第九話

 レクセルの言う、“世話になったジジイ”というのは一体どういう人物なのやら。

 よく分からないまま、ニーナは鏡の前で身支度をする。

 といっても、くすんだ赤髪を後れ毛なくきっちりと纏めて口紅を引くだけだ。

 これは家庭教師として働いていたころの習慣なのだが、家事や読書をする際に髪が落ちてこないから、今でも続けている。利便性が良いのだ。

 もちろん流行の髪型にも憧れる。前髪を短くカットしているのも素敵だと思うし、髪を下ろし、緩く結っているのも可愛い。

 でも、自分には似合わないと思ってしまうのだ。

 赤髪はかつて、悪魔や魔女の証しとされてきた。今でこそ迷信とされているが、それでも偏見がなくなったわけではない。

 髪を編み込み後ろ姿も確認すると、最後に口紅を薄っすらと引いて立ち上がる。

 窓の外は、晴れやかな空が広がっている。出かけるには良い天気だ。

 夫であるレクセルを待たせるわけにはいかないと、ニーナはハンドバッグを手にして一階へと降りれば、レクセルはダイニングで本を読んでいた。

 

「……早いな」

 

 ニーナの姿をみとめると、レクセルは片眉を持ち上げ、意外そうに呟いた。

 

「そう、でしょうか」

「女の身支度は、転寝できるくらいに長いじゃないか。あと、最低でも三十分はかかると思っていた」

「……はぁ」

 

 それは、今まで関係を持ってきた女性たちのことを言っているのだろうか。

 あいにくニーナは、眼鏡をかけて顔を隠してしまうので、最低限の化粧しかしない。

 もちろん身だしなみは、粗相のないように気を使っているつもりだが。

 レクセルは本を机に置いて立ち上がった。

 彼は灰色のズボンに白いシャツ、ベストを着用していた。タイを結んでおらず、いつもに比べてラフな装いだ。

 本の代わりに帽子を手に取って歩き出すレクセルの後を、ニーナは静かについていく。行き先はどこか知らされていない。馬車やバスを使って移動するのか、それとも、遠方なら汽車になるのか。

 すると、彼はなぜか家の裏にある倉庫にむかった。

 

(なぜ、倉庫……)

 

 大きな倉庫の存在は知っていたが、近づかなくていいとレクセルに言われていたので、ニーナは今まで中を覗いたことはなかった。

 確か、車の研究をするためのものだと聞いていたが……。

 

(……まさか)

 

 ニーナの予感は当たる。

 

「これで向かう」

 

 レクセルは、相変わらず無表情な顔でニーナを振り返った。

 倉庫の中には、四角い黒い車が一台止まっていた。周りには、ニーナには分からない工具や大きなドラム缶などが置かれている。

 

「……はい」

 

 ニーナは頷くしかなかった。ドアを開けられ、さっさと中に入れと言われる。

 ニーナが座席につくと、レクセルは車のドアを閉めた。そして裏門を開けると、レクセルは車へ乗りこみエンジンをかける。唸り声をあげるように、車が大きな音を立てて動き出した。

 レクセルは慣れた様子で、ハンドルを握ってアクセルを踏んだ。

 ニーナはバスの時と同じく、慣れない様子で、膝の上においたハンドバッグを握りしめていた。


「……あの、向かう先は」

「レベットだ。一時間もあればつくだろ」

「……馬車でもよかったのでは」

 

 緊張しながら呟くと、レクセルがものすごく不機嫌な顔をニーナに向けた。

 

「あんなものは乗り物じゃない」

 

 一言ぴしゃりと言い切って、レクセルは前を向いてしまった。

 

(……十分、乗り物だと思うけれど)

 

 というか、田舎では馬車のほうがまだまだ主流だ。理由は知らないが、馬車は嫌いらしい。

 これ以上触れないほうがいいと判断したニーナは、体を強張らせながら、窓の外の景色に目を向けるのであった。


 

 車中では二人ともほぼ無言だった。もともとレクセルは言葉数が少ないし、ニーナはニーナで慣れない車に終始緊張し続けていた。それに、馬とは違った振動で気を抜いたら酔いそうだ。

 レベットはルドの北に位置する街だ。ひしめき合っていた街の風景が、次第に田園風景に変わっていく。

 王都からほど近く、豊かな自然が残るレベットは、昔は貴族たちの別荘地帯の一つであった。最後の女帝、ソフィア・グランディエールが貴族制度の廃止を宣言してからは、莫大な維持費のかかる別荘を手放す者が増え、今では資産家たちの持ち家になっていると聞く。

 

「着いたぞ」

 

 レクセルが車の速度を落として、とある民家の前で停車した。

 カントリーハウスという大きな屋敷ではなく、本当にただの民家だ。煉瓦造りの小さな家。家を囲む背の低い石垣の向こうには、なだらかな丘が広がっていて、羊たちがのんびりと過ごしている。

 

(……お、落ち着く)

 

 車酔い寸前であったニーナは、胸を擦りながら安堵のため息をついた。そして深く呼吸をする。

 澄み渡った空気を肺一杯に取り入れるだけで、不思議と気分が落ち着いてくる。

 そんな中でふと思う。田舎町で療養している母のことを。

 

(お母さん……。どうしてるかな)

 

 母は優しくも厳しい人だ。自分が労咳と分かってから、母は自分が面会に行くことを許していない。

 手紙でのやりとりはしているものの、長い間、母の顔を見ていない。

 正直いって寂しいし、心配だ。自分にとっての肉親は母しかいないから。

 

「おい、行くぞ」

 

 レクセルの声に、ニーナは慌てて彼の後ろを追った。

 家に続く石畳が敷かれている前庭には、赤いポピー、淡い紫色をしたルピナス、それからミントやラベンダー。家の外壁に伝うように、バラの蔦が伸びている。

 

(素敵な家……)

 

 優しく、温かみのある庭だ。

 レクセルがドアベルを鳴らせば、しばらくしてからゆっくりとドアが開けられた――が、黒い影が扉の隙間から現れてレクセルに飛びついた。

 

「――バウッ」

 

 突然現れたそれに押し倒され、レクセルはその場に尻もちをついた。

 

「だっ、旦那様……!」

 

 ニーナは驚きの声を上げる。レクセルを押し倒したのは、黒い毛並みをした大型犬であった。犬は尻尾を嬉しそうに振りながら、レクセルの頬を舐める。……顔中を舐めつくさんばかりに。

 

「ヴィッキー……離れろ」

 

 レクセルは顔を顰めながら低く呻く。

 

「ヴィッキー……?」

「バウ!」

「お嬢さん、その子の名前だよ」

 

 すると、扉の奥から一人の老人が現れた。顔に走る幾つもの皺。けれども、背筋は曲がることなく一直線に伸び、グレーの瞳には活力が漲っている。

 彼は愛犬に押し倒されているレクセルを見下ろしながら、ふん、と鼻を鳴らす。

 

「来たか、この馬鹿垂れ小僧」

「仕方がなく来てやったんだよ、老いぼれ爺」

 

 二人は好戦的な目を互いに向け合い、口端を持ち上げたのであった。

 

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