第9話

 背中の方から急にガチャンという大きな音がした。立て続けに布を切り裂くような高い音が聞こえたかと思うと、次は嵐が吹いているような風の音が聞こえた。顔を上げてキョロキョロとあたりをうかがう。屋敷の外は風など全く吹いていなかった。逆に暑さを和らげてくれる涼やかな風が欲しいぐらいだった。じっと耳を澄ましてみた。わめき泣き叫ぶ子供の声と悲鳴が聞こえる。そのうち物と物がぶつかって壊れたり、重い物を引き摺っているような音があちらこちらから聞こえ始めた。

「一体なにが起こっているの? まさか……フィンが襲われているの?」

 窓から屋敷の中を覗いてみたけれど見えるのは窓だけ。中なんてなに一つ見えない。焦りばかりが募っていく。私は窓ガラスを力を込めて叩いた。

「フィン、大丈夫なの!? 入れてちょうだい」

 返事の代わりに壁に衝突して破裂するような音がした。一刻を争う。強引にでも中に入らなきゃ。窓にめがけて鞄を投げつける。ガラス割れる音に備えて耳を塞いだけれど、鞄はソファに投げたときみたいにふわっと跳ね返された。

「この家どうなっているの?」

 言いようのない不安な気持ちに襲われたけれど打ち払うように何度も鞄を投げ続けた。しかしその度に鞄は手元に戻ってきた。

「どうして……」鞄を持つ手が震える。不安や焦りを通り越して、これは怒りだ。中に入れてくれないのは私が女だから? 女だから役に立たないって言うの? 

「私のこと入れなさいよ! バカフィン! 開けろ!」

 私は壁に向かって拳を突き出した。すると壁が粘土みたいに柔らかくなって内側に凹んでいく。壁の中に引っ張られるように体ごと吸い込まれ、あっという間に屋敷の中のホールに出た。

 中は椅子やテーブル、花瓶や調度品が宙に舞い、カーテンは激しく波打って窓に何度も打ち付けられて、あるもの全てがめちゃめちゃになっていた。私は思わず口を押さえた。

 フィンはホールの隅で黒い旋風から逃げようと体を前後にふらつかせていた。大声でフィンの名前を何度も呼びながら走って近づいた。

 フィンは弾かれたように私を見た。「どうして……だ……」かすれた声で答えた。

「待ってて、私がどうにかして見せるから」

 私は鞄からフライパンを取り出した。屋敷の料理長に何度もお願いして借りてきたものだ。よろつきながらフライパンを構える。鉄製で厚みがあって、なおかつ重い。当たれば確実にダメージを与えられるはず。

 フィンを取り囲む黒い霧が私に向かって一斉に触手のように伸びてきた。私はフライパンを振り上げる。

――そんなものじゃ倒せないよ

 大人びた男性の笑い声が響くように聞こえる。

――君はバカだな

 更に声を立てて、いつまでもおかしそうに笑っている。

「次から次へと……訳がわからないことが起こる日ね。それであなたは誰なの」

 目の前に迫っている黒い霧の中でひときわ深く濃い黒い色の中に淡い金色の瞳が浮かんでいた。私は暗闇の中から強く光を放つ目が離せなかった。金色の目も私の方をじっと見ていて、私たちは黙ったまましばらく見つめ合った。

「誰か知らないけどもうやめてあげて。フィンが苦しんでいるわ」

――これは誰にも制御できない。なんとかできるならもうしている

「なんて無責任なの。呆れちゃうわ」

 私は突然頭の上の方から生じた騒音に思わず耳を塞いだ。絶叫している声、泣き叫ぶ声、うなり声とが混じった凄まじい不協和音だった。

――力が抑えきれない。広がっていく。形なきものに支配される……急げ

「急げって言われても……」

 勝手に進んでいく話に私は少し面食らってしまった。その間にもフィンを取り囲む黒い旋風はなおも勢いが止まらず床や壁に何度もぶつかり、辺りにあるものを風に巻き上げ吹き飛ばしていく。次々に花瓶や家具達がヒステリックな音を出して落ちていった。

 仕方なくフィンをじっと眺めていると不思議と大声で泣き叫んだり、暴れたり、癇癪を起こしている子供みたいに見えてきて、存外子供っぽい理由で混乱が起こっているのかもしれないと思うと気持ちが楽になった。私は意を決してフィンに向かってゆっくりと足を進めた。

 近づくにつれて金属同士がこすり合わさって出されたような不快な音がますます大きくなっていく。人間でも獣でも聞いたことがない恐ろしい音。壁や天井にぶつかった音が反射し衝撃の残響が不協和音となって襲いかかってくる。

 不快極まる音に耳を押さえて首を横に振り続けた。手をすり抜けて頭の奥まで響いてくる音にたまらず、かき消すように大声で歌った。私の旋律が不快な音に徐々に重なり合い混じり合って均一化されやがて音が一気に消え失せた。

 私はフライパンを手離し、フィンに一気に駆け寄り膝立ちになった。フィンと目を合わす。フィンは驚いたような顔をした。私はゆっくりと手を伸ばし小さな体を抱き寄せた。フィンは腕の中でジタバタと暴れ「離せ」と何度も呻いた。私はさらに引き寄せて背中をぽんぽんと優しく叩く。

「……今日からずっと私がそばにいるわ」

 フィンはびくんと体をのけぞらせ、そのまま膝から折れて倒れ込んでいった。体はグッタリとして生気がなく、まるで魂が抜けてしまったみたいに反応がなくなった。

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序盤で退場するかませ犬はストーリーに復帰しないことを望みます 吉尾唯生 @yoshiotadao

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