第六話


 風呂場で転倒した翌日。

 妙に気まずい朝食を終え、ニーナはレクセルを仕事へ送り出した。

 レクセルは昨夜のことを掘り返さなかったが、玄関での見送りの際、何故かニーナの眼鏡をじっと見下ろしていた。

 レクセルの眼光は普段から鋭いのに、こうも至近距離で見下ろされると直視なんてできるはずもない。

 ニーナの顔がどんどん俯いていくと、彼は嘆息して「行ってくる」と出て行ってしまった。

 一体なんだったんだ、とニーナはキッチンでパン生地を捏ねながら首を傾げる。やはり、昨夜の件で呆れているのだろうか。

 

(……というか、それしかない)


 しかし、時を戻してやり直す術はない。

 見なかったことにしてくれ、忘れてくれと、ニーナは深い溜め息を吐き出した。

 捏ね終わったパン生地をくるくると一つに丸めると、布巾を被せ、エプロンを脱いだ。そして外出着に着替えるために、自室に向かう。

 クローゼットから取り出したのは深緑色のワンピースだ。今持っている服の中で、これが一番まともというか、ましというか……。

 鏡の中に映る地味な自身の姿をみて、ニーナは本日何度目かの溜め息をついて家を出た。

 向かう先は、とある服飾店だ。お針子である友人の一人が、王都に店を構えたのだ。

 ニーナは手紙に同封されていた地図を頼りに、エンジンで走るバスに初めて乗り込んだ。

 あいにく屋根のない二階席しか空いておらず、ニーナは恐る恐る階段を上がる。席は思いのほか埋まっていて、男性の横しか席が空いていなかった。

 仕方がないか、とニーナは諦めて空いている座席に腰かけた。

 木の座席に座ると、大きなエンジン音と共にバスがゆっくりと走り出した。

 

(う……走り出した……!)


 ニーナは思わず木の椅子を握りしめた。馬車とは違った振動に、ニーナは知らずのうちに前屈みになって体を強張らせる。

 

「……大丈夫か、あんた」


 すると、横に座っている男性から声を掛けられ、さらに体に力が入った。


「え……?」

「体、カチコチだぞ」

「か、カチコチ……?」

「ああ、カチコチだ。そんなに固く身構えなくとも、これは馬と違って暴れはしない」


 男は両腕を組んだまま、視線だけをニーナに向けた。榛色の瞳が不可解な様子でニーナを見つめていた。

 ニーナは小刻みに頷きながら、男に倣って背もたれに背を預ける。


「もしかして、車は初めてなのか」

「……は、はい」

 

 田舎者だと笑われるのか。ニーナはそう思ったが、何故か男は目を輝かせて顔を近づけてきた。

 ニーナは上半身を仰け反らせながら、なんだ、と再び身構える。

 

「感想は、どうだ」

「か、感想……?」

「そうだ。車の感想だ。乗り心地はどうだ」

「……ちょ、ちょっとお尻が、痛い、ですかね……」

「ああ、座席の問題だな。いずれクッション性のある素材に置き換えなければいけないな。他には」

「ほ、他には……」

 

 間髪入れず、言葉を催促してくる榛色の目は至って真剣だ。ニーナは、必死に頭を回転させながら考えた。

 

「日、日差しが……。その、二階だと、日差しが強いので、雨除けのためにも屋根が欲しいかと」

「それは既に検討中だ。近いうちに改善される。他には」

「ほ、他には、その、手すりが低いので、子どもたちが乗ると危ないかと」

「ふむ……。安全性か。確かに、子どもは考えもしない行動に出る生き物だからな。落下したら問題だな」

「い、生き物……」

「他には」

「他には……すみませんが、これ以上思いつきません」


 ニーナが頬を引きつらせて答えると、男はようやく身を引いた。

 ニーナは胸を撫で下ろし、男から出来る限り距離を取った。

 男といえば、胸元のポケットから手帳とペンを取り出して、何やら走り書きをし始めた。

 

「突然すまないな」

 

 男は手帳に視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。

 

「え、あ、いえ……」

「婦人の意見も聞きたいのだが、どうにも皆、逃げていく」

「……」


 それはそうだろう。見ず知らずの男にいきなり詰め寄られ、一方的に答えを要求されたら。

 しかも、男の容姿がよくわからない。

 亜麻色の髪は癖毛というか、寝癖というか、いたるところが自由に跳ねている。シャツはアイロンをあてていないのか、皺が寄っているし、それに無精髭だし。

 不審者と言われたら、そのまま信じてしまいそうというか……。

 男は書き終えると、手帳を閉じて道路を見下ろした。


「馬車はまだ運用されているが、近いうちに姿を消すだろう」

「……車、が主流になるのですか」

 

 そういえば、レクセルの会社も車を取り扱っていると聞いた。

 

「あんたは機械が嫌いか」

「いえ、嫌いとかではありません。……ただ、どうやって動いているのか。こんなことを言ったら笑われるでしょうが、魔法のようだ、と思います」

「魔法?」

 

 男は怪訝そうな顔をニーナに向けた。

 

「そんなものは非科学的で現実的ではない」

「あ、いえ、そうなのですが。昔からすれば、空想の乗り物であったものが、こうして機械仕掛けで動いているじゃないですか。そういう意味で、すごい時代だな、と思います」

「ふうん……。それは、できない、と人が思い込んでいるから空想なんだ。できる、と思った人々の努力が、空想という言葉を壊して、こうして今、実現を可能にしている」

 

 ぼさぼさの髪の隙間から覗く男の目は、遥か遠くを見つめるように、前を見据えていた。


「……と、婦人にこんな話をしても面白くないな。どうも、協力ありがとう」

 

 男は肩を竦めながら言うと、両腕を組んですぐに寝てしまった。

 どこまでもマイペースな男の横顔を、ニーナは呆気にとられてまじまじと見つめた。

 あっというまに眠りに落ちたようで、静かな寝息を立てている。

 

(自動車産業に携わる人、なんだろうけど……。都会には、色んな人がいるのね)

 

 少しずつ、都会の空気に慣れていくしかないか。

 

(できない、と人が思い込んでいる……ね)


 不思議と、心に残る言葉だ。

 ニーナは男から視線を外して、見慣れない街並みを視界に映し出すのであった。


***


 古い石造りの建物が並ぶルフェンス地区に、友人の店はあった。

 

「ニーナ!」

「ヒルダ!」

 

 友人――ヒルダの店に無事到着したニーナは、ヒルダと再会の抱擁を交わした。

 

「ニーナ! 心配してたのよ……!」

「ごめん、ヒルダ」

 

 小柄なヒルダは、ニーナの顔を下から見上げた。叱るように、目尻を吊り上げて。

 そして、ニーナの両頬を軽く抓る。

 

「い、いたたっ」

「工場での仕事を辞めていきなり結婚するって言うし! ねえニーナ、一体何があったの」

「うん……。ちゃんと説明する。イーリスは?」

「もう少しで来るはずよ」

 

 すると、店の扉が開かれて鈴が鳴った。


「ほら、来た」 

「ニーナ……!」

 

 ニーナの姿を見るなり駆け寄ってきたのは、もう一人の友人であるイーリスだ。

 イーリスは涙を浮かべて、ニーナの両手を握りしめた。

 

「ニーナ、心配したのよ……!」

「うん……。ごめんね、イーリス」

「あーもうっ。イーリス! 泣いたら駄目って言ったでしょ!」

「だ、だってヒルダ……。しばらく音信不通だったし、ようやく連絡が取れたと思ったらいきなり結婚ってぇ……」

「とりあえず、お茶を準備するからっ。ほら、二人ともそこの椅子に腰かけててっ」

 

 ぐずぐずと涙ぐむイーリスにニーナはハンカチを差し出し、ヒルダの言葉に従って椅子に腰をかけた。

 


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