第十一話
「わたくしの自慢のお庭なのよ」
お茶を楽しんだニーナは、エリーゼに裏庭を案内してもらっていた。
ガーデニングがほぼ仕事だというだけあって、それは見事なものだった。
まず、驚いたのは庭の大きさだった。家のほうが、明らかに面積が小さい。
表から見た時はこぢんまりした家だと思っていたが、まさか奥にこんなにも大きな庭が隠れていたとは気づかなかった。
「……綺麗」
春の日差しを受けて、眩く、力強く輝く新緑。
薄紅色の薔薇は可憐に咲き誇り、足元には黄色いチューリップと、白いの勿忘草。
それだけでない。鼻を擽る花香の中に、ハーブの香りも混ざっている気がする。
「今はね、春の花が咲いてるの。あとは、ハーブが好きでね。ほら、料理にも使えるし、花が咲いたら可愛いでしょ? この黄色い花がヤロウ。あの辺りはローズマリー、それから夏になれば……」
エリーゼは明るい笑顔で、ニーナに草花の説明をしてくれる。そんな二人をよそに、ヴィッキーは庭を自由に散歩中だ。
「ねえ。もし興味があるなら、試しにハーブの種を持って帰らない?」
「よろしいのですか?」
「もちろんよ。あの子の家はそんなに土がないだろうから、鉢植えではじめてごらんなさいな。ハーブを育ててみるには、ちょうどいい時期だわ」
ハーブなら、庭にあっても困らないだろう。それに、料理の際にも役立ちそうだ。
「では、お言葉に甘えます」
「ふふ、全然構わないわ。でも、代わりと言ってはなんだけど、少しだけ二人でお話しても構わないかしら?」
「あ、はい」
エリーゼとニーナは、庭に置かれた木のベンチに腰かけた。
脚の長さが揃っていないのか、ガタガタと揺れる。
「ごめんなさいね。このベンチね、あの人の手作りなの」
「ポールさんの?」
「ええ。ガタガタでしょ?」
エリーゼは目を細めて、可笑しそうに笑った。彼女は座面に手を滑らしながら、言葉を続ける。
「数年前にね、都会での暮らしを辞めて、ここに引っ越してきたの。今でこそ納得できる庭になったけど、はじめは荒れ放題で、雑草を抜いたり蔦を切ったり、土を入れ替えたりと今よりも大変でね。休憩場所にすればいいと言って、作ってくれたの。不器用なくせにね」
そう言いつつも、彼女の眼差しは慈しみに満ち溢れていた。
「大切な、贈り物なんですね」
ニーナの言葉に、エリーゼは笑みをよりいっそう深めた。
「なんせ初めてだったのよ。彼が、自ら何かを作ってくれたことが。ポールはね、レクセルと同じで実業家だったの。今はもう引退したんだけどね。昔から頑固で、意地っ張りで、仕事一筋で、女心なんてちっとも分からない人で。プレゼントはいつも、‟好きなのを自分で決めろ”、よ。そういうのはプレゼントって言わないのよ。本当、何度別れてやろうかと思ったか」
「なるほど」
「絶対に、レクセルもそういうタイプよ」
「あはは」
絶対と言い切るエリーゼに苦笑すると、足元にやってきたヴィッキーの頭をニーナは撫でた。ヴィッキーは、ニーナの膝に顎を載せて、気持ちよさそうに目を閉じている。
まったく人見知りをしないらしい。
気持ちよさそうにしているので、ついでに首回りも撫でてやる。
「あなた、犬に慣れてるわね」
「はい。以前、勤めていた屋敷にもいましたので」
「屋敷?」
「あ……」
ニーナは要らぬことを言ってしまったと、気まずそうに口を閉ざそうとしたがもう遅い。
エリーゼの目が、ニーナの反応を窺うようにじっと据えられていた。
「……一時、家庭教師として働いていましたので」
心の動揺を悟られないように、ニーナはつとめて平然と答えた。
「やっぱりね」
「え?」
すると、エリーゼは納得したように呟いた。
「はじめは、元・良家のお嬢さんじゃないかって思ってたんだけど。……あのね、あなたの所作はね、まるでお手本のようにしっかりしているのよ。お辞儀の仕方、ティーカップの持ち方、歩き方。そして、決して主人の前に出ることのない、控えめな身の構え方」
「……あ」
「工場で働いていたというけれど、あなたの所作がなんとなく不釣り合いで。ごめんなさいね。夫の付き合いで、色んな場に参加する機会が多かったから、つい、癖で見てしまうの。気にしないで」
「そうでしたか」
ニーナは眼鏡の奥で睫毛を伏せた。
エリーゼはそれ以上追及せず、顎に手をやり、自身の足元を見つめる。何かを思案するように。
「ねえ、ニーナ。話は変わるけど、あなた、旧姓は何というの? あのサミュエルが、なんであなたを遺言に巻き込んだのか気になってね」
「ランデルです。ニーナ・ランデル」
「ランデル。聞き覚えがないわねえ」
一人、首を捻るエリーゼに、ニーナは気になっていたことをエリーゼに尋ねることにした。
今まで気になっていたものの、レクセルには尋ねにくかったことがある。
本当は、落ち着いたら自分で詳しく調べようと思っていたこと。
「あの、旦那様のお爺様とお知り合いだったのですよね。その、サミュエル様は、いったいどういう方だったのでしょうか。石油に関連したお仕事をされていたということは、旦那様からうかがっているのですが」
「知り合いというか、ポールにとったらライバルだったのよ」
「ライバル?」
「ええ」
エリーゼは深く頷き、真剣な面持ちでニーナの目を見つめる。
「あなたはあまり知らないようだから言っておくけれど、実業家の間で、サミュエル・ベックを知らない人間はいないでしょうよ。彼はその才覚で、名もない商人から、誰もが知る実業家になった人よ。晩年は石油業で名を残しているけれど、彼は様々な事業に携わっていたわ。それこそ世界最初――我が国のリチェット=カルドル鉄道にも、若くして出資者の一人として名を残しているわ」
ニーナは、眼鏡の奥で目を大きく見開いた。と同時に、知らなかった事実に肌が粟立つ。
指先が急速に冷えていくようだ。
もしや、自分はとんでもない人物に巻き込まれてしまったのではないかと、今更ながらに気づく。
「あなたのその反応は正解よ。注意なさい。レクセルのいう‟本家”は、石油業を奪ったあなたたちを、良い目では見ないでしょうからね。それに、否が応でも社交の場で巻き込まれるわ。まあ、レクセルは慣れているから気にしないでしょうけれど。それにね、あなたが思っているより、レクセルも業界内で注目されているわ。あの子はこんなことを言ったら嫌がるでしょうけれど、レクセルの才覚は、サミュエル譲りだとポールが言っていたわ」
「サミュエル様が、そこまで大きな存在な方とは、知りませんでした。いえ、知ろうとしなかった無知な自分が悪いのですが。それに正直、旦那様までもがすごい方とは……。その、普通の暮らしを、されていましたので」
と、そこでやっと気づく。目の前にいるエリーゼたち夫婦も、おそらく――。
「……わたくしたちはね、華美な生活は必要ないと思っているの。最低限の、静かな暮らしでいい。事業は隣人のための奉仕であって、自己の利益のためにするべからず。虚飾を避け、常に誠実な心で在れ。昔からの教えなの」
エリーゼは、胸元にある十字架のペンダントを指で弄る。
「でもね。あの子は、レクセルは。その道を踏み外しそうで心配なの。あの家のことが絡むと、昔の出来事を思い出すのでしょうね。……憎しみを、捨てきれないでいるわ」
初めて会った時の、レクセルの台詞がふと蘇る。
『おれは、本家の奴らに一泡吹かせたい。あんたは、金が必要だ。利害は一致すると思わないか?』
台詞からして、彼の言う‟本家”に対する感情が良くないものだとは知っていた。
母親が、サミュエルの息子の愛人だったことが関係しているのだろうが、互いに踏み込まないという協定のため、何も尋ねることはなかった。
「あの子のことを、勝手に話すわけにはいかないわ。でも、もし。あの子が少しでもあなたに心を開くなら――。その時はどうか、耳を傾けてほしいの」
エリーゼの目は、まるで我が子を心配する母親のような眼差しだった。ニーナは彼女の眼差しを受け止めて、小さくも頷く。果たしてそんな日が来るのか、想像もできないと思いながら。
しかしエリーゼは安堵したようで、ニーナに礼を告げた。
「エリーゼ、小僧がそろそろ帰るらしいぞ」
するとそこで、家の方からレクセルを引きつれ、ポールが姿を現した。
ヴィッキーは尻尾を振って、ニーナの元からポールの方へ駆け出していく。
「あら残念。泊まっていったらいいのに。もっとお喋りしたかったわ」
「明日は仕事だ」
「つれないわね。全く、本当に似た者同士なんだから。ニーナに愛想尽かれないよう、気を付けるのよ」
「はいはい」
「元から愛想尽かれてるとでも言いたげな顔ね」
「そりゃそうだろ。契約結婚持ち出すような奴だ、自分のことは自分でよくわかってるさ」
じとりと目を据わらせたエリーゼに、レクセルは皮肉混じりに言葉を返した。
彼女は盛大なため息をついて、ニーナに向き直る。
「はあー、嫌な男っ。いいこと、ニーナ。すでに嫌でしょうけれど、我慢できなくなったら離縁してわたくしたちを頼るのよ」
「あはは……ありがとうございます。ですが、この結婚に同意したわたしもわたしです。それに、旦那様を嫌だと思ったことはありません」
ニーナは、エリーゼに淡く微笑んだ。
「旦那様のおかげで、わたしの方が助けられています」
僅かに目を瞠ったレクセルに、ポールが両腕を組んで意地悪く笑う。
「経済的にって意味だぞ、小僧。勘違いするなよ。言っておくが、おまえの夫としての役割はゼロ以下だ。おまえの性格は最悪だからな」
「そう言うあんたも最悪だってことを忘れんなよ」
「え、あ、いや、その、お金の面でも確かに助かっているのですが、暮らしの面でも旦那様は気を使ってくれていて」
「いいのよ、ニーナ。この子相手に気を使わなくて。いっそのこと、傍若無人な財布だと思っておきなさい」
「えっ」
「散々な言い方だな、おい」
明るいクルキ夫妻に揶揄われるレクセルは、不機嫌そうな顔をしながらも、どこか愉し気そうに見えた。
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