新橋の魔王
与田 八百
新橋の魔王
「新人研修の一環で、名刺交換をお願いしたいのですが」
機関車のモニュメント前でたたずんでいる作業着姿のおじさんに、私は声をかけました。今日だけで何度このセリフを繰り返したことでしょう。五百回? 千回? わかりません。ですが、やるしかありませんでした。
「私、ファナティックエステート第二営業部の鴨志田 葱子と申します」
両手でしっかり名刺を持って、相手側へと名前を向けて、頭を下げます。
けれど、灰色のマスクをつけたおじさんは受け取りません。無言です。またか、と嫌な予感に血の気が引いて、こわばった時間が流れていきます。
私は焦っていました。今日中に百枚の名刺を交換するのがノルマでした。もうとっくに日が暮れています。一緒に広場へ繰り出した同期たちはみんな目標を達成し、私ひとりだけが三十枚近くもそれを残しているのです。
おじさんは立ち去るわけでもなく、沈黙を保っています。無視ならともかく、このパターンが一番困ります。通行人たちの視線を感じます。太ももの裏がしびれ、パンプスの足先に力が入ります。
なので数秒後、おじさんがカバンを漁る物音が聞こえた瞬間、嬉しくなった私は顔を上げました。
「ありがとうございます!」
しかし、おじさんがショルダーバッグから取り出したのは、名刺入れではなくA4サイズのバインダーでした。
「これ、どれでも一枚千円ね」
おじさんはバインダーを広げると、そのように言いました。ファイリングされているのは無数の名刺。横2×縦5のリフィルには正体不明の名刺が大量に収納されているのでした。おじさんは指を舐めてページをめくると、繰り返します。
「ほら、どれでも千円」
業者でした。
「いえ……」
結構です、と言いかけた瞬間、すごい勢いで鼻水が出てきて、あ、と気づきました。夕方の薬を飲むのを忘れていました。というか、今日は昼も夜も食べていません。朝からずっと立ちっぱなし喋りっぱなしだったのです。帰りたい、素直にそう思います。花粉症なのにマスク無しで外に居続けるこの苦痛、顔を晒し人格を否定され続けるこの羞恥から逃れられるのならば、千円は安いのではないでしょうか? それこそ時間をお金で買ったと思えば――
「金で時間買うとき」
おじさんもそう言って数秒後、私はほぼ全財産の二万七千円を支払っているのでした。そして、その成り行きを見られていたのでしょう。いつしか周囲に同様のおじさんたちが集まってきていて、私はいそいそと改札の中に逃げ込みました。
階段を駆け上がりホームに躍りこむと、もう20:44です。思わずため息がこぼれますが、あとたった五枚です。私は止まらない鼻水を手の甲で拭うと、「すみません、ちょっとお時間よろしいですか?」とホームに並ぶ人々に声をかけます。
「新人研修の一環で、名刺交換を……」
しかし、当然のようにスルーされます。電車が来ます。人の流れに押し流されます。
電車から吐き出され飲み込まれていくのは、マスクをつけたたくさんの人たちです。その誰もが私を無視します、押しのけます。
私はただ右往左往するばかりです。あとちょっとなのに、と焦れば焦るほど、息が上がります。声がかすれます。
電車が発車し、私はホームに取り残されます。生暖かい風が吹き抜け、花粉やPM2.5がむき出しの粘膜をびしびしと刺していきます。
痒い。目に蛍光灯がやたらと眩しく、私はよろよろと移動します。ホームドアに沿って、あてもなく、一歩ずつ。パンプスが蒸れてパンパンで、足先で靴ずれが痛みます。ハンドバッグがやたらと重く、にじむ視界が狭まってくるような感じに頭をあげると、ホームの先は左右をホームドアに挟まれた行き止まりでした。
どうしようもなく立ち止まるとスマホが震え、ママからメッセージが届きました。
『初日どうだった?』
ついに、涙がこぼれました。
私はもうダメと思って、『もうダメ』と返そうとしました。そこで、ブブブブブ。今度は着信が入ります。
先輩でした。
慌てて出ると、耳に当てる前から怒鳴られます。
「いつまでやってんだこの無能!」
「……すみません」
「すみませんじゃーねだろタコ。お前
「……いえ」
「いえじゃねーだろカス。はい、だろそこは。嘘すらまともにつけねーのか?」
「……はい」
「だからはいじゃねーよ、嘘つけっつってんだよ!」
「……はい」
「ッチ。ていうかお前、やる気あんの? 社会人の自覚あんの? 社会人なんて他人騙してナンボってわかってる? 不安煽ってニーズ作って、モノ売りつけて利益出して、それが社会、それが会社、わかる? 俺も、今お前の前にいるリーマンのおっさんも、みーんな誰か騙して生きてんの。年金とかどう考えても詐欺だろが? なぁ? おい聞いてんのか!?」
「……はい」
「だから声が嘘なんだよお前は! はいはい聞いてりゃ終わんだろとか思ってんだろ? 私カワイソウって声に出てんだよ! だーから舐められてクソ名刺ひとつ交換できねーの。お前みたいなゴミ、価値なんかねーんだから、さっさと体売るなり親騙すなり根性見せろやコラ! できねーなら死ね!!」
「……はい」
先輩の声はどんどん甲高くなっていき、画面越しに唾が飛んでくるかのようで、それ以上は頭がぼんやりして聞き取れませんでした。
なんだかよくわからないまま電話を切った私は、死んだほうがいいのかなぁ、と思います。しかし飛び降りようにも、左右はホームドアに挟まれています。それはまるでそびえ立つ山のように高く、私はへなへなとうずくまり、鼻水を垂れ流し続けることしかできません。
次の電車が来ます。
扉が開いて、人が激しく入れ替わります。その圧倒的な数の多さが急速に恐ろしくなってきます。
なぜなら、スーツ姿の人々はみんな白いマスクをつけているからです。それも粗悪なガーゼじゃない、不織布でできたプリーツ型のそれなのです。
マスクはもうずっと品薄です。どこに行っても買えません。なのにみんなマスクをつけている。これはどういうことか?
社会人なんて他人騙してナンボ、さきの先輩の言葉がよみがえります。
国は十分なマスクの供給を謳っています。それを信じ、いつか買えるだろうと考えている私がバカなのです、騙されているのです。この人たちは凡庸なようでいて、貴重なマスクを手に入れるため、権謀術数めぐらせてきたに違いありません。きっとマスクの下で、みじめに鼻をすする私を嘲笑っているのでしょう。
思えば就活の時点からそうでした。あれは壮大な椅子取りゲームでした。いかに他人を蹴落とし出し抜くか、ブラックの嘘を見抜き、ホワイトな枠に滑り込むか。企業と就活生の騙し合いです。週休二日福利厚生充実アットホームな職場なんて全部嘘で、こちらも第十志望を第一志望と偽るわけです。
そんなゲームに私は負けました。今の今まで負け続けてきました。ファナティックエステートは私にとって、第百二十志望くらいでした。
あぁ、社会とはなんて荒涼としたところなのでしょう。
耐えきれず再びスマホに目を落とすと、ぼやけた視界に『転生したら、魚の目削りスキルで無双だった件』というマンガの広告が飛び込んできました。『原作二百万部突破の傑作が待望のコミック化』とのことで、あー二百万、と思いました。たった百枚の名刺すら捌けない私は転生してもダメだろうなぁ、とも思いました。
なんだか、いよいよ追い詰められたような気分でした。
仮に転生したとしてもです。チートスキルなり与えられたとしても、根が無能なクズが成功するわけがないのです。全財産を失ってホームドアの隙間に挟まっている私など、転生してもどうせ野垂れ死ぬに決まっています。私が私である限り、どこに行こうが、夢も希望もないのです。死ぬことすら許されないのです。
しかし、ふとひらめきました。
二百万部というのは、二百万部もの本が刷られているということです。これは要するに二百万人(重複はあるでしょうが)もの人々が、異世界に転生し魚の目削り無双したいと考えていることに他なりません。ニーズがあるわけです。
これだ、と思いました。
私は涙と鼻水を拭って立ち上がりました。『余裕だったよ』とママに返信すると、ちょうど次の電車が到着し、中から人が溢れてくるところでした。
お腹に力を込めて息を吸い、大きく吐いて声を出します。
「あのー私、新米の女神なんですけど、名刺交換お願いしたいのですが?」
恥をしのんでそう言うと、一人のおじさんが立ち止まりました。背の高いおじさんで、こちらを向くと、顔の半分を黒いマスクが覆っていました。
「へぇ」
と、おじさんは言いました。ダブルのスーツがとても高そうでした。マスクの下で口がもごもご動き、おじさんは続けます。
「なるほどね。最近はそういう感じなんだ」
「そうなんです!」
私は答えました。
「世界の危機に備え、勇者候補の方とぜひ名刺交換しておきたく存じまして。あの私、女神ネギッコと申します」
そうなのです。『魚の目無双』に限らず、この手の話はプロローグで女神が現れ、不遇の死を遂げた主人公に「世界を救ってほしい」など言うのが定形なのです。そんな話が二百万部、つまりそれだけみんな世界を救いたがっているのです。私の名刺に需要はありませんが、都合の良い話には需要があるのです。
「ま、交換してあげてもいいけど」
案の定おじさんはそう答え、私は喜び名刺を出しました。鼻水をこらえ背筋を正し、名刺入れの上で名前を相手に向けることも忘れません。
「でもさ」
名刺を受け取って、おじさんは言いました。
「これ、株式会社ファナティックエステートって書いてあるんだけど?」
「あ、それは世を忍ぶ仮の姿です。我が社、いや我が国、いや我が世界ファナティックエステートは、魔王の侵攻を受けていて……」
「いや。ちょっと設定ブレブレじゃない? んー。ま、いいや面白いから」
おじさんはフフンと笑うと、金属製の高そうな名刺入れから一枚取り出し渡してくれました。同じく高そうな名刺には、
『東京やっていきクリニック 院長 藪 喪栗』とありました。
「え? えっ!? あ、ありがとうございます!」
私は嬉しさのあまり、飛び上がりそうになりました。まさか医者だとは知らず、これは幸先のよいスタートに違いないと思いました。
そして思ったとおり、それからはトントン拍子でした。
なんだか歯車が噛み合ったような感じで、私はあっという間にノルマを捌き終えました。自分でも怖くなるほどでした。会社に戻ると、先輩にきつく叱られましたが、医師の名刺を持ち帰ったのは私だけです。同期に先んじた、そう思えば、説教も苦にはなりませんでした。
翌日もこれまた順調でした。
「魔王ナカムラーガを倒すため、あなたの力が必要なんです」
私がそう言うと、マスクをつけたおじさんたちは皆、何事かと立ち止まります。さすがに色々聞かれますが、あらかじめ世界観を作り込んだので、余裕です。ちなみにナカムラーガという名は先輩からきています。ですが、これくらいは別にいいでしょう。どうせ年金はもらえない、国家ぐるみの詐欺なのですから。
そんなわけで昼前にはノルマを達成し終えた私は、ペコペコ頭を下げ続ける同期を尻目に、カフェに繰り出すことにしました。
「うふふ」
久々に飲むコンビニじゃないラテはとても美味しく感じました。私はパンケーキも注文すると、テーブルに交換した名刺を並べてみます。横10×縦10の広がりは圧巻で誇らしく、スマホで何枚も写真を撮りました。
名刺はそれぞれフォントもデザインも様々でしたが、ただ一つ共通する特徴がありました。それはどれも手触りが良い、ということです。さらさらで、つやつやで、私の千枚二千五百円(もちろん自腹です)のそれとはわけが違うのでした。
それもそのはずです。
美しく並べられたそれらは、法曹、医師、マスコミ関係者など、上級感のある方々のものばかりなのです。もちろん、NPO法人の理事や探偵といった、怪しげな業種の方も混じってはいます。しかし、いわゆる一般企業のサラリーマンや公務員のものは一枚たりとてありません。
よくよく考えてみると、まぁそういうものなのかなぁ、と思います。
教養があり、お金持ちな彼らは、心に余裕があるのです。せかせか生き急いでおらず、知的好奇心も高いため、見るからに怪しげな私の話でも、ちょっと聞いてみようと思うゆとりがあるわけです。
また余裕があるがゆえ、将来のことも気になるのでしょう。いくらお金を持っていても、健康を損ない死んでしまえばすべてを失うことを彼らはとても恐れています。
そこを攻めるのです。
仮に死んでも、私に連絡すればエリートたるアイデンティティは失わず転生できると保証する。チート、最強、ハーレム、奴隷などといった刹那的、即物的な条件も盛ってやる。
それだけで、あとはもうイチコロでした。名刺交換するだけで、死後の安寧を得られるのです。しかも
要するに、彼らは世間知らずのアホなのでした。なるほど、案外エリートほどカルトやホメオパシーにハマる理屈がよくわかります。そして、女神なんて設定を思いついた私はなんて有能なんでしょう。
「うふふ」
私はあふれる笑いをこらえることができませんでした。
もちろん罪悪感がなかったかといえば嘘になります。が、富める者から奪って何が悪いのだ、という思いが勝ちました。どうせ年金はもらえないのです。これぞノブレス・オブリージュってやつではないでしょうか?
私はテーブルの上の名刺を一枚一枚丁寧にしまいました。持って帰ると先輩だけでなく、部長にも褒められて、あと五日の研修も楽勝に思われました。
実際、楽勝でした。
調子に乗った私は、『女神 ネギッコ』という名刺(千枚五千円でした。女神なのでちょっと上質な紙にしました)まで自作して、研修を楽しみました。名刺に記載した連絡先は嘘八百でしたが、もはや気にもしませんでした。なぜなら死ぬ間際まで、転生希望者が私に連絡する必要はないのです。しかも騙されるのはやはり上級の方々ばかりで、それもまた小気味よく感じました。
けれど最終日の昼前、ノルマを達成し終えた直後に、ことは起こりました。
「おい、そこの女」
駅に向かおうとする私に声をかけてくる人がいました。
「貴様だ貴様。こちらを向けい!」
振り返ると、黒いスーツの男が立っていました。高圧的な口ぶりに反し若者でした。不潔だな、と私は思いました。というのも、ネクタイがよれよれで、ぶかぶかのジャケットの両肩がフケだらけだったからです。マスクはしておらず、とにかく貧乏そうな男でした。男の影までもが淡く、みすぼらしく感じました。
男は言いました。
「貴様、今すぐ我と名刺を交換しろ!」
「え?」
「名刺を交換しろと言っている! さっきまでしていただろう? できぬとは言わせんぞ!」
「はぁ……」
私はしぶしぶハンドバックに手を入れました。このパターンは初めてでした。名刺入れを取り出したところで、ひょっとするとこの男は警察かもしれない、そう思いました。ありえなくもない話でした。駅周辺は他社含め私のような新入社員で溢れています。適当な条例のもと、ひとり見せしめにしてやろうという思惑があっても不思議ではありません。
「ほら早く名刺を出せ!」
私は名刺入れを持ったまま思案しました。男の声は大きく、白いマスクの通行人たちがチラチラこちらをうかがってきます。灰色マスクの名刺業者たちも、遠巻きに私たちを眺めています。先輩の顔が脳裏に浮かび、私は悩みました。ここは敢えて社名を出さないほうがいいんじゃないか? 女神を名乗る変な人を演じ、軽く注意されたほうが面倒が少ないのではないか?
それが裏目に出ました。
「ほほぅ。やはり貴様が女神ネギッコであったか……」
私の名刺を受け取った男は意味深に言いました。気色の悪い隙っ歯の笑顔でした。それから、どう見ても安物な名刺入れから一枚取り出し、投げるように渡してきました。同じく安っぽい名刺には、
『魔王』とだけありました。
「はい?」
私は頓狂な声を出しました。
そしてすぐ、警察よりもやっかいな人間に出会ってしまった、と思いました。あーこの人同業者なんだ。
「すみみせんが私はこれで」
逃げよう、と私は男に背を向けました。SNSで晒されるなどして、私のやり口が巷に広まっていたのでしょう。アンチ的なフォロワーか、パイを奪われた競合者かはわかりませんが、ノルマはすでに達成しています。もう女神を偽る必要はないわけです。さっさと逃げたほうがいいに決まっています。
しかし思い切り腕を掴まれました。強く引いて抵抗すると、男の名刺入れが吹き飛びました。悲鳴とともに名刺が石畳のうえに飛び散ります。灰色マスクのおじさんたちが、それらを拾おうとハイエナのように群がってきます。
「呪われた女神め!」
自称魔王が叫びました。
「絶対に許さんぞ!」
直後、男の手がジャケットの内ポケットに差し込まれ、キラリ、となにかが光りました。その光はまっすぐな軌道を描き、私の前に突き出されました。
ナイフでした。
私は叫び声すらあげられず、驚き腰を抜かしました。それが功を奏したのか、間一髪、刃先は私の肩口すれすれを通過していきましたが、思いきり尻もちをついて仙骨から全身に電撃のような痛みが走りました。
その後のことはあまりよく覚えていません。
「殺してやる!」
その声を最後に、私は全速力で駆けました。改札をすり抜け階段を這い上がる私の背中に、男の絶叫が突き刺さるかのようでした。
気づいたときには、自宅の最寄り駅でした。
冬の海から引き上げられたかのような気分でした。喉がカラカラで、拭っても拭っても鼻が垂れ、脇腹がひどく痛みました。手づかみのハンドバッグには指の痕がくっきり残り、パンプスの片方が無残に折れていました。
なりふり構わず、私はそのまま一人暮らしのアパートを目指しました。繰り返し後ろを振り返り、魔王がいないことを確認、再確認しても、まったく恐怖は拭えず、知らぬ間に日は沈み、小走りの足元は不安定で、よろめきつまずき、幾度となく転びそうになりました。
はぁ、はぁ、と息が上がります。
普段通る路地を避け、なるべく明るく人通りの多い道を進みます。両肩がやたらと重く、胃が張って吐き気が波のように押し寄せてきます。すれ違う誰もが私に目をやって、きっとメイクがぐちゃぐちゃになっているのでしょう。ぐるぐるとよくわからないまま徘徊し、最後は全速力で駆け抜けなんとかアパートにたどり着きました。
鍵をしめチェーンを下ろすと同時に、栓が抜けたように崩れ落ちました。電気がつけっぱなしでしたが、部屋に誰もいないということにほっとして、ここへきてやっと警察に電話しなくてはと、私はバッグからスマホを取り出しました。
110番の11まで入力したところで気づきます。
警察にどう説明しましょう? 女神を自称し名刺交換していたら魔王に襲われました、とでも言うのでしょうか? そんなこと言える訳がありません。言えないからこそ、私は男に女神の名刺を渡したのです。
どうしよう。鼻水が止まりませんでした。スマホには無数の通知が表示されています。先輩から幾度も連絡がありましたが、同じ理屈で事実を伝える気にはなれず、私はただ玄関先で震えることしかできません。
ひたすら時間だけが流れていきました。
眠れないまま夜が明けて、そのまま三日経ち、五日が経ちました。魔王が待ち伏せしているかも、と思うと外には出れず、ベッドでひたすらスマホや天井を見て過ごしました。ときどき思い出したようにママが非常用にと送ってくれていたカップ麺をすすりました。まったく味がしませんでした。
けれども七日経ち、十日が経つと、さすがに少し冷静になってきました。
頭が冷えると、なにが女神だバカなんじゃなかろうか、とやるせなくなりました。先の一件についても、正直に女神だ魔王だなんて言わず、狂人に襲われたと言えばよかったのです。当たり前のことでしたが、今さらになって気づきました。
それに、入社初日から無茶な研修をさせる会社に腹が立ちました。交換した名刺という成果も吸い上げるだけ吸い上げて、私にはなんの還元もなく、あれだけ頻回だった連絡もいまやあっさり途絶えています。研修最終日までに辞めていった同期の顔が浮かびます。会社にとって私たちは使い捨ての駒、生き残ればラッキーという感覚なのでしょう。なにより、私は本当に殺されかけた。
あぁ、やはり私は騙されていたのです。搾取されていたのです。
そう思うと、今度はふつふつと怒りの感情が芽生えてきました。
思い立った私はスマホをいじり、異世界に転生希望な弁護士の名刺を探しました。先輩に名刺を渡す前に写真を撮っていたことを思い出したのです。
電話をかけると、弁護士は親切に対応してくれました。「ネギッコ様でしょう?」まさか覚えてもらっているとは思わず、私は驚きました。魔王のことも、彼は熱心に聞いてくれました。
あれ? と私は思いました。もしかして彼は、私を本当に女神だと思ってる?
そんなことはない、と一瞬首をひねりますが、話を合わせている感じでもないのです。丁寧で、ジェントルで。事実、相談料はなんと
嬉しくなった私は、先輩のパワハラを告発し慰謝料をせしめる計画を弁護士に伝えました(魔王の件は時間が経ちすぎ、被害届が受理されないだろうとのことでした)。すらすらと口が動きました。胸がすくような思いで、引け目など感じませんでした。
弁護士はさすがに退職代行や裁判の費用までは
今後の諸手続きに際し、会社から精神的苦痛を受けたという証明が必要でした。そのため、弁護士から病院を受診し診断書をもらうよう言われたのです。
精神的苦痛。これについては嘘偽りなく本当です。先輩の罵声はいまだ耳にこびりついていますし、気を抜くと、瞼の裏でナイフのきらめきがよみがえります。鳥肌がたってめまいがします。
ただしそれは、クリニックに予約を入れるまでのことでした。
やっていきクリニックは人気で初診は数ヶ月待ちとのことでしたが、女神を名乗ると、当日中に予約を融通してもらえました。料金も“破格”にサービスしてくれるとのことでした。うふふ、と私は思いました。
やはりエリートたちは私を女神だと信じている、そう確信した私にとって、もはや先輩や魔王など取るに足らぬことなのでした。むしろ私の演技力は、見知らぬ男を魔王と思わせるほどに素晴らしかったと誇らしくなって、幻聴も瞼の裏のきらめきも、するすると溶けていきました。
私は久方ぶりにお風呂に入って、身なりを整え家を出ました。
女神としてやり直すんだ。
そう強く思いました。これから私は会社を辞めますが、ただで辞めるのではありません。私は上級の方々の名刺を、しかも異世界に転生したいと考えているバカの連絡先をたくさん持っているのです。これを利用しない手はありません。
これまでは騙され続けの人生でしたが、これからは騙す側に回るのです。もはやホームドアの隙間で座り込んでいた私ではないのです。会社に言われるがまま、マンションを売りつける必要なんてないのです。逆に金を奪ってやるのです。
最寄り駅までの道すがら、私は転生希望の週刊誌記者に会社の違法行為をリークしたいと依頼しました。記者は「ネギッコ様の頼みなら」と快諾してくれましたが、それなりの取材費が必要らしく、こちらにも相応額負担して欲しいとのことでした。ただ安くしてくれるようですし、最悪ママにまた泣きつけばいい、と私はクールに応じました。受診が終わり次第落ち合う運びとなりましたが、なんで待ち合わせが歌舞伎町なんだろう、と少し不思議に思いました。ですがこんなご時世だからこそ、そのほうが都合いいのかもと、すぐに考え直しました。
クリニックはあの駅が最寄りで改札を通るとき若干怖くなりましたが、広場を抜けてもなにも起こらず、ほっとしました。白いマスクでぞろぞろ歩くサラリーマンたちを横目に、私は胸を張りました。やっと私も他人を騙し蹴落とす一人前の社会人になったのです。灰色マスクのおじさんたちが高架下で意味もなく群れているのが哀れに見えました。あんな奴らから名刺を買った過去を恥ずかしく思いました。
クリニックは大混雑でした。中に入るとアロマが香り、大理石の壁面、モンステラ。清潔で小洒落た院内には老若男女がひしめいていて、人気病院に滑り込めてよかったと気分はいっそう明るくなります。クリニックではカウンセリングのみならず、脱毛、脂肪吸引、PCR検査など、多彩な診療ができるようで、症状を偽り有利な診断書をもらうついでに、花粉症だって治してもらえるに違いありません。
ソファに座ると、これまた快適な座り心地です。だけど向かいの男性が咳をして嫌な気持ちになります。よく見ると、院内には私も含めマスクをしている人が誰もいません。マスクはいまだ品薄なままでした。
意識した途端、また鼻水が出てきました。私は鼻をすする音が響かないようハンカチを当てがいながら、さっさと慰謝料せしめてマスクを買おう、布の平型のやつじゃなくて、不織布のサージカルを箱で買おう、などと考えていました。
五分ほどそうしていたでしょうか、なかなか次の人が呼ばれないなと思ったちょうどそのとき、
「今こそ
奥の診察室からくぐもった声が聞こえてきます。
「
患者たちの視線がいっせいにドアへと向かいます。これほどの内装です。ドアの厚みもそれなりのはずで、よほどの大声に違いありません。
こわばる空気のなか、男は続けます。
「我と一緒に魔界に転生し、勇者を打ち滅ぼそうぞ!」
ほどなくして、マスクをつけた警備員が院内に駆け込んできました。ガツガツと靴を鳴らし、アメフトのごとき重装備で奥へと走っていくその姿は頼もしく、ダウンライトに照らされた警棒がまるで剣のように輝いて見えました。
もうずっと鼻水が止まりませんでした。
<了>
新橋の魔王 与田 八百 @yota800
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