第十話

 ニーナたちを出迎えた男は、ポール・クルキと名乗った。

 彼はレクセルと憎まれ口をたたき合いながら、ニーナたちを応接間へと案内する。

 ヴィッキーと呼ばれた黒犬も、尻尾を振りながらついてきた。


「エリーゼ。小僧にしてはもったいない嫁さんを連れてきたぞ」

 

 ポールが扉を開けた先で、エリーゼと呼ばれた一人の老婦人がお茶の準備をしていた。


「ご無沙汰してます、エリーゼ」

「まあ、レクセル」


 エリーゼは優し気に目尻を下げると、レクセルに歩み寄り、彼の体を優しく抱きしめた。

 レクセルも、親しみを込めて彼女の頬に自身の頬を合わせる。

 僅かだが、レクセルの口元には柔らかく、穏やかな笑みが浮かんでいるのをニーナは見た。


(こんな表情もできるのね……)


 こうやってみれば、いつも隙のないレクセルが年相応の男性に見える。

 珍しいものを見たなと思いつつも、それは自分がレクセルという人間をまだまだ知らないからだろうと、ニーナは理解していた。

 レクセルはしかめっ面でぶっきら棒だが、中身まで冷徹なわけではない。人によっては、こうして表情を表に出すのだろう。

 エリーゼはレクセルから離れると、今度は背の高いニーナを見上げてにこりと微笑んだ。


「ようこそ来てくださいました。わたくしはエリーゼ。ポールの妻です」

「初めまして。お招きいただきありがとうございます。ニーナと申します」


 ニーナはお辞儀をすると、エリーゼは優しい眼差しのまま、ニーナをソファへと案内した。


「さあさあ。新婚さん、腰かけて」


 新婚、と言われて照れる二人でもない。なにせ、契約結婚なのだから。

 ニーナは苦笑を表に出さないようにしつつ、レクセルと横並びで、猫足のソファに腰かけた。

 用意されている白い陶磁器のティーポットには、ピンクのバラが細かく描かれている。カップの柄とお揃いだ。

 ポールは、机を挟み、ニーナたちの目の前のソファに腰かけた。ヴィッキーは大人しくポールの傍で座っている。

 エリーゼは紅茶と一緒に、レモンケーキを出してくれた。


「さあ、召し上がれ」

「エリーゼのレモンケーキは世界一美味いぞ」

「まあ、あなたったら」


 温かい家、温かな夫婦。ニーナの口元が、知らないうちに笑みを作っていた。

 ニーナはいただきます、と手を組んでから、頂くことにした。


「どうだ、美味いだろう?」

「ん……美味しいです」


 確かに美味しい。ニーナは素直に頷いた。

 バターの香ばしい香りと、レモンの爽やかさが口の中で広がる。

 それに、紅茶との相性も抜群だ。

  

「ちょっとあなた。その言い方だと強制してるみたいじゃないの」

「エリーゼの言う通りだな」

「なんだと小僧」  

「もう、あなたは。なんだかんだ理由をつけないとレクセルに連絡できない人が、ごちゃごちゃ言わないの。大体、あなたの誕生日なんて二か月も先でしょ。結婚を報告されなかったからって、拗ねてるだけなのよ」

「そうなのか?」


 他人の誕生日など覚えていないレクセルは、呆れた目をポールに向けた。


「うるさい! 誕生日は誕生日だ!」

「ごめんなさいね、ニーナ。変に馬鹿なのよ、この人。意地っ張りで」

「え、あ、いえ……」

「エリーゼ!」

「はいはい、分かりましたから。でもね、レクセル。わたくしもあなたには話がしたかったのよ」


 エリーゼは優し気な表情を一旦消し去って、鋭く、探るように目を光らせた。


「結婚という選択肢なんて、あなたにはこれっぽっちもなかったでしょう。それなのに、あなたは密かに結婚した。それも、こんなに従順そうで大人しい人と。……何か、理由があるわね」

 

 エリーゼと共に、ポールの目も厳しかった。

 ニーナは思わず身構えてしまい、その動揺を目の前の二人にあっけなく悟られてしまう。

 

「やっぱりな。おまえたちの間に愛情なんてものはないだろう。そんなものは見ればわかるさ。熟年夫婦をなめてもらっては困る。……もしやと思ったが、レクセル。あいつの遺言が公表されたな」

「……」


 急に一変した空気に、ニーナは戸惑いの表情を浮かべた。

 二人とも、レクセルを厳しい目つきで睨んでいる。

 あいつの遺言、というのはレクセルの祖父を指しているのだろうが。

 一体、彼らとレクセルはどういう関係なのだろうか。先ほどまでは、とても仲が良さそうに見えたのだが……。

 当のレクセルは眉間に皺をよせ、逃げきれないと思ったのだろうか、嘆息した。


「おれは遺言に従ったまでだ。爺の事業を手中に収めるために。ニーナ・ランデルを妻に迎えることが条件だと記されていた」

「おまえの復讐に巻き込むつもりか。ニーナ、あなたは知って結婚を承諾したのか。……もしや、金でも握らされたか?」


 ニーナにも鋭い目を向けられる。

 恥ずかしく、居た堪れない。でも、事実だった。

 ニーナは、小さく頷いた。

 ポールの目が凄みを増しニーナは肩を震わせたが、目は逸らさなかった。


「おい、こいつはおれが巻き込んだだけだ! 母親の治療費を肩代わりする代わりに、協力してもらった。こいつの弱みに付け込んだんだ、おれが」

「だったらなおさら悪い! 一人のお嬢さんを金でものを言わせて買うような真似を……! そこまでして欲しいか!?」

「欲しいね。石油は未来を変えていく資源だ。その重要さ、可能性を解りもせず、己の利益しか考えない奴らに渡して何になる。あの家の奴らを知ってるあんたなら分かるだろ? 事業は金儲けのためじゃない、人のために成されるものだ! あんたがおれに教えたことだろ」

「誰かの幸せを奪っておきながら言える台詞か!」

「――ちょっと二人とも、落ち着きなさいな!」


 声を荒らげるレクセルとポールの間に、エリーゼが声を張り上げて割って入った。目尻を鋭く尖らせて。


「まったく。顔を合わせれば、いつもこう……。本当に似た者同士なんだから。ヴィッキーも怖がってるじゃないの」


 ヴィッキーが、いつの間にかエリーゼの傍に移動している。心配そうな目で、言い争う二人を眺めていた。


「それにニーナを置いてきぼりにして……。ごめんなさいね、ニーナ。わたしたちは、あなたを軽蔑したわけじゃないわ。だから、そんなに怯えないで」

「あ……」


 知らずのうちに、全身を強張らせていたようだ。ニーナは詰めていた息を吐き出し、緊張を少しずつ解く。

 レクセルはそんなニーナを横目で見て、気まずそうに視線を逸らした。

 ポールも前屈みになっていた姿勢をなおし、ソファの背もたれに背を預ける。


「すまないな、ニーナ。ついカッとなってしまい、ひどい言い方をしてしまった」

「いえ、気になさらないでください。……本当のことですから。わたしはお金が欲しくて、この結婚を了承しました」

「お母さんが病気なの?」

「はい。結核と、心臓病を患っています」

「!」


 ポールとエリーゼは目を見開き、互いに言葉を失い口を閉ざした。

 それはそうだろう。結核は、現代の医学では治らない。そして心臓病も。ちなみに、結核は人から忌み嫌われる病だ。


「母は、父が亡くなってから女手一つで育ててくれました。賢くて、厳しいけど優しい人で。自身の病気にいち早く気づいてから、わたしと分かれて暮らしています。ですが、この数年、状態は悪くなる一方で……。工場での賃金だけでは、生活費と母の治療費を確保するのは中々難しく。そんな折、旦那様からお話を頂き、藁にも縋る思いで話を受けさせていただきました」

「……そういうことだったの」

「はい」

 

 エリーゼは納得したように、何度も小刻みに頷いた。ポールは難しい顔をしてニーナを眺めた後、ゆっくりと口を開く。


「この小僧に、ひどい真似はされてないか? こいつ、ぶっきら棒な上に口が悪いだろう」


 ポールの台詞に、レクセルの眉がぴくりと動く。

 ニーナは数回瞬いたあと、笑いを堪えて、小さく微笑んだ。


「旦那様は、十分気を使ってくれています。それに、優しいと思います」


 そう答えれば、今度はエリーゼとポールが驚いたように瞬きし、互いの顔を見合わせた。


「聞いたか、エリーゼ。レクセルは仕事以外で猫を被る技術を身に着けたのか」

「いいえ、あなた。今この場でもこの調子なんだから、猫を被っているとは思えないわ」

「となると、あれだな。ニーナは、こいつの性根の悪さをものともしない、聖女のような心の持ち主だ」

「間違いないわね」

「……おい。人を悪魔のように言うのはやめてくれないか」


 両手を組んでニーナを拝む老夫婦二人に、レクセルは頬を引き攣らせた。

 一方のニーナは笑いを堪えきれなくなり、くすくすと笑いを零した。当然、レクセルに不機嫌そうな眼差しを向けられるが、それすらも何故か可笑しく思えるから不思議だ。


「笑うなよ」

「あ……すみません」

「ふふ、いいじゃないの」

「よくねえよ」

「まあ、事情は分かった。どうせ、普通の結婚じゃないことは予想していたしな」


 大きなため息をついて、ポールはレモンケーキに齧りついた。


「だがなぁ。一応、形だけは共に暮らしていくんだろう。レクセル、おまえはどこまで彼女に説明しているんだ」

「どこまで? はじめに大方説明している。おれが愛人の子だってことも、本家のことも多少は」

「そうではなく、おまえ自身のことだ。あえて聞くが、わしらのことも大して説明してないだろう」

「ちゃんと説明したさ。昔、世話になったと伝えた」


 当たり前のように言うレクセルに、老夫婦は揃って、疲れきったように頭を抱えた。

  

「だからそういうところだ。おまえ、本当に阿呆だな」

「はぁ?」

「すまないね、ニーナ。こいつの説明不足で、わしらが一体どういう人間なのかさっぱりだろう」

「……はぁ」


 ニーナは曖昧に微笑むしかない。

 確かに、世話になった恩人だとしか教えてもらっていない。だが、普段から言葉数の少ないレクセルにしたら、彼の中では説明したことになっているのだろう。

 

「レクセルの母親が亡くなった後、わしらが少しばかり面倒を見たんだ。ついでに、事業や投資のノウハウを教えた」

「……だから、恩人だと説明した」


 不貞腐れたように呟くレクセルに、今度はエリーゼが諭す様に言う。

  

「あのね、一言で済まさないの。初対面で何の情報もなかったら、会話にも困るでしょう? ねえ、ニーナ。もしこの子と暮らすのが嫌になったら、相談するのよ。こんな老人二人でも、あなたの手助けくらいはできるわ」


 エリーゼとポールは、ニーナを安心させるように力強く微笑んだ。

 ふわりと、ニーナの心に何かが宿る。何とも言えない、柔らかくて、温かなもの。

 親のような優しさだ。

 しばらく会えていない母親と、亡くなった父を思い出した。

 ニーナはきゅっとスカートを握り、二人に向かって頭を下げた。

 

「ありがとうございます。でも、大丈夫です。旦那様は言葉数は少ないですが、とても気を使ってくれています。わたしは家事くらいしか取り柄がありませんが、旦那様に、少しずつご恩を返していけたらと思っていますので」


 ニーナがそう答えれば、レクセルは気まずそうに頭を掻いてそっぽを向いてしまった。一瞬見えた頬が、ほんのりと赤みを帯びていたような気がした。

 


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