賭師の黒星

八億児

賭師の黒星

 今場所の仁雷は調子が良さそうだ。

 贔屓ひいきの力士を見に相撲小屋を訪れた俺は、浮かれた気分で桟敷さじきに陣取っていた。

 仁雷が出るまでにまだがあったが、元々相撲見物は好きなたちだ。熱心に見入っていたせいで、隣に男が腰を下ろした事にもしばらく気付かずにいた。

「よし、寄り切った!」

 興奮で思わず声を出す。こうしたものはうっかりこぼれた独り言のようなもので、当然他人の返事などは想定していない。

「あァ、分かる分かる」

 それだから横から突然かけられた相槌あいづちに、俺は少なからず驚いた。隣を見ると、小奇麗こぎれいな洋装の男がニヤニヤとこちらを見ている。

「確かに今のはアンタの好きそうな取組だったなあ、曽根谷そねや

 隣の男は細長い身体を折りたたむようにして、狭い席に収まっていた。

 細身の身体にあつらえたようなぞろいだけを見れば、こんなすし詰めの席ではなく銀座の名店にでもいる方が余程似合いそうだ。……実際のこの男は、そう品の良い人間ではないのだが。

「……来てたのか、皆川みながわ

「そりゃあいるさ。おれの商売の場所だもの」

 軽薄そうな物言いも、笑みを浮かべた表情も、以前と特に変わりない。

 そこにいたのは友人――少なくとも数ヶ月前までは――の、皆川だった。

「会うのはあの千秋楽せんしゅうらくの夜以来かねえ」

「まさか今日お前とここで会うとは思わなかったぞ、この野郎」

 俺が難しい顔をすると、皆川は苦笑を浮かべた。

「もうあれっきりのつもりだったって? 冷たいねえ」

 そう言うと、俺の耳元に唇を寄せる。

「──一度抱いたら、もうしまいかい?」

 鼓膜をくすぐるような、かすれて低い声。

 俺はつい妙な気になりかけ、それを打ち消すために思わず大きな声が出た。

「終いも何も、あれは賭けの……!」

、大声出すなよう」

 皆川のしなやかな指が、チョンと素早く俺の口にあてられた。ニヤついた皆川の口元に、ようやくからかわれたのだと気付く。確かにこの男は、いつでもこんな調子だった。

 去年の夏に、俺はこの相撲小屋でこの皆川嘉一と名乗る賭師に出会った。

 賭師とは小屋に入って客と小金を賭ける人間のことで、俺も皆川と何度か金を賭けた。

 勝負が大抵たいてい五分五分トントンだったというのも、遺恨いこんが少なくて良かったのかも知れない。最初は賭師と客という関係だったのだが、俺達は段々と親しくなって行った。まあ結局は馬が合ったということなのだろう。

 そうして今年の春の千秋楽を迎えた日、俺達は金ではないものを賭けた。

 負けた方は、一晩だけ勝った方の言いなりになる。それが賭けの内容だった。

 負けたところでどうせ按摩あんまをしろとか、悪くても酒や飯や女を用意するとか、大方そんな所だろうと俺はたかくくっていた。金を賭けていた時でさえ、買った方がおごるようなこともあったからだ。

 だが賭けに負けた俺が要求されたのは、思いもよらぬものだった。

「――安心しなよ、さっきのは冗談だから。あの日の事はあれきりで終いだよ」

 俺が黙っているのを機嫌を損ねたせいだとでも思ったのか、皆川はそう付け加えた。

「アンタは負けを払っただけで元々その気がないってことぐらい、ちゃんと分かってるからさ」

 言いながら、皆川は上着の内ポケットから取り出した取組表を広げて眺めている。それに隠されたうつむき加減の顔は、だからどんな表情をしているのか少しも分からない。

 そんな姿を、俺は隣でじっと見ていた。


 あの千秋楽の夜、賭けの支払いとして俺は皆川を抱いた。

 世の中には男を抱く男もあるということは、知識として知っていた。だが少なくとも自分がそうするものだとは、その時まで思ってもみなかった。――正直に言えば、今でもよく分からない。

 それでもあの時、触れ合って欲を感じたのも、名を呼ぶ声に煽られたのも、この軽薄な男を可愛いとさえ思ってしまったのも確かだった。

 だが朝になり俺が目を覚ました時にはもう、隣に皆川の姿はなかった。


「俺はな、てっきりお前さんに弄ばれたんだと思ってたよ」

 俺がいささか情けない台詞を吐くと、皆川が吹き出した。

「おいおい、そんないかつい見てくれで小娘みたいなこと言うない」

うるせえ。そっちこそ、美人局つつもたせみてえな真似しやがって」

「自分で自分の美人局たあ世話ないな。だがそりゃあ悪かった。長居しちゃあアンタも気まずかろうと思ったんだけどねえ」

 そう話す口調はやはり軽々しい。

 だがしばらく会話が途切れてから、再び皆川が口を開いた。

「……本当のことを言うと、アンタはもうここに来ないんじゃないかと思ってたんだよ」

 土俵どひょうから視線を離さずに呟く。

「賭けにかこつけてあんなことをしたわけだし。……まあ、実際にやったことはお互い様だけどさ」

 態度は殊勝しゅしょうだが、言うことは相変わらず下世話げせわだ。

「来て悪いかよ。俺は相撲見物が好きなんだ」

 憮然ぶぜんとして答えると、皆川が笑った。

「いいや、勿論もちろん悪かない。でも来ないと思ってたアンタを見つけたもんだから、つい嬉しくってさ」

 そこまで言うと、皆川は取組表を畳んで立ち上がろうとした。

「じゃあ曽根谷、邪魔したね」

「おい、どこ行くんだ」

「言っただろう、ここは商売の場所だって。客を探しに行くんだよ」

「ちょっと待て!」

 咄嗟とっさに腕を掴んで引き寄せる。体勢を崩した皆川は、あっけなく俺の上に倒れこんだ。

「ば、莫迦、危ないじゃ――」

「おい、兄ちゃんら何やってんだ! 見えねえよ!」

 皆川が文句を言い終わる前に、後ろにいた男にどやされた。

「いや、邪魔をして申し訳ない!」

 俺は周りの客に頭を下げる。いつの間にか隣に座り直していた皆川は、不機嫌そうに俺を見ていた。

「悪いな皆川。そんなわけだから、暫くここに座っていてくれ」

 片手拝みで頼んだが、皆川の機嫌は直らない。

「営業妨害だ」

「俺が客になる」

「賭師ならほかにもいるじゃないか」

「莫迦」

 俺は皆川の膝を平手で軽く叩いた。

「俺だってお前に会えると思ってなかったんだ。喜んじゃ悪いかよ」

 だが皆川は何故か顔を歪ませ、嬉しそうな困っているような、複雑な顔をした。

「……アンタ、何でそんなに普通なのさ」

「お前ほどじゃねえよ」

「何だよそれは。こう見えておれは声をかけるのも緊張してたってのに」

「どこがだ」

 本気なのか冗談なのか、まるでそうとは分からない。

「そりゃあ情人面じょうにんづらしろとは言わないけど、もっと嫌がるとか気まずそうにするとかあるだろうよ。なのにアンタ、そういうの全然ないじゃないか」

「ないと駄目なのか?」

「駄目だよ。これじゃこっちは拍子抜けで、踏ん切りも諦めも付きゃしない」

 やれやれとでも言うように、皆川は大袈裟おおげさに俺の肩を叩いた。

「そりゃ悪かったな。――お、始まった」

 土俵に目をやると取組が始まるところだった。

 だが始まった途端、直ぐに片方が押し出されて終わった。

「あっ畜生ちくしょう、もっと粘れ!」

「確かに随分ずいぶん早かったなあ」

 俺も皆川も思い思いの感想を口にする。あれだけ文句を言っていたくせに、自分だって随分と普通の態度だと思うのだが。

 そうこうしているうちに、次の力士の名前が呼ばれる。

「よし丁度いい。おい皆川、賭けるぞ」

「何だ本当に賭ける気なのか」

「営業妨害と言ったのはお前だろう」

 皆川は土俵のほうを見て、ああ次は仁雷なのかと頷いた。

「どうせアンタは相手が誰でも仁雷の方に賭けるんだろ。いいのかいそんな賭け方で」

「何言ってやがる。もし仁雷が勝った時に賭けてなかったら、それこそ悔やみきれねえ。それで、何を賭けるんだ。金でいいのか?」

 賭けの確認をする俺に、皆川がからかうような笑みを浮かべた。

「何だ、アンタまさかあの時と同じような賭けをする気じゃないだろうね?」

「『一晩言いなり』か? 莫迦、ああいうのはもう無しだ」

 無愛想に言う俺に、皆川は笑いながら軽く手を振った。

「冗談だよ、怒るな曽根谷」

「別に怒ったわけじゃねえよ」

 俺は頭を掻いた。

「どっちにしても俺がいい目を見るんじゃ、賭けにならないだろうが」

 そう言うと皆川はひどく驚いたようだった。目を丸くしてこちらを見る。

「おい、何だよその顔は」

 妙な反応に俺が苦い顔をすると、皆川が俯いて頭を掻いた。

「……アンタも意外と言うねえ」

 その珍しく照れた様子は、俺を自惚うぬぼれさせるには充分だった。とりあえずこの後どうしたら皆川に逃げられずに済むかを考えた俺は、なんだか酷く愉快な気分になった。

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