第三話

 ニーナの朝は早い。まだ日が昇っていない中、ニーナは目を覚ますと、まず初めにランプに灯をつけた。

 次に寝間着を脱いで簡素なワンピースに着替えると、足音を立てないように一階へと降りる。慣れない家は、気を付けないと距離感を図り損ね、家具や壁にぶつかりそうだ。

 到着した洗面所で顔を洗うと完全に目が覚め、何をするべきか頭が冴えてきた。

 今日から工場での仕事はない。でもその代わり、やることは山積みだ。

 さて、始めよう。新しい生活を。

 ニーナは気を引き締めて、キッチンへと向かった。

 寝る前に仕込んでいたパン生地を取り出すと、思ったよりもふっくらと膨らんでいる。

 ニーナは小さく微笑むと、優しく手でガスを押し出し、慣れた手つきで形成していく。

 そして生地を休ませている間に、要領よくオーブンの準備をする。

 今日の朝食は、パンとチーズ、フライドエッグ、ベーコン、それと野菜のスープだ。

 本当なら口直しに果物を用意したかったが、果物は食材庫に見当たらない。


(今日から買い物に出かけても良いか、旦那様に聞いてみようか……)


 野菜をリズムよく刻みながら、ふと考えた。

 今までは通いの家政婦が掃除から洗濯、料理までしてくれていたそうだが、今日からその仕事はニーナが引き継ぐことになる。

 契約結婚なのだから、妻という名の家政婦のようなものだ、とニーナは理解していた。

 それに彼は、私生活に関与するなと言っていたから、適度な距離を保つ意味でもそれが正解だろう。

 ニーナ自身もそう割り切った方が楽だし、それで母親の治療費を保障してくれるのだから、むしろ有り難い話だ。


(だけど、まさか自分が今更結婚だなんて……。人生、何があるか分からないものね)


 ニーナは二十四、今年で二十五歳になる。それに比べ、夫となったレクセルは二つ年下だと聞いた。

 行き遅れた自分を、仮にも目的があるからといって受け入れるとは……。随分と変わっている。

 鍋で野菜を炒めて水を入れると、カーテンの隙間から朝日が差し込んできた。

 カーテンを開けてみれば、昨日とは打って変わって快晴――洗濯日和だ。

 昨日と比べ、心も多少は晴れやかな気分になる。

 オーブンの中へパンを入れると、一息つくためにお茶を淹れた。

 すると階段を下りてくる足音が聞こえてきた。

 まだ、起床の時間には早いと思うが……。


「おはようございます、旦那様」


 姿を現したレクセルに、ニーナは慌てて挨拶をした。 


「……ああ」


 レクセルはニーナを認めて一瞬驚いたが、小さく頷いた。彼は糊のきいた白いシャツに黒のトラウザーズを合わせている。


「申し訳ありません。朝食まで、もうしばらくお待ちいただけますでしょうか」


 大きな時計をみれば、時刻は六時。朝食は七時だと聞いていたが……。急がなければ。


「構わない。お茶を淹れに来ただけだ。すぐ部屋に戻る。自分で運ぶから用意してくれないか」

「そうでしたか。なら、今ちょうど淹れたところですので準備します」

「ああ、悪いな」


 トレイの上にティーポットとカップを手早く用意すると、彼は短く礼を言って上へ戻っていった。


「……びっくりした」


 ニーナは詰めていた息を吐き出した。

 予想していた時間よりも早く起きてくるから。本当に、お茶の準備をしていてよかった。ここで待たれていたら、何を話していいのか分からない。


「……あ。わたしのお茶、淹れ直さないと」


 ニーナはケトルに残ったお湯で、お茶を淹れ直したのであった。



 一方のレクセルは、そういえば同居人が一人増えたのだったと、自室で本を読みながら思い返していた。

 いつもの習慣で、湯を沸かしに行ったら野暮ったい女がキッチンに立っていて、正直、一瞬驚いた。――旦那様と呼ばれ、それが妻だと思い出したが。

 くすんだ赤髪を後れ毛一つなくかっちりと纏め、それに加えて分厚い丸い眼鏡。服は着古した、うす暗い紺色のワンピース。

 正直言って、誰が見てもパッとしないだろう。愛想もないし、淡々としているし。

 まあ、レクセルにとってはどうでも良い。派手で姦しい女より、物静かで互いの距離を保てる存在の方が好都合だ。

 それにしても、彼女が亡き祖父とどういう関係にあったのか。調べさせているが、まだ調査途中で分からない。


(彼女自身もまったく分かっていない様子だったし、少し時間がかかるか……)


 だが、これで奪える。今度は自分が、あいつらから。

 レクセルは眉間に深い皺を刻み、書棚に立かけられている写真に目をやった。

 そこには一人の少年と、彼の母親が映し出されている。

 椅子に座る少年は照れくさそうに顔を逸らし、彼の後ろに立つ母親は優し気に微笑んでいる。

 セピア色の中に刻まれた一瞬。もう、二度と戻らない時。

 レクセルは拳を握った。


「――あの、お食事の用意ができました」


 すると扉が叩かれ、控えめに声がかけられた。どうやら、わざわざ呼びに来てくれたらしい。


「……分かった。今、行く」


 そう答えれば、扉の前から気配が静かに遠ざかっていった。

 レクセルは立ち上がると、写真立てを伏せて、階下へ降りていく。

 すると、なんとも香ばしい匂いがダイニングに広がっていた。これは小麦――パンの匂いだ。


「……あんたが焼いたのか」

「あ、はい。小麦が用意されていましたので、使わせてもらったのですが……。あの、ご迷惑だったでしょうか」

「いや、まさか」


 テーブルの上には、パンとチーズ、程よく焼いたベーコンとフライドエッグ、そして野菜がたっぷり入ったスープが置かれている。

 通って貰っていた家政婦は、外で買ってきたパンを持ってきてくれていたので、まさか焼き立てが食べられるとは……。

 ただ気になったのが、用意されている食事は一人分だ。


「おい、あんたの分は?」

「あ……。旦那様のお見送りしてから、食べようかと」

「一緒に食べればいいだろう。洗い物も一度で済む」

「え、あ……はい、分かりました」


 ニーナは驚いた様子だったが、急いでキッチンへ入ると自分の食事を取ってきた。彼女が椅子についたのを確認してから、レクセルは両手を組んだ。


「いただきます」

「い、いただきます……」


 そして二人、黙々と食事を取る。

 レクセルは、まだ熱い丸いパンを手に取ると、それを二つに割った。生地はふわっとしていて柔らかく、簡単にちぎれた。口に含んだら、小麦の香ばしい匂いが口いっぱいに広がった。


「……美味いな」


 思わず、素直な感想が口をついた。

 小さな呟きだったが、ニーナには届いたらしい。彼女は驚いたように瞬きした。


「……なら、よかったです」


 ニーナもひと言だけ返すと、二人は黙々と食事をつづけた。

 

 食事を終え、レクセルが身なりを整えて家を出ようとしたとき、ニーナが声をかけてきた。レクセルは帽子を片手に、振り返る。


「なんだ」

「あの、今日から食材の買い出しに行っても構わないのでしょうか」

「そんなもの勝手に……。ああ、そうか。必要費を渡していなかったか」


 レクセルは財布からいくらかの紙幣を取り出してニーナに渡した。


「とりあえず、これで。足りなくなればまた言ってくれ。身の回りのものも、何か欲しければ勝手に買えばいい」


 それだけ伝えると、もの言いたげなニーナに気づかないレクセルは帽子を被って家を後にした。


(……金さえ与えていれば、とりあえず文句はないだろ)


 今まで家政婦に支払っていた金額に、上乗せして払っていれば十分なはず。

 懐中時計を開いて時間を確かめると、会社がある街の中心地に向かって歩き始めたのであった。



 ニーナは閉じられた扉を見つめ、ため息をついた。


(食材と日常品だけなら、二か月は軽く持つわね)


 レクセルがいつかと同じように、数えもせずにニーナに渡したお金。食材と日常品だけなら、二か月は軽く持つだろう。

 それに身の回りのものも、と彼は言ったが……。彼は夫とはいえ、他人同然の存在だ。そんな人の金を簡単に使えるわけがない。

 自分の身の回りのものは、極力自分でなんとかするべきだろう。ここでの生活に慣れてきたら、外で働いてもよいか聞いてみよう。

 この結婚は、レクセルが亡き祖父の会社を手に入れるためだけの。ニーナは母親の治療費を肩代わりしてもらうための結婚だ。この先何十年も、夫婦でいることなどないだろう。

 とはいっても、今は仮でも妻だ。やることは、きちんとやらなければ。


(まず、することは洗濯と掃除。それから買い物。それが終わったら夕食の仕込み)


 ニーナは手にした紙幣を大まかに仕分けると、家の中の掃除に取り掛かった。


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