルは一人首を傾げた。


「あーあ、なんかいいなあ。最近おまえ、なんだかんだ真っすぐに家に帰るし、ニーナさんの美味しい料理を堪能してんだろ」


 マルクスがにやにや笑いながら肩を肘で突いてくるので、胸に感じた違和感は気に留めないことにして、代わりに鬱陶しそうな目をくれてやった。


「おれも食べたいなぁ。奥さんの美味しい料理、食べたいなぁ。――あ、いいこと思いついた。唐突すぎてお祝いもできてないから、お祝い持っていく代わりに家に招待しろよ」

「はぁ?」


 レクセルは盛大に顔を顰めた。すると、ダリアも面白そうに目を輝かせる。


「あら、いいわね。久しぶりにみんなで遊びにいきたいわ。ねえ、リクもそう思うわよね」

「……美味しい食事が提供されるなら構わない」


 寝癖がひどいリクは、ダリアをちらりと見て頷いた。


「ちょ、待て、おまえら」

「大丈夫よ。わたし、何も言わないわよ。そんな鬱陶しいことはしないわ」

「いや、そういうことを言ってるわけじゃない」

「じゃあいいじゃない」

「あいつにも都合ってもんがあるだろ」


 するとタイミングが良いのか悪いのか、ニーナがクロックムッシュを運んできた。


「ねえ、奥さん。今度家に遊びに行ってもいいですか。こいつが許可を取れっていうから」

「おい、マルクス!」

「え、あ、え……? 自宅に、ですか」


 ニーナはクロックムッシュを差し出すと、困惑顔でレクセルの顔色を窺った。

 レクセルは断れ、断れとニーナに念を送るが、悲しいことにレクセルの表情はいつも不機嫌顔なので、はっきりと伝わらなかったらしい。


「旦那様が良いのなら、わたしは構いませんが」


 レクセルは天井を仰ぎ、マルクスたちは満足そうな顔をした。

 かくして数日後、マルクスたちが自宅にやってくることになった。何故だかその場にいたヒルダも一緒に。


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