現代百物語 第27話 『  』

河野章

第1話 現代百物 第27話 『  』

「この間のさ」

「はい?」

「この間の店覚えてるか?人魚の肉出してくれた」

「うっ……覚えてます」

「あそこにさ、また行こうと思うんだけどお前はどうよ」

「僕は……」

 藤崎柊輔に誘われて、谷本新也は迷った。

 行きたくはない。行きたくはないが、一応先輩でもあり友人でもある藤崎が、またあんなものを食べさせられたらと思ったら、気が気ではなかった。

「美味いだろ、あそこ。おごってやるから行こう」

「……」

 結局はいつものとおり、2人して店に向かうことになった。


 「いらっしゃいませ」

  その店は相変わらず細い路地の奥の奥にあった。

 「お待ちしておりました」

 と、柔和な笑顔を浮かべる店主も同じ。相変わらず若いのか年なのかわからない姿だ。

 細長いカウンターの中央には先客が1人。

 その客の前から体を離して、店主が

 「今日はそこそこ変わったものならお出しできると思いますよ」

 などと言うのに「へえ」と藤崎が興味を示すものだから、新也は単品のメニューをくださいと慌てて告げた。

 席は向かって左側のカウンター席に通された。

 側を通る時、カウンターの前で1人、酒を飲んでいる男と目が合い、新也は会釈する。

 男はそれに気づくと笑って盃を軽く上げた。

 凄みのある美形、というのだろうか。見事な体躯にぴったりとしたスーツを身につけている。店主と親しそうに喋る以外は物静かな印象だった。男は、新也たちより一回り年上に見えた。

 「凄いな……」

 流石の藤崎も男の様子に気づいて新也に目配せしてくる。

 新也は頷き、首筋のゾクゾクした感覚を振り払うように注文を頼んだ。

 牡蠣酢、フグの唐揚げ、舌平目の姿焼き、天ぷら盛り合わせ……無難そうなメニューを、藤崎と交互に次々とお願いする。

 最初は特におかしなこともなく、2人は楽しく飲んでいた。やはりどれも美味い。

 しかし、新也は途中でふと、カウンターの中央の男が妙なジェスチャーをしているのに気づいた。

 運ばれてくる料理を前に、何やら手づかみで摘むふりをする。

 そしてそれを(実際は何も摘んでいないのだが)、ひょいっと口に放り込む。

 まるで寿司でも食っているかのようだ。

 それを何回も繰り返す。

 しばらくすると男の前に店主がやってきて、食されぬままの料理を笑顔でスっと下げていく。

 耳をそばだてて聞いていると、時折、出された料理の味の感想を言っているので、わけが分からなかった。

「不思議でしょう?」

 ふいに耳元で囁かれて、「わあっ」と新也は叫んだ。

 店主がニコニコとカウンターから身を乗り出していた。

 藤崎はどうした、と新也を見てくる。

 失礼、と、カウンターの男が話に割って入ってきた。

「僕は、『  』だからね。料理の精気だけを食べているんですよ」

 低く、響く声だった。『』が何かは分からなかったが、その声を聞くだけで新也は背筋が凍りつくようになる。

 『』の中は、藤崎にも聞き取れなかったようだ。

「え?」

 と、笑顔で聞き返す。すると、店主が代わりに笑顔で答えた。

「『  』なんです、このお客様。珍しいでしょう」

 やはり2人には『』が聞き取れなかった。

 というより、新也にはなんとなく聞き取れたのだが、改めて口にしてはいけないような、確認してはいけないような名前……に思えた。なので黙っていた。

 男がふわっと腕を伸ばした。

「信じられないでしょうから、ちょっとお見せしましょうか」

 2人の前へ今運ばれてきた天ぷらの海老をひょいと、摘む仕草をする。

 男の指の動きにつれて、ふう……っと色味のような何かが天ぷらから失われたのが新也には分かった。藤崎は見えなかったのか、興味深げに見守っている。

 男は海老の尻尾でも摘んでいるかのように、口元へ運んだ。

 薄い唇を開くと、作り物のように白い歯がずらりと並んだ中に、赤い舌が見える。サクッと音がしたような気さえした。

 男は実に美味そうに、見えない海老天を咀嚼し、飲み下した。

 それを芋や鱧などへも、次々繰り返す。

「……、ん。じゃあ食べてみてください、それ」

 男は、藤崎と新也に今自分が食べる演技をしたばかりの天ぷらを指差す。

 恐る恐ると新也は口に運ぶ。

 サクッとした舌触りは確かに揚げたての天ぷらのものだ。しかし……

「……!」

「何の味も、匂いも、しない……」

 驚いた、と藤崎が男を仰ぎ見た。

 男はいたずらっぽい笑みをして、立ち上がった。

 もう帰ろうというらしい。そして当然のように言った。

「僕は『  』ですからね。……ご店主、この天ぷらは僕につけてください。僕が食べちゃったから」

「はい、分かりました」

 店主も何も驚く様子もなく答える。

 新也は不思議な気持ちで一口かじった、芋天ぷらを見ていた。本当に味がしない。きっと栄養にも何にもならないのだろう。

 それは、本当にさりげない様子だった。

 あ、と男が言って、ハンカチを新也の側へ落とした。

「すみません……」

 不始末を照れたように言って、男が屈む。

 ハンカチが落ちていった先を見ていた新也と、顔を上げた男の目線が一瞬絡んだ。

 ニヤァと、男が笑った。

 その口元は耳まで裂け、向きがバラバラな牙が口腔から飛び出す。男が美形なだけに余計、異相は凄みを増していた。

 赤い、二股に裂けた舌先を動かしながら男が笑った。

「本来なら。さしずめ……君がメインで、彼がデザートといったところか」

 ぐっと身をそらして新也はその舌先を避けた。

 落ちたハンカチを拾うと、男はスッと普通の姿に戻った。

 藤崎は不思議がって、面白そうにまだ天ぷらを食べている。こちらには注意を払っていなかった。

「……もう近づかないでください」

 どうにか、震える声で新也は男へ告げた。

「……また今度」

 男は綺麗な笑顔で言った。

「ありがとうございました」

 店主が言った。

 男の去った店内で、店主が訳知り顔で新也に小さく言う。

「ね、『死人』だったでしょ」

 新也はふてくされて、奇術か何かと勘違いして喜んでいる藤崎を横に、強い酒を頼んだ。



【end】

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