第四話

 ニーナが今まで暮らしていた場所は、ここから汽車で一時間かかるが、さほど田舎ではないと思っていた。工場地帯であった街は労働者が多く賑やかで、田舎といえば農村地帯を指すものだと。だがそれは、ニーナの大きな誤りであったらしい。

 大国エルシャの中心地――ルド。街を行き交う人々の多さに、ニーナは圧倒されていた。


(みんなお洒落……。バスは二階建て……!? しかも、馬じゃない……)

 

颯爽と歩く女性たちは、軽やで、色鮮やかな服に身を包んでいる。ヒールが石畳を軽やかに打てば、スカートの裾がひらりと躍る。足が見えてもお構いなしだ。

 思わず目を奪われていると、大きなエンジン音が背後に近づいてきた。後ろを振り返ってみればバスが近づいてきて、ニーナの前をあっという間に通り過ぎて行った。

 ニーナが知っている乗合馬車は三、四人ほどが乗れる小さなものだった。それも、馬が引いているもの。

 だが今目の前を通り過ぎたものは、エンジンで走っている。


(すごい……)


 排気ガスに髪を攫われながら、ニーナは驚きに足を止めていた。

 そして自分の姿を見下ろし、確かにこのままでは、仮とはいえ夫に申し訳ないと考え直す。

 ニーナが身に着けているワンピースは、型が一昔前のものだ。

 自分はこれで良いと思っていたが、せめて出歩く時くらいは気を付けなければ、彼に迷惑をかけてしまうだろう。悪評が付き纏っては申し訳ない。

 ……自分を妻に選んだ時点で、既に手遅れかもしれないが。

 ともかく早急に解決するべき事項だと、ニーナは頭に入れて、気を取り直して歩き出す。

 服に関しては、スペシャリストの友人がいる。それもこの街に。近いうちに会いに行き、相談をしてみよう。彼女には、報告しなければならないこともある。彼女だけでなく、結婚してこの街に暮らしている、もう一人の友人にも。

 とりあえず、今日は食料品の買い出しだ。店の場所を覚えないといけない。

 ニーナは地図を頼りに市場に出たのだが、そこはさらに人で溢れかえっていた。

 煉瓦造りでできた巨大な建物の中には、幾つもの店がずらりと並んでいる。


「いらっしゃい! 何をお探しだい!?」

「ちょっと、順番に並んでおくれ! え、今日は仕入れてないよ!」


 店主たちの活気に満ちた声が、市場内に響き渡る。

 ニーナは目を輝かせながら、市場の中を歩いていく。中にはカフェも造設されていて、買い物途中で休憩もできるようだ。

 順風満帆な結婚生活ではないが、せめてこうした場所で、少しの息抜きくらいは許されるだろうか。


(でも、息抜きをするには働かないと。今日は、何を作ろうかな)


 あいにく、レクセルの好みなどニーナには何一つ分からない。尋ねるのはなんとなく憚られるが、せめて苦手な食材くらいは今夜にでも聞いておこう。

 けれど、あの無表情――いや、しかめっ面で『別に、なんでも』とでも言われそうだ。

 とりあえず、今日は鶏でも買って帰ろうか。

 ニーナは頭の中で献立を立てながら、食材を物色するのであった。


 一方、そのころレクセルは――。

 

「よっ、新婚さん」


 会社に着くなり、後ろから肩を軽く叩かれた。

 振り向かなくても分かる。共に会社を興した一人で、顧問弁護士を務めてくれているマルクス・リトラだ。


「……なんだ」

「あれ、不機嫌だな。なんだ、初夜で失敗――ってぇええええ!」


 マルクスが言葉を言い終える前に、レクセルは彼の鳩尾に一発入れておいた。


「何すんだよ!」

「おまえは朝から煩いんだよ」

「だからって殴るか!?」

「なら余計なことを言うな」


 話は終わりだと言わんばかりに、レクセルは自身のデスクに腰かけた。そして鞄から書類を取り出し、仕事の準備をし始める。

 マルクスはそんなレクセルを、榛色の目で眺めた。心配の色を乗せて。


「……本当に良かったのか?」


 その問いにレクセルは敢えて面を上げず、当然のように、淀みない声で答えた。

 古くから付き合いのあるこの友人は、少々心配性な節がある。


「わが社にとって利益になるんだ。何を躊躇うことがある」

「だけど、奥さんはそれで納得してるのか?」

「そういう契約だからな」


 まだ何か言いたげなマルクスであったが、これ以上何を言っても無駄だと悟ったのか、これ見よがしに大きなため息をついた。


「おはよう、二人とも」


 すると秘書のダリア・ペーデルがお茶を運んできた。彼女もまた、会社設立に手を貸してくれた一人だ。

 煌びやかな金髪を緩やかに巻いて、色白の肌に赤い唇がよく映えている。ウェストは細く、仕事用のタイトなスカートに白のブラウスを合わせている。


「ああ、おはようダリア」

「マルクス、朝から痴話喧嘩?」

「まあね」


 マルクスは肩を竦めて言葉を濁した。


「新婚さんをあまり苛めたら駄目よ」

「ああ」

「わたしは、苛めていいけどね」


 目を猫のように細めて、ダリアはレクセルをみやった。すると今度はレクセルが両肩を竦める番になる。


「女は怖いな」

「ふふ」

「おいおい。おまえらこそ喧嘩すんなよ」


 二人が付き合っていたことを知っているマルクスは、面倒くさそうな表情をつくって、ダリアからカップを受け取った。


「あら、冗談よ」

「本当かねえ」


 残りのカップをレクセルの前に差し出したダリア。レクセルは礼を言うと、笑みを崩さない女の横顔を一瞥した。

 ダリアとは確かに付き合っていたが、互いに割り切った関係だった。

 彼女は見かけによらず男のような性格で、自分を束縛しないし、試すような言動もしない。

 都合が合えば体を重ねるが、互いに踏み込まない関係だった。


「それで仕事の話だけど」


 ダリアはマルクスとの話を終えると、レクセルに向き合った。


「新しいエンジンの設計図、リクから預かってるの。この後持ってくるわ」

「へえ。相変わらず仕事が速いな、あいつは」

「仕事が速い……。そうね、それは確かにそうだわ。でもね、あいつに常識というものはないのよ」


 ダリアは急に刺々しい口調に変えると、顔を顰めて両腕を組んだ。


「わたしに届けにきたのは夜中よ、夜中! 寝ようとした矢先に届けにくるのよ。なんなのあいつ、不審者と変わらないわよ! 〝疲れたから明日は出社できない。なのでボスに配達してくれ。じゃあよろしく″って、私は郵便局員か!」


 リクの口調を真似ながら憤慨するダリアに、レクセルとマルクスは顔を見合わせた。そして苦笑する。

 リクは社内で一番の変わり者であるが、仕事において、彼の右に出る者はいない。

 そう、変わり者であるだけで……。


「今頃、シャワーも浴びずに家に引きこもってるわよ」

「まあ、今日は休ませてやれ。明日には出社するだろ」

「なら、部署にそう連絡しておくわ。それと今日の予定だけど――」


 スケジュールを確認しながら、レクセルたちはいつもの日常を始めるのであった。


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