第二章
第十三話
「あ、芽だ」
朝食を終えたニーナは、庭の水やりをしようとジョウロを片手に庭に出ていた。一週間程前に植えたローズマリーの種が、小さな芽を出していた。クルキ夫妻から頂いた種だ。ニーナはしゃがみ、指で芽を優しくつつく。
雑草が我が物顔で占領していた庭は、レクセルの助けもありすっきりと片付いた。雑草ばかりと思っていたのだが、中にはシダやヒューケラも混じっていた。
レクセルが言うには、前の家主が残していったものだそうだ。だが家を買い取ったレクセルが手入れを一度もしなかったので、いつの間にか雑草が多い茂って、存在を忘れ去られていた。
(旦那様は、仕事と車しか興味がなさそうだもの)
すると玄関の扉が開き、スーツ姿のレクセルが現れた。
「あ、旦那様」
「しゃがみこんで、何をしてるんだ。気分、悪いのか?」
「違います。ほら、芽が出たんですよ。ローズマリーだけですが」
「へえ」
レクセルはニーナの横に並んだ。
「律儀に植えなくても良かったのに」
そう言葉にするレクセルの横顔は、心なしか穏やかに見える。ニーナは小さく肩を揺すって笑った。
「なんだよ」
振り向く顔は、いつもの仏頂面だ。
「いえ。旦那様は、クルキ夫妻のことになるとなんだか可愛らしいと思いまして」
「はぁ? どこがだ」
凄まれたが、ニーナは以前のように狼狽えることはない。クルキ夫妻の元を訪れ、互いに腹を割って話してからというもの、レクセルとニーナの間に流れる空気は少し変わった。
ニーナは、レクセル相手なら体が強張らなくなった。ほんの些細なことだが、ニーナにとっては大きな進歩だ。そしてレクセルもほんの少し、ニーナに対して砕けたような態度で接してくれている気がする。なんというか、友人に接するような。新しい友ができたようで、ニーナは嬉しかった。
穏やかな表情を崩さないニーナをレクセルはさらに不機嫌そうに睨むと、その場に立ち上がった。
「勝手に言ってろ。……行ってくる」
「はい、気を付けていってらっしゃいませ」
ニーナも立ち上がり、レクセルの背を見送った。
春の訪れと共に、二人の関係は少しずつ変化しつつあった。
そしてニーナの生活環境も、変化を見せていた。ニーナは昼間、イーリスの店で給仕として働きはじめていた。
「いい。ニーナ、やっぱり似合ってる。わたしの目に狂いはなかったわね」
「そ、そうかな」
ニーナは、頭のてっぺんから足のつま先までヒルダに見つめられ、恥ずかし気に肩を丸めた。今、ニーナは白いシャツに黒いベストを重ね、細身のズボンを穿いている。
これらは全て、ヒルダお手製だ。当のヒルダは片手にティーカップを持ち、自身が生み出した作品に不備や改善点がないか、穴が開くように見つめている。
「本当はその眼鏡も外して欲しいけど、そうなれば男どもが煩いから眼鏡は大正解。にしてもニーナ、本当に足が長いわね」
「背が高いだけよ。わたしからすれば、ヒルダみたいに小柄なほうが可愛くて羨ましいわ」
「そう? お互いないものねだりってわけかしら。でもね、本当にニーナはスタイルがいいの。胸からお尻のラインも綺麗だし」
「ちょっとヒルダ! やらしい目つきでニーナを見ないでよ」
イーリスが、手にしていたトレーでヒルダの頭を軽く叩いた。
「いたっ。何よ、誤解を招くような言い方はやめてほしいわね。わたしは、自分の作品を追求してるだけよ」
「そーですか。そろそろお店開けるから、大人しくしててよね」
「はいはい」
二人のやりとりにニーナは苦笑した。今日は、ヒルダがイーリスの店に遊びに来ている。ヒルダはこの店で働く従業員の制服を全て手掛けている。黒を基調とし、人によって少しずつデザインを変えている。ちなみにイーリスは、パンツではなくスカートだ。個人の雰囲気に合わせてスタイルを変えるのが楽しいらしい。そんなヒルダは店のメンバーから影の従業員と認定されており、開店前から本を持参して居座っている。邪魔をせず、なおかつ食事をするならば許されるらしい。
「ヒルダ、いつものやつでいいんだな?」
「うん、よろしく」
キッチンから顔を覗かせるのは、イーリスの夫であるユリウスだ。ユリウスとイーリス、ヒルダ、ニーナの四人は同郷で幼馴染みだ。それぞれ嫌という程、互いを知っている。ちなみにヒルダの‟いつものやつ”というのは、きのこをたっぷり使ったリゾットだ。
イーリスは仕事をするべくヒルダから離れ、食器とグラスの準備。ニーナは赤いチェック柄のテーブルクロスを敷いて回る。キッチンではユリウスと、コック見習いのブルーノが料理の下準備に取り掛かっている。ヒルダは一人、静かに本を読んでいた。
振り子時計が十二時を報せたので、ヒルダは‟オープン”と書かれた木の看板を扉に引っ掛けた。
この店は大通りから一筋外れているが、ユリウスの作る料理が安くて美味しいので、割と多くの客がやってくる。
さっそく三人の紳士連れがやってきて、続いて女性の二人組。常連の老夫婦もやってきた。イーリスに手助けしてもらいながら、粗相がない様にワインを注いで回る。キッチンからは、石窯でピザを焼くいい香りが漂ってくる。
すると窓の外から、中を窺っている人影があった。イーリスは扉を開け、人数を確認する。客は四人だ。カウンターを除けば、四人掛けのテーブル席は残り一つだけ。大きな店でないから、席が埋まるのはいつもあっという間だ。
ニーナはキッチンで、注文の前菜をトレーの上に載せていく。
「ここのお店、美味しいって評判なのよね」
「へえ、初めて来るなあ」
「……評判通り、美味しいとは限らない」
「リク、あんた本当に口には気をつけなさいよ。そのうち、後ろから刺されるから」
「ダリアこそ、言い方がきついから気を付けたほうがいい」
「はぁん!?」
入ってきた四人組のうち、一人は女性だった。何やら男性の一人と言い争いをしている。
ニーナは、老夫婦の元へ前菜のカプレーゼを運んでいく。
「お待たせしました」
「ありがとう。あんたも少しは慣れてきたようだね」
「はい」
「これからも頑張ってね」
「ありがとうございます」
老夫婦から励ましの言葉をもらい、ニーナの口元に小さな笑みが浮かぶ。
「ニーナ。あっちのお客さん、注文聞いてもらえる?」
「うん」
次の料理を取りに戻ろうと思ったが、イーリスがすでに運んでいた。すれ違うニーナは頷き、今しがた入ってきた四人組の元へ向かう。
「お待たせしました。ご注文はお決まりでしょう、か……」
ニーナはそこで言葉を切り、固まった。そして注文を頼もうとしていた一人の男も、ニーナの姿をみとめて固まった。朝、送り出した仮初めの夫が目の前にいたからだ。
レクセルは大きく目を見開いた後、気まずそうに視線を逸らした。ニーナも気まずそうに無言のまま視線を逸らし、俯いた。
「そういえば、この辺りの店だったか」
「……はい」
何故だか妙に恥ずかしくて、ニーナは顔を俯かせた。今朝は普通に喋れたのに。
店のことは随分前にレクセルに伝えていたが、この様子だと忘れていたようだ。
すると、ぎくしゃくする二人を見て男の一人が首を傾げた。
「どうしたんだよ。知り合いか?」
メニューを手に言い争いをしていた残りの二人も、ニーナに視線を向ける。ニーナはますます顔を上げられなくなり、レクセルに成り行きを任せることにした。
レクセルは興味津々な三人に顔を顰めながら、状況を説明しようと口を開こうとしたのだが。
「ちょっと、注文ならさっさと頼んでくださいよ。ニーナ、困ってるじゃないの。何、ひやかしですか?」
これまた状況を知らないヒルダが、ニーナの後ろから顔を出したのであった。威嚇するように。おそらく、自分が客に絡まれていると思ったのだろう。
一方、何も悪くないのに睨まれたレクセルは不機嫌そうに眉根を寄せる。
「は、冷やかしだ? 言いがかりもいいところだな。大体何なんだ、あんたは」
「この店の常連で、ニーナの友人よ。あんたこそ何なのよ。なんで、ニーナが困ってるのよ」
「ちょ、ちょっとヒルダ。本当に違うのよ」
「何が違うのよ」
すると、レクセルが顰め面のまま胸の前で両腕を組んだ。
「……夫だ」
「は?」
「だから、おれが彼女の夫だと言っている」
ヒルダは大きな目を激しく瞬きさせ、レクセルの顔をまじまじと見つめた。一方他の三人も、信じられない表情でレクセルとニーナ、両方を凝視している。皆、目を見開きすぎて、目玉が転がり落ちそうだ。妙な沈黙が流れる中、助けてくれたのはユリウスの声だった。
「おーい、ニーナ。これ頼むわ」
ニーナは気まずそうに一礼してから、その場から逃げ出した。
その後、レクセルたちのテーブルからは「はぁあああ!?」と叫び声があがった。
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