第十二話

 レクセルに連れてこられた店は、街の繁華街から、坂道を少し上った場所にあった。

 店に入る前、歩いてきた石畳の道をふと振り返れば、街が夕暮れ色に染まっていた。

 もうすぐすれば、街灯が光り出すだろう。


「この辺りならここが一番美味い」


 繁華街から少し歩くのに、店内は意外にも繁盛していた。レクセルは常連のようで、慣れた様子で席に着く。

 レクセルの洗練された外見に、女性客の視線が一瞬で集まるのが分かった。逆に男性客は不機嫌そうだ。

 当のレクセルは全く見向きもせず、置かれているメニューしか見ていない。


(やっぱりもてるわよね)

 

 レクセルは、お世辞にも愛想があるとはいえない。いつも眉間に皺を寄せている印象だ。海のように深い藍色の目は冷たく映るし、言葉遣いも粗野だ。普通なら近寄りがたいのに、何故か人を引き付ける妙な魅力がある。

 冷淡な態度が、端正な顔をさらに引き立てているのだろうか。

 そんなことを思っていると、レクセルに向けられていた視線が、いつの間にかニーナ自身に向けられていることに気づき、ニーナは慌てて顔を伏せた。

 なぜこんな野暮ったい女が一緒にいるんだ、という不可解に満ちた視線。

 やはり予想していた通りだ。

 せめて服をなんとかしなければと、早いうちにヒルダに相談しに行くことにする。


「おい、何が食べたい。好きなものを選べよ」

「は、はい」


 レクセルが俯くニーナにメニューを差し出したので、ニーナは慌てて目を通す。


「あの、おすすめは何でしょうか」

「肉が美味い。赤ワイン煮込み」

「あ、ならそれで」

「あんたが食べたいやつを選べよ。他にも何か選べ」

「え、あ、はい」


 何だろう、何が食べたいかなと考え、気になった品を三つ程申し出る。

 レクセルは頷くと、店員を呼んで料理とワインを注文してくれた。

 店員はすぐに赤ワインをボトルで持ってきてくれ、それぞれのグラスに注いでくれる。

 どうやら、ボトルで頼んだようだ。


「今日は助かった。……ありがとう」


 レクセルはワインを一口飲んだあと、ニーナに礼を告げた。ニーナは慌てて首を振る。


「い、いえ。こちらこそ、楽しかったですから」

「お節介だろ、あの人たち」

「……温かいご夫婦だと、思います」


 ニーナは一日を振り返りながら、僅かな笑みを唇に乗せた。


「あ。そういえば、ハーブの種を頂いたんです。庭の邪魔にならないところで、育ててみてもよろしいでしょうか」

「勝手にしてくれ。あ、倉庫の中まではやめてくれよ」

「はい」


 倉庫にはレクセルの愛車がある。ニーナはしっかりと頷いた。


「だけど、庭なんて荒れ放題だぞ。大丈夫かなのか?」


 レクセルの言うことは最もだった。

 彼は庭などに興味はなかったのだろう、放置していた結果、雑草しか生えていない。

 そもそも、庭といっても家と倉庫の間にある少しの空間だけだ。


「そうですね。まずは鉢植えから始めてみます。大きくなるまでに、庭を片付ければなんとか」  

「ああ、それが正解だな。まぁ、放置していたおれも悪いから、草むしりくらい手伝うさ」


 予想外の台詞が飛んできて、ニーナは口をぽかんと開けた。

 そしてまじまじと、レクセルの顔を二度見してしまう。

 するとレクセルの眉が、不機嫌そうに顰められた。


「なんだよ」

「え、あ、すみません。その、意外だったもので」

「……ポールに、少しは協力しろと言われたからな」


 レクセルは気まずそうに、視線を横の壁に逸らした。


「確かに、あんたに家のことを任せっぱなしだから。それに、倉庫にまで伸びてきてもらったら困るから、手伝う」

「あ、ありがとうございます」


 ニーナは戸惑いつつも、素直に礼を述べておいた。ここで遠慮すれば、さらに不機嫌にさせそうだ。


「お待たせしました!」


 すると若い男性店員が、溌溂とした声と共に、オムレツと玉ねぎのスープを持ってきてくれた。

 まん丸いオムレツにはぎっしりとじゃがいもが詰まっていて、中々食べ応えがありそうだ。

 レクセルがさっと取り分けてくれて、ニーナは有り難く頂くことにした。

 

「美味しいです」

「だろ。ここは、たいていなんでも美味いんだ」

「よく来られるのですか」

「前はよく来ていた。最近は、あんたが食事を準備してくれるから来てない」


 とそこで、レクセルはオムレツに食べながら呟いた。


「……もう、一か月くらい経つのか」

「あ……」


 二人が互いの目的のためとはいえ、結婚してから。


「結局、あんたと爺の接点はまだ分からないままだな」

「そうですね」


 レクセルの祖父、サミュエル・ベック。彼と自分の接点は、一体どこにあるのだろうか。


「はじめにあんたの家系も調べたが、特に何もわからないしな」

「特筆すべきことのない、普通の家庭でしたので」 

「あんたの母親に聞けば、何かわかるのかもしれないが。……挨拶にも行けていないしな」

「すみません」


 母には結婚したことを伝えている。もちろん、契約結婚ということは伏せて。

 母から返事は来たものの、自身の病を理由にレクセルとはまだ顔を合わせていない。

 まあそれもそうだろう……。娘の自分でさえ、彼女に会えるのは年に数回だけだ。

 母は病が娘に移ることを、ひどく心配しているのだ。

 そのうえ意地っ張りな人で、自分の弱っている姿を見せたくないらしい。

 そのことは、医師からの連絡で知っている。


「あんたの母親は、どういう人なんだ?」


 ふと、レクセルが尋ねた。


「母は……。厳しいですけど、優しいですね」

「どっちだよ」


 ニーナの説明に、レクセルは呆れた目でつっこんだ。

 

「あはは。ええとその、すでにご存じだと思いますが、母は家庭教師をしていましたし、亡くなった父は教師をしていました。なので二人とも、勉強と素行には厳しくて。まあ厳しいと言っても、優しく諭す感じと言いますか」

「ふうん……。できた人だな」

「旦那様のお母様はどういう方だったのですか?」

「おれの?」


 レクセルは目を瞬かせ、そして睫毛を伏せた。目元には陰りがある。

 しまったと思っても、もう遅い。

 

『おれと母親が肩身の狭い思いをしてきたことは事実だ』


 レクセルは非嫡出子。決して、順風満帆な人生ではなかったことは知っていたのに。


「え、あの、すみません。調子に乗って、立ち入ったことを聞いてしまって」

「……いや。あんたは知る権利がある。おれなんか、あんたのことを勝手に調べたんだからな。フェアじゃないだろ」


 レクセルは嘆息し、黒い前髪を掻き上げた。そして視線を自身の手元に落として、口を開く。


「母さんは……。元々、女中として働いてたんだ。そこで親父と出会って、おれを生んだ。女中を辞めたあとは、あんたと同じで工場で働いてたよ。でも、今よりも賃金が悪かった時代だ。おれを育てるために、夜の街でも働き始めた。でも、そこで病気をもらってぽっくり死んだ。……残されたおれは孤児院に送られるところだったが、偶然出会ったポールたちが面倒みてくれたんだ」


 楽しそうなざわめきの中、レクセルは静かに語った。

 レクセルは机に置いた拳を強く握りしめる。蘇る感情を、抑え込む様に。


「一度、父親のもとへ助けを求めに行ったことがある。母親の治療費を求めて。だが……門前払いだった。売女を助ける意味がどこにあるってな……」


 ――売女。

 その言葉を投げつけられたことのあるニーナは、唇を噛み、レクセルと同じように自身の拳を握りしめた。

 するとニーナの様子に気づいたレクセルが、困ったように、けれども弱弱しく僅かに笑った。


「なんであんたが、そんな辛そうな顔をするんだよ」

「…………です」

「?」

「わたしも、同じなんです」


 ニーナは小さく、消え入りそうな声で呟いた。

 レクセルには、言っておかなければならないと思った。

 この先、いつまでの結婚生活になるのかは分からない。

 でも、他人の誰かから伝わるより、自分のことは自分で説明しておきたい。

 今でも震える、思い出すだけで吐き気がする。

 だけど、自身の過去を正直に話してくれる彼に、自分も隠し事はしたくなかった。

ニーナは、意を決して面をあげた。


「わたしが、家庭教師をしていたことをご存じですよね」

「ああ」

「辞めた理由を、お調べになりましたか」

「いや、特に報告書にはなにも。……おい、まさか――」


 頭の切れるレクセルは、ニーナが何を言いたいのか分かったらしい。

 表情を険しくさせた。彼の纏う空気が、糸を張ったようにピンと張り詰める。


「黙っていて、申し訳ありません。わたしは……、その、勤めていた屋敷の主人が、泥酔して、それで――」


 手が震える。顔から血の気が引いていくのが分かる。


「……襲われたのか」


 レクセルは声を落とした。その声は、静かな憤りに満ちていた。

 ニーナは過去の映像を掻き消す様に、ぐっと瞼を閉じた。

 

「未遂で、済みました、が……奥様の不興を、買って」


 それ以上の説明は要らなかった。

 今度はレクセルは唇を噛み、ニーナにグラスを押し付けた。


「飲め。顔色が悪い」


 ニーナは小刻みに頷くと、両手でグラスを持って一気に呷った。……片手で持ったら、手が震えて飲めそうになかった。

 するとすぐに、食道から胃が熱くなる感覚がした。


「あんたが役に立たない眼鏡をしているのも、それが理由か?」


 ニーナの呼吸が整ってから、レクセルはニーナがかけている眼鏡を指さした。

 指摘されたニーナは、驚きに目を見開く。


「気づいていたのですか」

 

 すると、レクセルはなぜか気まずそうに視線を泳がした。


「いや、その……。風呂場であんたが転んだ時、あんた、ちゃんと見えてるって言っただろ。相当慌てていたから、覚えてないかもしれないが」

 

 あ、あの時……!

 ニーナは恥ずかしそうに両頬を押さえた。今にも穴に入りたい気持ちに駆られたが、あいにくここには隠れる場所などない。

 レクセルの言う通り、あの時は本当に焦っていたので、自分が何を言ったのか覚えていない。

 

「なるほどな。だが、これで納得がいった」


 あたふたするニーナには構わずレクセルは一人頷くと、空になったニーナのグラスにワインを注いだ。


「あ、ありがとうございます」

「いや……。嫌なことを思い出させてすまない」

「いえ……。隠していて、申し訳ありません」


 するとそこへ、空気を読まない明るい声が割って入った。


「お待たせしましたぁ! 当店一押し料理、子羊のワイン煮込みですっ」


 意気揚々と置かれた料理に、レクセルとニーナは顔を見合わせて互いに苦笑した。

 少しの会話だったのに、やけに疲れた。

 けれど、いつかは話さなければならないと思っていたことを伝えることができて、どこか安堵している自分もいる。

 ……彼が内心、どう思っているのかは分からないが。

 肉を切り分けるレクセルを眺めながら、ニーナは考える。

 今まで親友以外の誰にも言えなかったことを、それも異性に、どうして伝えようと思ったのだろう。

 似たような境遇だからか。それとも、自分は信じようとしているのだろうか――この人を。

 契約結婚をしている時点で、愛情なんてものは自分とレクセルの間にはない。

 けれども、信頼はできる。そう思ったから、レクセルも自身の過去を話してくれたのだろうか。

 自分たちは本当の夫婦になれやしない。でも、互いを少しだけでも、理解することはできるのではないか。

 ――そう、あくまで友のように。

 店の一押しメニューを食べるべく、ニーナは止めていた手を動かした。


 気が付けば、手の震えはいつの間にかなくなっていた。

 



 第一章、完

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