ディア・オラクル

 俺は悲鳴が聞こえた方向へひた走った。息ができない。鼓動が嫌な音を打つ。それは全速力で走ったことによるものではない。この先に待ち受けているものを予感しているからだ。


 もはやどちらから来たのかも分からない。雪原で方向を見失うなど自殺行為だ。それでも俺は、ただアルトのことだけを思って、


 足を止める。一縷の希望はそれを見た瞬間霧散していった。


 全てが終わっていた。


 雪原に広がるどす黒い血溜まり。刺すような風の中にあっても、なお臓物の臭気が満ちている。それすらも降る雪に覆い隠されていく。


 無惨としかいいようがなかった。


 銀の髪は血に塗れ、腹はぱっくり割れて臓器がはみ出している。左腕が少し離れたところに落ちていた。よくある、ありふれた悲劇だ。雪原という名の魔境に足を踏み入れれば、生半可な実力では五体満足で帰ってくることすら難しい。それに俺は知っている。この傷は苦しいのだ。中々死ねないからだ。


 俺の諦めにも似た危惧の通り、アルトが薄く瞼を開ける。その唇がかすかに動くが、喘鳴しか漏れない。しかしそれを見ずとも、彼女が何を言おうとしたのか俺には分かってしまった。何度も何度も見てきたからだ。


『殺して』


 それを認識した瞬間、俺の頭に溢れ返ったのは圧倒的な拒絶だった。


 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!


 彼女の苦しみを早く終わらせる。それが正しい。分かっている。それでも、アルトをもう一度殺すなんてできない​────いや、できないのではない。俺にはその能力がある。できないのではなく、やりたくないだけだ。エゴの塊。なんて醜く浅ましいんだろう。


 たとえ力が落ちていても、俺には今までの経験がある。脛骨を折って即死させることなど容易い。さあ早くしろ。早く!彼女の苦痛を終わらせるんだ!


 そう思っても、役立たずの身体は痙攣を起こしたように震えるだけで全く動かない。早く、早く、と何かが急き立てるのに、俺は立ちつくすことしかできなかった。


 ついに彼女は動かなくなった。


 俺はぼんやりとアルトの顔を眺めた。苦悶の表情だった。


 ぐら、と視界が揺れる。あれ、と思う間もなく膝から力が抜け、俺は血溜まりに倒れ込んだ。血が染み込んでいくが、何も考えられない。ただ、意識が.......遠く​​────


 ◇◇◇


 目が覚めた。


 質の高さを感じさせるものの、極限まで物が置かれていない部屋。窓の外、弱くなった雪の合間から見える街並みと城壁​────


 何十回も繰り返した。繰り返すことで現実から目を逸らしていた。しかし現実には帰らなければならない。アルフェ、シルヴィア、ウェルデン、この三人では近接戦闘能力が低すぎる。


 薄々気づいていた。この「試練」の始まりに戻るのは、俺が命を落とした時。アルトが死んでしまった時。俺がアルトを殺せなかった時。


 現実に戻る方法はただひとつ。俺がもう一度、アルトをこの手で殺すことだ。


 現実と対峙した今、俺は起き上がることもできずに、ただ天井の模様をぼんやりと眺めていた。


 何度ももう限界だと思った。しかしその度に更なる底がある事を見せつけられた。ずっとそうだ。あの時、自身の魔法が分かった儀式の時からずっと。優しく育ててくれた周りのケット・シーや、厳しかったが、期待に応えた時は褒めてくれた父の、おぞましいバケモノを見るような目。ずっとあの目に囚われ続けている。


「エルラーン!もう、いつまで寝てるつもりなのー!」


 聞きたくない。焦がれていたアルトの声ですらあまりに恐ろしい。あんなに嫌いだった自分の部屋が最後の砦だった。ここから出たら最後、また始まるのだ。何もしなければアルトは確実に死んでしまう。だから俺は破滅に向かって走り続けるしかない。


 返答がないとアルトは扉を開ける。それももう見慣れた光景だ。


「もう……エルラーンったら起きてるじゃない……どうしたの?」


 この優しい少女をこの手でもう一度殺さなければ、現実に戻ることはできない。戻らなければいけない。アルフェ、シルヴィア、ウェルデンの三人では近接戦闘能力が低すぎる。三人を助けなければ。だから、どうしても現実に戻らなければいけないのだ。でも。


「今日は雪原に行くって​──────」


「.......だ.......」


「え?」


「嫌だ.......行きたくない.......」


 本当の気持ちが零れ落ちた瞬間、濁流のように濁った叫びが溢れ出した。


「嫌だ.......もう無理だ!どうして!どうしてなんだ?どうして俺ばかりこんな目に遭うんだ!?俺が何をしたっていうんだよ!好きでこんな目に生まれてきたんじゃない!好きでこんな魔法を持って生まれてきたんじゃない!好きで長耳もどきに生まれてきたんじゃないッ!!なんでもするからもう解放してくれよ.......もう戦いたくない.......!戦ったってどうせ全部無駄なんだッ!琥珀目のなりそこないが得られるものなんて何もないんだ!最後には全部奪われるんだ.......!!」


 笑えるくらいに身体が震えて、初めて自分が泣いているのに気づいた。


 どんなに苦しくても炎を振るうしかなかった。戦いたくないと思っているのに、それでも戦場で血を浴び続けた。だって、


 戦わなければ存在意義を得られない。


 戦えること以外に自分の価値がない。そうしないと必要として貰えない。戦うことで自分の価値を証明しなければ、生きることすら許されない。殺したくないなんて偽善だ。全て自分のためだ。これ以上罪を負いたくないための逃避。なんて浅ましいんだろう。


「え、エルラーン.......?」


 はっと顔を上げると、アルトが困惑に満ちた顔でこちらを見ていた。当たり前だ。急に目の前で泣き叫ばれればそうなるだろう。じわじわと後悔がやってくる。こんな事をアルトに言って何になる?一番辛かったのは彼女のはずだ。まだ未来があったのに、俺のせいで。


 今更遅いのに、俺は慌てて表情を取り繕った。作り笑いだけが唯一の特技だった。


「.......ごめん、俺、その、今のはなかったことに.......」


「エルラーン」


 優しく名前を呼ばれて、それが怖くて俺はびくりと震えた。しかしアルトは構わず腕を伸ばし、俺を抱き締める。


「戦いたくないなら、戦わなくてもいいんだよ」


「アルト.......?」


「私が代わりに戦うから」


「そんな、それじゃあアルトが.......」


 俺はその先を続けられずに口ごもった。アルトは分かってる、と頷く。


「そうだね。私には多分魔法の才能はない。きっとすぐに死んでしまうと思う。それでもエルラーンが代わりになる必要なんてないんだよ。私は戦うって決めてるから」


「どうして.......?」



 アルトはこちらを見た。


 どく、と心臓がうるさく脈打って、俺はアルトの瞳から目が離せなくなった。初めて彼女にゾッとしたものを覚えた。彼女の銀の瞳は静かな決意に燃えていた。それはもはや狂気と呼べるかもしれなかった。


「私たちは、他のケット・シーよりもずっと優れた力を持って生まれてきた。もちろん、そんなのは小さなものかもしれない。でも、そもそも比べることすらできないケット・シーだって沢山いる。私は一人でも多くそういうケット・シーたちを救いたい。例え途中で力尽きたとしても、誰かを救えたならそれでいいの。それが高貴なる血の責務ノブレス・オブリージュ


「アルト.......」


「『戦わないといけない』あなたはそう言った。『いけない』ことなんてない。エルラーンが自分で選べばいいの。でも、あなたには私よりも、多くのケット・シーよりも大きな力がある。それが事実」


「でも.......でも、その力は.......」


「大事なのは力の内容じゃないよ。炎の魔法でも力は力。それで何をするかじゃない?エルラーン。あなたはその力を使うことも使わないことも自由なの。ねえ、考えたこともなかったかもしれないけど。あなたはどうしたい?あなたが『そうしたい』ことは何だったの?」


 俺は何がしたいんだ?


 アルトの優しい声は詰問のように響いた。ずっと「しなければならない」ばかり考えてきた。いや、そうさせられてきたのかもしれない。ずっと強固たる意思がなかった。結局、父親の操り人形同然だった。


『貴方たちは、自分自身に打ち勝つことができるか?』


 シェラの言葉を思い出した。何かを望むのは苦しみと同義だ。失い、手から零れ落ちることの方が多いだろう。しかし、それでも前を向き、闘い続けることができるのなら。


「俺は、」




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デウス・エクス・マキナを殺せ ほりえる @holly52965

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