第七話
ヒルダの店はこぢんまりとしているが、アンティークなインテリアたちが訪れた人に落ち着きを与えてくれる。
また、いたるところに飾られているドライフラワーが素敵で、ニーナたちの故郷――アルギスを彷彿とさせた。
「はい、召し上がれ。クッキーは、おすすめのお店のものよ」
ヒルダは、ハーブティーとシナモン入りのクッキーをニーナたちに用意してくれた。
服飾店を営んでいるヒルダは、白いブラウスに黒のスカートというシンプルなデザインな服に身を包んでいる。ブラウスの肩口はふわりとボリュームがある一方、スカートはタイトだ。シンプルでいて可愛すぎないところが、彼女によく似合っている。
「ありがとう。すごくいい匂い……」
お茶からはカモミールの爽やかな香りが漂ってきて、ニーナは口元を綻ばせた。
「ヒルダは色んなお店を知ってるわね」
ようやく涙を引っ込めたイーリスが、クッキーをつまみながら言った。
栗色の髪を編み込み、白い肌に浮かぶそばかすが可愛らしい。
「まあね。王都に来て、一番長いのはわたしだから」
ヒルダは軽く肩を竦めてみせると、改めてニーナを正面から見た。
「ねえ、ニーナ。わたしたち、ずっと心配してたのよ。落ち着いたら連絡するっていう言葉を信じて」
ヒルダに続き、イーリスも頷いてニーナに視線をやる。
二人は、ニーナにとってかけがえのない友人だ。ニーナは居住まいを正した。
「……ごめんなさい、心配をかけて。その、どこから話せばいいのか分からないんだけど……。工場で務めている時にね、今の旦那様が突然家にやってこられて」
「え、なに。旦那って知り合いだったの?」
ヒルダが両腕を組んで首を傾げる。
「あ、ううん。お互い、全く面識がなくって」
「お互いに面識がない?」
ヒルダとイーリスは、二人揃って怪訝そうな目を向ける。ニーナは人差し指で頬を掻いた。
「ええ。なんでも、お爺様の遺言でやってきたそうで……。詳しい理由は分からないんだけど、わたしと結婚するようにと……。その、旦那様にも事情があるようだったし、わたしも……その、現金な話だって分かってるんだけど、母の治療費が……」
最後の方は、言葉が尻すぼみに消えてしまった。
二人はニーナの言わんとしていることを察して、複雑な表情をしたまま押し黙る。
ニーナの母は、昔から肺を患っている。都市部の、ましてや工場地帯の一角でニーナと共に暮らすわけにはいかず、田舎町の病院で療養生活を送っている。そのことは、幼馴染みである二人も知っていることだ。……治療費が負担になっていることも。
「……おば様の件については、わたしたちは何も言えないわ。ニーナが、頑張っていたことも知ってる」
ヒルダは組んでいた腕を解いて、俯くニーナの顔を覗き込んだ。
「だからニーナが決めたことに、とやかく言えない。……でもね、心配は心配なのよ。だって今の話だと、互いに利害が一致したから結婚したってことでしょう? 言い方は悪いけど、ニーナはお金で買われたようなものじゃない」
「ちょっと、ヒルダ!」
ヒルダのはっきりとした物言いに、イーリスが非難の声を上げる。
ヒルダは可愛い容姿とは裏腹に、昔から物事をはっきりと口にする。だがニーナは、それを嫌だと思ったことは一度もない。
声を張り上げたイーリスを、ニーナは首を振って押し留めた。
「ヒルダの言う通りよ、イーリス。でもね、旦那様は割り切った方だけど、悪い方じゃないわ。白い結婚でいいと言ってくれたし。……だってこのわたしが、どんな事情とはいえ、男性と暮らせているんだから」
「……ニーナ」
ニーナの言葉に、イーリスは眉を下げて唇を引き結んだ。
友人二人は知っている。ニーナが隠している、他者に知られたくない過去の出来事を。
それは工場勤めをする前のこと。ニーナは家庭教師として働いていた。
だがある日突然、職を失った。
泥酔した屋敷の主人に強姦されかけたのだ。
抵抗して未遂で済んだものの事態が明るみとなり、不貞を働きかけたのはニーナだと責任を負わされ、後ろ指を指されて屋敷を追い出された。
口止め料か、それとも手切れ金か。夫人から『売女』という言葉と共に紙幣の束を投げつけられた。
もちろん受け取りはしなかったが……ただただ惨めで、悲しかった。
普通ならば、沸き起こるはずの怒りを掻き消してしまう程に。
それ以降、見ず知らずの男性に近づけば体が勝手に強張ってしまうし、狭い空間で男性と二人きりになると足が震える。
どうしても思い出してしまうのだ。あの時の事を。
そんな自分が、距離があるにせよレクセルと共に暮らせている。
レクセルがニーナに興味を示さないことが大きな理由だろうが、ニーナにとっては大きな進歩だ。
ニーナは二人を安心させるように、淡く微笑んだ。
「確かに初めはちょっと怖かったけど、お互い距離があるから、むしろ有り難いというか」
「本当に? 理不尽な目に合わされたりしてない?」
イーリスが心配げな目をニーナに向ける。ニーナは小さく頷いた。
「旦那様は冷たそうに見えるけど、そこまで冷たくないというか」
「……それ、結局は冷たいってことじゃないの?」
ヒルダが呆れた目をして口を挟んできたので、ニーナは慌てて首を横に振った。
「ううん、必要最低限の会話はして下さるし、料理も時々褒めて下さるし」
「必要最低限の話で優しいって……。一体どんな野郎よ」
「そうよ。それに、ニーナの料理は昔から美味しいわよ。時々じゃなくて毎回褒めるべきだわ」
レクセルのことを誉めているつもりが、何故か二人の目は据わっていく。
「ま、まあ……それなりになんとかやってるから、大丈夫よ」
これ以上は下手に言わないほうがいいと判断したニーナは、誤魔化すようにお茶を口に含んだ。
「それより二人は? ヒルダ、お店はどう?」
そう問えば、ヒルダは両肩を竦めた。
「まだ始めたばかりだから、上々とは言えないわね。まだまだ古典的な考えをした人が多いし」
そう言うと、ヒルダは店の奥から幾つかのスケッチブックを持ってきた。ヒルダが鉛筆で、いくつもの服のデザインを描いている。
ニーナとヒルダは、スケッチブックを手に取って目を輝かせた。
「素敵……。これは、女性用のパンツね?」
スケッチブックの中には、女性がスマートなパンツを穿きこなす姿が描かれている。
「そうよ。工場で履いているものは野暮ったいでしょ? もっと、女性の線に合ったスリムなラインにすればいいと思うのよ。それにブラウスやシャツを合わせたり。そうすれば、もっとお洒落の幅は広がると思うの。ヒールにも合うはずよ」
「へぇ……」
ニーナが感心しながらページを捲っていると、イーリスが突然驚きの声を上げた。
「ちょっと! このワンピース、ものすごく丈が短いじゃないっ」
イーリスが指さして見せたのは、膝丈のワンピースだった。隠すべきものだとされる脚を出している。
「そうよ。スカートよ」
「脚を出すの!?」
「出せばいいわ」
「恥ずかしいじゃないっ」
「流行り出せばそんなこと思わないわよ」
イーリスは口をパクパクさせて、信じられないようなものを見るように、デッサンとヒルダの顔を見比べる。
一方のヒルダは頬杖をついてニーナに視線をやった。皮肉めいた笑みを口端に浮かべて。
「――ま、これが一般的な反応ね。パンツはまだしも、脚を出すのは相当なバッシングがあるってわけ」
「……なるほど」
ニーナは深く頷いた。
「だいたい、なんで結婚してるあんたがそんなに狼狽えるのよ。旦那には全部見られてんでしょうが」
「っ言い方! その言い方なんか嫌っ!」
イーリスは顔を真っ赤にさせて、ヒルダの頭をスケッチブックで軽く叩いた。
イーリスは新婚で、夫であるユリウスと共にカフェを経営している。恋人時代からとても仲睦まじく、今でも互いにぞっこんだ。
「ユリウスとは仲良くやっているのね」
「そうよ、毎日イチャイチャしてるわよ」
「っヒルダ!」
舌を出して肩を竦めるヒルダに、ニーナは声を立てて笑った。
「なによっ。最近、お店が忙しくてそれどころじゃないの知ってるでしょ!?」
「ハイハイ」
「忙しいの?」
ニーナが首を傾げれば、イーリスは赤い顔をしたまま振り向いた。
「従業員の子が結婚で辞めちゃったのっ。募集はかけているんだけど中々……」
「――それ、わたしじゃダメかな?」
「え!?」
小さく挙手したニーナに、イーリスは大きく目を見開いた。
「……あのね、全部、旦那様に負んぶに抱っこじゃ申し訳なくて。母の治療費、少しずつでも返していきたいから。あ、もちろん旦那様に許可を頂いてからだけど、お昼くらいまでなら働けると思うの」
「ニーナは相変わらず真面目ねえ。甘えちゃえばいいのに」
「ヒルダ、そういうわけにもいかないわ」
ニーナは肩を竦めた。この結婚は期限付きのものだとニーナは認識している。
レクセルが彼の祖父の会社を引き継いである程度したら。もしくは母が――。
(今から、ちゃんと準備をしておかないと)
その時、ニーナは本当に一人になる。頼れる親戚もいない。自分の身は自分で何とかするしかないのだ。
「え、本当にいいの!? ニーナが働いてくれるなら、こっちはものすごく助かるけど。ユリウスも大賛成するだろうしっ」
イーリスは表情を輝かせてニーナの手を取った。
「うん。今日、家に帰ってから相談してみる」
「ありがとぉおおお!」
イーリスのあまりの喜びように、ニーナとヒルダは目を見合わせて苦笑した。
一方その頃レクセルは――。
「……耳の早い爺さんだ」
オフィスで盛大に顔を顰めていた。彼の手には、一通の手紙が。
長ったらしい文面であるが、要約するとこうだ。
‟恩人である自分に嫁を紹介しに来い”
「……面倒臭いな」
レクセルは溜め息交じりに呟くと、机の上に手紙を放り投げたのであった。
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