第五話

レクセルが家に帰ったのは、夜の八時過ぎだった。後回しにしていたリクの設計図を見ていたら、つい時間が過ぎてしまったのだ。

 それにしても、今まで真っ暗だった家に明かりが灯っているというのは変な感じだ。

 違和感を覚えながら、玄関の扉を開けた。すると、美味そうな匂いが漂ってくる。


「お疲れ様です」


 レクセルの帰宅に気づいたニーナが、キッチンから静かに姿を現した。


「ああ……」


 彼女とどう接すれば良いのか、いまいち分からないレクセルはとりあえず頷く。


「お食事とお風呂、どちらを先になさいますか」

「……腹が減ったから、先に飯がいい」


 レクセルは一瞬迷ったが、食欲をそそる香りに惹かれ、食事を優先させることにした。


「分かりました」


 ひと言だけ答えると、彼女はダイニングへと戻っていった。

 相変わらず、表情にあまり変化がない女である。あの分厚い眼鏡のせいで感情が読み取りにくいだけなのか……。

 そんなことをぼんやりと考えながら自室へ向かい、鞄を置いてジャケットを脱ぐ。タイを解き、再び一階へと降りていった。

 今夜は鶏肉の香草焼きだった。それに加えサラダ、かぼちゃのポタージュまで用意されている。


「お酒は召し上がりますか」

「ああ……いや、そのくらい自分でするさ」


 ワインを持ってきたニーナの手から、レクセルはボトルを受け取り自分で注いだ。


「飲むか?」

「あ……。なら、一杯だけ頂きます」


 ニーナのグラスにもワインを注げば、彼女はありがとうございますと、ひと言だけ呟いた。

 そして二人、どちらからともなく夕食を食べ始めた。


「……あんたは、料理が得意なんだな。どれも美味い」


 鶏の表面はカリっとした触感、中は柔らかく、味付けも絶妙だ。ポタージュも濃厚で実に美味い。


「あ……ありがとうございます。得意なのかは分かりませんが、料理は嫌いではありません。お口に合ったなら、良かったです」


 そう答えるニーナの口元が、僅かに綻んだ。

 よくよく見ていれば、表情に少しの変化はあるのかもしれない。

 すると彼女は何かを思い出したかのように、レクセルをちらりと見遣った。


「それであの、今後の参考にお聞きしたいことがあるのですが」

「なんだ」

「何か、苦手な食材とかはありますか」

「別に。なにもない」


 端的に答えれば、ニーナは閉口した。


「どうしたんだよ」

「あ、いえ。すみません。畏まりました」


 首を傾げるレクセルに、ニーナは慌てて首を振った。


「その、市場にはたくさんの食材があったもので。何か、お嫌いなものがないか聞いておかなければ、と思ったものですから」

「ああ、市場に行ったのか」

「はい。とても大きくて驚きました」

「そうか?」

「はい。それにバスにも驚きました」

「バス?」

「馬が引いていたかったもので」

「ああ……。そういうことか」

「二階建てだったことにも驚きました」

「あんた、驚いてばかりだな。まあそういうおれも、あんたが意外と普通に喋っているから驚きだが」

「あ、す、すみません」

 

レクセルに口数が多いことを指摘され、ニーナは両肩を竦めて俯いた。


「いや、別に謝ることじゃないだろ」

「ですが、干渉は最小限にと言われていましたし」

「世間話くらい構わないさ。行動を制限されるわけじゃあるまいし。それに、使用人みたいに畏まられるのも正直窮屈だ。おれは別に、使用人を雇ったわけじゃない」

「は、はい。す、すみません」

「いや、だから謝ることじゃないって」

「は、はい」


 だがそこで、ニーナは黙りこくってしまった。そして自身の手元だけをみつめ、黙々と食事を続けだす。


(よく分からない女だな)


 言葉がきつかったのだろうかと、バケットを千切りながらレクセルはニーナを伺いみる。

 もともとレクセルは、言葉を飾らない。元来の性格からストレートな物言いになってしまうので、異性から冷徹に見られることがしばしばある。

 だが彼女は落ち込んでいる様子というより、何か考え込んでいるようだった。


(大丈夫そうか……)


 仮夫婦とはいえ、これから同居を続けなければならない。結婚に協力してもらっているレクセルとて、少しくらい気を使うべきなのは分かっている。

 よく分からない同居人を視界の端にとらえつつ、レクセルも食事を続けるのであった。




 バスタブにつかりながら、ニーナは湯気で煙る天井をぼんやりと見つめていた。


(……つい、喋りすぎてしまった)


 はぁ、と両膝を抱えてため息をつく。

 レクセルは不思議な人だ。冷たい人間かと思えば話を意外と聞いてくれるし、ニーナを使用人扱いするわけでもないようだ。

 先ほどだってそうだ。

 食後にキッチンで片づけをしていたら、自分の食器くらい自分で洗うと横に来たものだから、どうしようかと本気で焦った。

 今までそれが彼の習慣だったのかもしれないが、突然傍に来られたら困る。

 慌てて彼から食器を奪い取って、無理やり風呂に追いやったのだが、ニーナの慌てぶりにとても訝しんでいた。

 ニーナはお湯の中に顔を半分沈め、ブクブクと息を吐いた。


(だって、傍に来られたら緊張するんだもの) 


 ニーナは、ある時を境に男性が苦手になった。大勢でいるぶんならまだしも、至近距離に来られたらどうしても身構えてしまう。

 思い出したくない記憶が脳裏を過ぎり、振り払うようにして勢いよく立ち上がった。


(さっさと寝よう)


 壁に掛けてあったタオルを取り、バスタブを乗り越えようと片足をあげる。このバスタブは大きいだけあって、高さもある。

 躓かないように慎重に乗り越えると、バスマットの上に片足をついた――が。


「――っうそ!?」


 バスマットがつるりと滑り、ニーナは前のめりに思いっきり滑った。ドン、と大きな音を立て、素っ裸のままで。


「ったたた……」


 ああもう最悪だ。ニーナはぶつけた腕と足をさすり、ゆっくりと起き上がる。

 だが、ニーナの悲劇はそこで終わらなかった。


「おい、大丈夫か!?」


 物音に反応し、駆け付け扉を開けたレクセルとバッチリと目があった。

 ……そう、ばっちりと。

 ニーナとレクセルは、互いの姿を見て硬直した。時が一瞬止まり、奇妙な沈黙が流れた。

 先に動いたのは、レクセルだった。彼は気まずそうに視線を逸らすと、寝間着の上に羽織っていたガウンを脱ぎ、それをニーナの頭からばさりと被せた。


「おい、眼鏡はどこにあるんだ」

「……え」

「眼鏡だよ」

「え、あ、だ、大丈夫です。ちゃんと見えてますので。その、バスマットがつるっと滑っただけでしたので」

「そうかよ。気をつけろよ」

「あ、はい。驚かせてすみません」


 ニーナの強張った腕を掴んで立たせると、レクセルは振り返らずに浴室を出て行った。

 そこで緊張の糸がほどけたニーナは、顔を真っ赤にさせて再び床に蹲る。


(み、見られた……。絶対、ばっちり見られた……)


 うわぁああああと内心で叫びながら、穴があったら入りたい、と切実に願うニーナであった。

 だが、彼女は気づいていない。

 混乱のさなかに交わした会話で、不可解な言葉を残してしまったことを。

 


 一方自室に戻ったレクセルは、疲れたようにベッドの上に寝転がった。そして暗い天井を見上げる。

 いきなり階下から大きな物音がして、慌てて見に行ったら、ニーナが浴室で盛大に転んでいた。

 それも、裸のまま。

 意外と胸があったことや、上から下まで柔らかそうな肢体は、正直なところ、魅力的であったと思う。……パッとしない外見からは考えられないが。

 いや、何か違うぞ、とレクセルは思い直す。

 先ほどの彼女の裸体はひとまず置いといてだ(あれは見なかったことにするのが、お互いのためだろう)。

 先ほどの、あの固まった表情をよく思い出せ。違和感は、そこにある。

 スッと筋の通った鼻梁に、やや目尻の下がった翡翠の目。血色の良い、桃色の唇。

 あの分厚い眼鏡をなくしてみれば、こうも印象が違うものなのか。

 結婚式のだけは外していたと思うが、正直レクセルは彼女に興味がなかったし、彼女は常に顔を伏せがちだし、緊張からか目も合わさなかったから気づかなかった。

 はっきりいって美人の部類に入るぞ、あれは。そう、あの眼鏡がなければ。


(ん……?)


 と、そこでまた違和感だ。彼女は、先ほど何と言ったのか。

 眼鏡を取って来ようと言ったレクセルに、彼女はこう答えた。“ちゃんと見えてますので”と。

 確かに、彼女の焦点は真っすぐ自分に向けられていた。ばっちり目があったし。よくよく思い返してみれば結婚式の時だって、眼鏡がないのに何かに躓いたり、距離感を掴み損ねていた節はない。

 となれば、あの眼鏡はただの飾りなのか。――だが、一体何故? 理由があるのか、それとも趣味なのか。


(……分かんねえ)


 まあ別に、放っておけばいい話か。これは契約結婚。仮面夫婦の自分達は、互いに干渉する必要はない。そういう関係を望んだのは、誰でもないレクセル自身である。

 眼鏡は彼女の趣味。そういうことにしておこう。

 なら早く寝て色々忘れてしまおうと目を閉じたレクセルであったが、何故だかなかなか寝付けないのであった。

 

 

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