第二話
その日、ニーナは工場での仕事を終えて、狭いアパートに帰ってきたところだった。
今日も一日疲れた、とケトルで湯を沸かしながらため息をつく。誰もいない部屋は静かで、そして寂しい。
だが、戸棚の上に飾られた家族の写真を目にすれば、だるい体がわずかに軽くなった。
しっかりしろと、ニーナは自分に言い聞かせる。
亡き父の代わりに、母を守るのだ。
(今月の治療費、先生に待ってもらっているし……。来週までに、払わないと)
父が残してくれたお金は、もうほとんど手元に残っていない。母親の治療代に消えてしまった。
今は、ニーナが支えるしかない。
母親の容態は日に日に悪くなっているから、なんとかして金を工面しないと……。
日雇いの仕事を一つ増やさないといけないな、と頭を働かせていると、コンコン、とドアが叩かれた。
(誰……?)
アパートの家賃は、この間支払ったはずだ。
ニーナはドア越しに、はい、とだけ短く答えた。警戒の色を滲ませて。
ニーナが住んでいる街、タスレスナは工場が集まる街で、ニーナと同様、金を求めて働く下級階層の労働者が多い。
夜の治安は、富裕層が集まる都と比べてあまり良くないのだ。
「ニーナ・ランデル殿はおられるか」
それは若い男の声で、ニーナはわずかに体を強張らせた。
「……ニーナ・ランデルはわたしですが。あの、どなたでしょう」
「おれはレクセル・フランソンという者だ。突然ですまないと思うが、取り急ぎ、あんたに話がある」
「……」
男の声に、淀みはなかった。不信感を抱えたまま、ニーナは恐る恐るドアを開けた。
するとそこには、背の高い男が立っていた。彼は上質な服に身を包んでおり、一目見て上流階級に生きる者だと分かった。靴も、汚れ一つなく磨かれている。
次に、おずおずと男の顔を見た。柔らかそうな黒髪には艶があり、海を思わせるような藍色の目は厳しさを孕んでいた。けれども美しい目だなと、ニーナはその時、確かに思った。
一方の男は、ニーナの姿を認めると一瞬片眉をあげた。
くすんだ赤色の髪に、野暮ったい眼鏡。それに加え、着古したパッとしない深緑のワンピースを着たニーナは、さぞ地味にその目に映っただろう。ニーナは申し訳なさそうに肩を竦めた。
しかし男はすぐに表情を戻して、被っていたボーラーハットを取るとニーナに会釈した。
ニーナも、慌てて頭を下げる。
「すまないが、部屋に入れてもらえるだろうか。初対面で悪いと思うが、少し、込み入った話になる。どこかで食事をしながら……とも考えたんだが、あまり人に聞かれたくないんだ」
「……あ、はい」
ニーナは戸惑いながらも、渋々男を家に上げることにした。
ちょうど湯が沸いたところで、ニーナは目の前の男にお茶を用意した。家にある中で、一番綺麗なカップに淹れてみたが……。
男は椅子に腰かけ、不機嫌そうな面持ちで机の一点を睨みつけていた。
「あ、あの……。よければどうぞ……」
「ああ、すまない」
男は差し出されたカップを受け取ると、躊躇いなく口をつけた。てっきり、嫌な顔をすると思ったが……。
ニーナは男の目の前に座って、紅茶を口に含む。
きっと男の口には、安物の茶葉は合わないだろうと、申し訳なく思いながら。
「あの、フランソン様……。お話とは、なんでしょうか」
ニーナは、おずおずと話を切り出した。ニーナは、初対面の人と話すのは苦手だ。話を終わらせ、早く帰ってほしかった。
「……レクセルでいい。様なんてつけられると、胸糞悪いんだ」
「あ、はい……」
胸糞悪い、か。身なりと違って、口はお上品ではないようだ。
レクセルは長い脚を組みなおして、言葉を続けた。
「実は先日、おれの祖父が身罷った」
「……それは、ご愁傷さまです」
とりあえず、社交辞令を返しておく。
彼がここに来た理由と一体何が関係あるのだろうか。
「爺の名前はサミュエル・ベック。聞き覚えはないか」
「サミュエル・ベック……?」
ニーナは自身の記憶を辿ってみるが、そんな名前の知人はいない。
一方のレクセルは、ニーナの仕草をじっと鋭い目で見つめていた。
「奴は実業家として名を馳せた爺だが、ろくでもない奴で……。死んでから更に訳がわからないことになった」
首を傾げたニーナに、レクセルは胸元から一通の手紙らしきものを取り出した。
「これは奴が残した遺言の写しだが……。ニーナ・ランデルをおれが妻に迎えれば、奴が残した会社を譲ると記されているんだ」
「…………は?」
何で、わたしなんかの名前があるのだろう。
差し出された紙を広げてみれば、確かにそこには自分の名前がある。眼鏡の奥で何度も瞬きして見る。
「おれの家事情は色々ややこしくってな……。平たく言えば、おれは非嫡出子ってやつだ。つまり、爺の息子の愛人の子どもだ」
「……は」
「本来なら関わりたくもないが、あいにくおれの父親はもう他界している。そのうえ、父親と本妻との間に子がいない」
「あなたしかいない、ということですか」
「あぁ。正直、あいつが残した財産なんて興味がない。だが、おれたち……おれと母親が肩身の狭い思いをしてきたことは事実だ。だから、全部本家のやつにくれてやるのは癪だ。財産はあいつらにくれてやって構いやしないが、奴の石油事業だけは譲りたくない」
そう言う男の目には激しい憎悪があって、ニーナは息を呑んだ。
何と答えればいいのか分からず押し黙ってしまうと、レクセルは一息ついた。そして髪をかき上げると、懐から名刺を取り出してニーナに手渡す。
「おれは、自動車事業に携わっている。石油は、重要なファクターなんだ」
「自動車、ですか……」
自動車なんて、一般市民からすれば、手の届かない高級品だ。しかも名刺をよく見れば、彼は代表――つまり、社長ではないか。
表情には出ないものの、ニーナの頭の中は混乱で渦巻いていた。
「あんたのことを、悪いと思うが多少勝手に調べさせてもらった」
「!」
向けられた藍色の目に、ニーナは思わず身構えた。
(……調べたって、何を……。ま、さか……)
ごくり、とニーナは唾を呑んだ。膝の上に置いた手が、無意識のうちに服を握りしめていた。
射貫くような鋭い視線を受け止められず、ニーナは俯いた。
「爺さんとあんたがどういう繋がりがあるのかは、まだ分からない。でもあんた、母親が入院してるんだろ」
「!」
「……違うのか?」
目を見開いて硬直したニーナに、レクセルは訝しげに首を傾げた。
「あっ……いえ。あ、そうじゃなくって、はい……。そうです……」
母親のことかと、ニーナはこっそりと胸を撫でおろした。
「支払いが、時々遅れていると聞いた」
「……その通りです」
女一人で、入院費と治療費を払い続けることは難しい。レクセルは、唇を噛んだニーナを一瞥した。
「もし、このとんでもない遺言に協力してくれるなら、おれが母親の治療費を肩代わりする」
「……え」
ニーナは男の顔を二度見した。
「肺の病なら、治療費の負担も大きいだろう」
「……はい」
「おれは、本家の奴らに一泡吹かせたい。あんたは、金が必要だ。利害は一致すると思わないか?」
「そ、れは……」
ニーナは言葉に詰まった。
確かにそうだ。こんな美味しい話は、どこにもないだろう。
母親の容態が悪化していくにつれ、治療費はかさんでいく。いずれ手が回らなくなったら、借金をするしかないか。……身を、売るしかないか。
『――待っていてほしい、ニーナ』
かつて、約束を交わした人の背中が、脳裏にちらついた。
いや、だが――。
(……わたしには、もう約束を果たす資格は――)
ニーナは諦めたように瞼を伏せた。何度も、自問自答してきただろう。
きっともう、何もかもが手遅れなのだ。
「もちろん、返事は今すぐにとは――」
「……いえ、お受けいたします」
ニーナは目を伏せたまま、小さな声で――けれども、はっきりと告げた。
レクセルは、驚いたようにニーナを見た。
ニーナはあかぎれだらけの手を握りしめ、意を決して顔を上げる。
思い出は、綺麗な思い出のまま。心の宝箱に、大切にそっとしまおう。
「……あんた、本当にいいのか?」
ニーナはこくり、と頷いた。
「母を助けて下さるなら、わたしは構いません」
「……正気か」
「はい。ですが見ての通り、わたしはこのなりです。あなた様こそ、本当によろしいのでしょうか。……こんな女を伴侶に選んで」
「おれは、別に誰が妻になろうが構わない。言い方は悪いだろうが、どうせ仮初めの、飾りだけの妻だ。地味なほうが助かる」
レクセルはそれだけ言うと、話は終わったとばかりに立ち上がった。
そして懐から財布を取り出し、紙幣を適当に摘むと机の上に置いた。
「また後日、使いの者を送る。これは前金だ。……話をなかったことにされると困るからな」
驚いたニーナが立ち上がって口を開く前に、レクセルはそれだけを告げて去って行った。
残されたニーナは、閉じられた扉を呆然と見つめたまま、力をなくしたようにずるずると椅子に座りこんだ。緊張の糸が切れたのだろう。ほんの数十分の出来事なのに、情けない。拳を握っていた手が、震えている。
机の上に両肘をつき、頭を抱えてため息をついた。
ちらりと視線を前に向ければ、おざなりに置かれた紙幣が目に入り、ニーナは一人、せせら笑った。
(……みじめね)
まるで、あの時みたいだ。
ニーナはしばらく椅子から立ち上がれずにいた。
それから、あれよあれよという間に話は進められ、一か月後にはニーナはレクセルの花嫁になったのであった。
一人の参列者もなく、密やかに。
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