第八話
「それじゃあ、またね。何かあったらちゃんと相談してよ、ニーナ」
「そうよ。少しくらい、人に甘えていいんだからね」
「うん。二人とも、今日はありがとう」
夕食の支度があるからと、ニーナはきりの良いところで引き上げていった。
バス停に向かって歩いていく彼女の後ろ姿を、ヒルダとイーリスは店の前で見送る。
「……ニーナ、何も言わなかったね。……レオのこと」
「……言ってどうするのよ。もう、三年も経つのに」
イーリスの小さな呟きに、ヒルダはため息を零した。
レオ――それはニーナの、かつての恋人だ。ヒルダたちも知っている。同郷で、ヒルダたちの幼馴染みだったから。
レオとニーナ、二人はとてもお似合いだった。波長が似ている、というのだろうか。
纏う空気が柔らかく、人に優しくて、滅多に弱音を吐かない努力家で。さぼり癖のあるヒルダや、すぐに弱音を吐くイーリスの面倒を二人揃ってよく見てくれた。
ただ、二人とも恋愛に関しては奥手で、付き合うまでにかなりの時間を要した。やっとこさ付き合った時には、ヒルダたちは大いに喜んだものだ。
それから二人は順調に時を重ね、レオが留学を終えれば結婚するはずだった。
――だが、それは叶わぬ夢となった。
レオは留学先の国で海難事故に遭い、消息不明となった。大きな事故で、生存者はごく僅かだった。遺体は見つかっていないが、おそらく他の乗客たちと共に海の底に沈んだのだろう。
くしくも、ニーナが家庭教師を辞める時期と重なり、彼女が心に受けた衝撃は計り知れない。
あの時、ニーナから連絡を受けて駆け付けたヒルダとイーリスは、弱り果てたニーナを目にして絶句した。
彼女は、悲しみと苦しみに溢れていた。――絶望していた、と表現した方がよいのかもしれない。見ているこちらが痛みすら覚える程に。
光を失った瞳、痩せ細って震える肩、青白い顔。
ニーナは駆け付けたヒルダたちを見て、無理やり笑おうとして、でもできなくて、次には大粒の涙を溢れさせた。
ヒルダとイーリスは、そんな彼女を抱きしめた。言葉なんて何も出なかった。抱きしめるしかできなかった。ただただ、涙した。ニーナが壊れてしまうのではないか、そんな気さえした。
でもニーナはその後、気丈にも再び立ち上がった。
――母親の存在があったからだ。
ヒルダは艶のある黒髪を掻き上げた。
「レオのことは……ニーナが話題に触れない限り、触れないわ。どういう理由であれ、結婚を決めたのも、彼女なりに踏ん切りをつけたかったのかもしれないし。まあ、半分自棄だったのかもしれないけど」
「うん」
「……でも、わたしが一番心配なのは――」
「ヒルダ?」
言葉を切ったヒルダにイーリスは首を傾げた。ヒルダの視線の先を追えば、振り返ったニーナが自分たちに手を振っていた。
「――また連絡するわね!」
ニーナはそう言って笑うと、建物の角を曲がり姿を消した。
手を振り返して店の中に戻ろうとするヒルダの背中に、イーリスは問いかける。
「ねえ、さっき何か言いかけた?」
「……何でもないわ。ただのひとり言よ」
ヒルダは首を振って、テーブルの上を片付け始めた。
「それよりイーリス」
「ん?」
「もし、ニーナがお店で働き始めるなら教えてくれない?」
「そりゃ教えるけど、どうして?」
イーリスも手伝いながら、せっせと食器をキッチンへと運んでいく。
「その時は、ニーナの制服が必要でしょ?」
「あ、そっか。ニーナは背が高いから、新しく仕立ててもらわなきゃ無理よね。その時はお願いするわ」
ヒルダは、イーリスの店の制服を仕立てている。ニーナは女性にしてはすらりと背が高いので、今までのものだとサイズが合わないはずだ。
そこでヒルダは、ふといい案を思いついたのだ。
「ちょっと提案なんだけど――」
二人しかいないのに、ヒルダはイーリスの耳元に唇を寄せた。そしていい案をイーリスに伝えてみる。
するとイーリスは、少女のように目をキラキラと輝かせた。
「いいわね、それ! わたしも見てみたい!」
「でしょ? 絶対に似合うと思うのよね」
「うんうん!」
二人は目を見合わせて、にっと微笑んだのであった。
家に帰ったニーナは、急いで夕食の支度に取り掛かっていた。
玉ねぎ、じゃがいも、セロリ、にんじんはざっくりと切り、牛肉には先に塩と胡椒をまぶしておく。
次に鍋を温めてオリーブオイルを引く。牛肉を先に並べて、表面に焼き色を付ければ香ばしい香りがキッチンを包む。そこへ野菜を投入し軽く炒めると、あとは水を淹れて煮込むだけだ。もちろん、ハーブと塩は忘れない。
煮込んでいる間に、サラダ作りに取り掛かる。
市場で買ったオレンジの皮を剥いて、実を輪切りにして皿に並べる。次に薄く切った玉ねぎと、ルッコラを手で千切って、二つをオリーブオイルと塩で和えて味を馴染ませる。
あとはオレンジの上に玉ねぎとルッコラを盛りつけ、胡椒を振れば完成だ。
(パンが焼けるのに、もう少し時間がかかるわね……)
と、そこでレクセルが帰宅した。予想よりも早い帰宅だ。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「……ああ」
ニーナはレクセルに駆け寄って帽子と鞄を受けて取ろうとしたが、エプロン姿のニーナを見て、レクセルは首を横に振った。
「ああ、いい。このくらい自分でするし、あんた忙しいだろ」
レクセルは相変わらず、自分のことは自分で済ましてしまう。ニーナは肩を竦め、ちらりとレクセルを見上げた。彼は、何やら難しい顔をしてニーナを見下ろしていた。
(いつもより、眉間の皺が深い……?)
仕事で何かあったのだろうか。いや、もしや自分が出すぎた真似をしてしまったのか。
他に彼をイラつかせるようなことは……とそこで、ニーナはすっかり忘れていた出来事を思い出した。
昨夜の、素っ裸転倒事件を。
(そういえば、あのせいで朝は妙に気まずかったんだった……)
レクセルはそれについて触れてくることはなかったが、お目汚しというか、不快だったのかもしれない。ニーナは「すみません」と小声で詫びた。
「なんで謝る?」
「え、あ、その、怒っていらっしゃるのでは……? その……昨日は大変、ご迷惑を……」
するとレクセルは軽く目を見開き、顔を横に逸らした。
「別に、昨日のことで怒ったりはしてない。……あれは事故だ。もう忘れろ。おれも、見なかったことにするから」
「は、はい」
「ただ、面倒事が一つ増えただけだ。あんたにも関係ある話だから、後から話す」
「はぁ……」
それだけ言って、レクセルは二階へと上がっていってしまった。
(話って、何かしら)
ニーナは首を傾げながら、キッチンへと戻っていった。
***
「お茶会、ですか」
二人で食事を摂りながら、ニーナはぽつりと呟いた。
どうやら、レクセルの恩人だというご老人から呼び出しがかかったらしい。
「ああ。老いぼれの暇つぶしだ。あんたを連れて、誕生日を祝いに来いだと」
一見冷たい台詞であるが、口調はそうでもないような気がする。ただ呆れている、というような。
「世話になったのは確かだが……。誕生日がどうだってんだ。ったく、いい年して。……ま、祝いとかこつけて、おれへの説教だろうがな」
レクセルは、ポトフを口に運びながら悪態をつく。
「説教、ですか?」
「報告もせず、あんたと籍を入れたからな」
「はぁ……」
「無視したらここに乗り込んでくるだろうから、出来れば一緒に来てほしいんだが」
「わたしは構いませんが」
「……そうか。なら助かる」
レクセルは嘆息し、そこで二人の会話はいったん途切れた。
ニーナはサラダを口にしながら、黙々と食事をとるレクセルをちらりと見遣る。
(仕事の件、どうしよう……。お疲れのようだし、話は今度の方がいいかしら)
すると、顔を上げたレクセルと目が合った。レクセルの藍色の目が細められる。
「なんだ?」
「え、あ……」
言おうかどうか迷っていると、レクセルがスプーンを置いて頬杖をついた。
「言いたいことがあるなら、言ってくれて構わない」
「は、はい」
藍色の目は、グズグズするなと伝えてくる。
ニーナは小刻みに頷き、慌てて背筋を正した。
「そ、その。お昼間なんですけど、友人の店で働いても構わないでしょうか」
意外だったのか、レクセルは目を数回瞬きさせた。
「金が足りなかったか?」
「まさか! 十分過ぎる程です。二か月は軽く持ちますよ」
「……そんなに持つか?」
「はい」
珍しくきっぱりと頷いたニーナに、レクセルはなおさら不可解な面持ちになった。
「なら、なんでだ?」
「実は今日、友人二人に会いに行ってきたのです。そのうちの一人が、夫婦でカフェを営んでいるんですが、人手不足だそうで……。あの、もちろん家のことは手を抜きません。それに旦那様には金銭面で大変お世話になっておりますので、せめて自分の身の回りのものくらいは、自分でなんとかしようかと思いまして……」
そう告げれば、レクセルは事情を納得したようで食事を再開させた。
「いいんじゃないか。勝手にしてくれて構わない」
「本当ですか」
「ああ。家にいても退屈だろうしな」
「ありがとうございます」
ニーナは僅かに口元を綻ばせた。
「それで、あんたが料理を作るのか?」
「え……いえ。おそらく給仕だろうと思います」
「ふうん。あんた料理がうまいから、店で出しても大丈夫だと思うけど。今日の晩飯も美味いし」
何気なく呟かれたレクセルの言葉に、ニーナは目を見開いて固まった。
『ニーナのつくるご飯はどれも美味しいから、お店で出しても大丈夫だと思うなぁ』
過去の、優しい声が蘇る。もう二度と、会うことのできない大切な人。
――レオ。
ニーナの片目から、一筋の涙が零れ落ちた。
「……っおい、なんで泣く!?」
レクセルは突然涙を流したニーナに、慌てた様子で声をかけた。
「えっ、あ……すみません……! これはその、う、嬉し泣き、です」
ニーナは慌てて眼鏡を外して目を擦った。
中腰のまま、怪訝そうな、心配そうな面持ちで固まっているレクセルに、ニーナは大丈夫だと告げる。
「その、今まで一人でしたから……。誰かに、そのように言って頂けるのが嬉しくて」
咄嗟に思い付いた理由だったが、レクセルはとりあえず納得してくれたようだ。
大きなため息をついて、疲れたように椅子に腰かける。
「……いちいち泣くなよ。何か不味いこと言ったんじゃないかって思っただろ。おれ、言い方きついから」
「す、すみません」
鼻を啜りながら、ニーナは頭を下げて食事を再開させた。
そして、ふと思う。
目の前にいるレクセルという人は、言動は冷たいものの、やはり優しさを持った人なのではないかと。
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