秘剣

 

 ねえさま、という声が。凛と一刃に響く。

 ずっと昔から、鋼のような彼女をらすのただ一つのものは、妹弟子の声と決まっていた。

「ねえさま。手合わせを願いたいのですが」

「構わないよ。また私に敗けに来たんだね」

「負けから得られるものもあります故」

「そんなものはないよ。常在戦場、解っているだろう。きみは私に都合五千と三百七十二斬られている」

「ねえさまは古い」

「ああ、私は旧いよ。道場の男衆から古蜘蛛だのと陰で言われる始末だ。みな――おまえも含めて、私に一度も勝てたことのない、ごみくずのような魂なのにね。愉快だろう?」

「ちっとも愉快ではありませぬ。ねえさまは、理解しておられぬのです。もはや戦乱の世は終わり、ひとびとが血で血を洗わぬ世が来たのだと」

 道場の縁側に立ったまま、双葉が一刃をっとみている。彼女が掛けている舶来品の眼鏡は、一刃が買い与えたものだった。

「そうかも知れないね。それでも続けさせてもらうとするなら、『それがなにか』?」

 双葉は息を吐き、振り分けた髪を月に揺らした。

「公案をしにきたのではなし。さ、『蓋山』にお乗り下さい。私たちが語り合えるのは剣のみでありましょう」

「知ったような口を利くね。そこまで言うのなら、叩きのめしてあげよう」

 その夜、一刃は双葉を蹂躙した。不必要に太刀筋の未熟を突き、技量を見せつけ、完膚なきまでに叩きのめした。それでも――双葉の瞳から輝きが失われることはなく、むしろ「手合わせ感謝致します」とばかりに、彼女は打ち込んでくる。

 一刃は機の内で、知らずのうちに笑みを湛えていた。

 双葉に剣の才はない。死合う高揚など望むべくもない。それでも、一刃にとっては今ここに双葉がいて、こうして剣を交わしてくれるということだけが、刃を振るう理由だった。鉄と血が、彼女たちを繋いでいる。

 稽古が終わったあとは湯浴みをして、二人で一緒に寝た。今は遠い、惜しむべくもない古びた記憶だ。


          +


 逆手。刀身を肘に添え、腰を落とす。低くした重心と、支えある刀の安定は、並みの剣戟では斬り払うこともかなわない。蓋場流、≪蓬莱≫。

「っシュッ」

 肘を上に巻き込み、下段に振るわれた双葉の刀を叩き上げる。片刃の段平が空を凪ぎ双葉の態勢が崩れた。ここから次なる技――例えば肩組みからの投げ、≪荒蜘蛛≫あらくねへと一刃は移行できた。だが、一刃は一歩「蓋山」を退かせる。遅れて、双葉の機体「羽二重」も再び刀を下段に構えた。

 両者は動かない。だが、「羽二重」からは――右腕が脱落している。

 元より、この場にいる誰もが一刃を斬ることはできない。双葉は小型の種子島を持ち込んでいた。それだけではない。仕込み槍、酸、目眩まし、そして正当な剣。ありとあらゆる技術を織り交ぜ、一刃を殺害しようとした。

 小細工だ。

 辺りには双葉の持ち込んだ「仕込み」の数々が、まるで虫の死骸のように転がっている。もはや趨勢は決している。妹弟子を殺すことに相違はないが、最後に聞きたいことがあった。

「ねえ、双葉」

 瞳に巣食う影紗寄が見せる白い作務羅衣、羽二重の姿は、一刃にさまざまな揺らぎを伝えている。足運び。呼吸。間合い。中に座す、双葉の力み。剣に繋がることなら、すべてが掌の中にあるのに――双葉の気持ちだけが判らない。

「おまえは、私に勝てないよ。どうして私をそこまで殺したいんだい? 男を寝取った覚えもない。嫌気が差したのならもっと早くに私に斬りかかっているはずだ。教えてくれ、双葉。師と門下の者を斬ったのは何故だろう。あげく三界流なんて木っ端に入れ込んで。誑かされでもしたのかい」

「ねえさまは、」

 そのとき、双葉は初めて口を開いた。

「お怒りでいらっしゃるのですか」

 須臾の間、一刃の思考に間隙が生まれる。それは一秒にも満たない、隙とも呼べぬ空白だ。だが――双葉にとっては、その一瞬こそが。最も狙い澄ました、勝算の一手だ。双葉は、江湖に生きる武士が作務羅衣遣いで一刃を斃すことは絶対にないと理解していた。まして、自身が一刃を斬り伏せる像など結べようはずもない。

 双葉は羽二重の動力を爆発させた。

 白い閃光が走る。羽二重が、蓋山に肉薄している。

 限界を超えた脚部の稼働の代償に、羽二重の構造は瓦解を始めている。

 そして既に、それの頭部は吹き飛んでいた。

 蓋山の構えは、裏撃ちの技法である≪雷切≫の残身に入っている。

 崩れ落ちる双葉の機甲。だが、その胸から――雷のように、ぐばりと飛びこんできたものがいる。

「お覚悟を」

 双葉は、大筒を抱え込んでいた。開陳した胸部装甲から直接身を乗り出し、蓋山の胸部に接触させているのだ。

「試合は...おまえの負けだよ、双葉。この距離で撃てば弾片で巻き添えをくらう」

「いいえねえさまの敗けでございます。常在戦場とおっしゃられたのは、ねえさまでしょう。わたしは貴女を殺すことが出来れば、其れで善いのです」

 双葉はにこりともしなかった。一刃には何の咎もないというのに。敵陣を勘違いしながら突撃していく雑兵のような愚かしさにしか感じられなかった。

「おまえはそんなにうつけだったかい」

「ねえさまがわたしをうつけにさせたのです」

「何故」

「貴女は、強すぎるのだ」

 一刃は失望した。幕府の立会人が、今更異状を見せた一刃たちを取り囲もうとにじり寄ってくる。寄るなと一刃は制し、そして再び双葉に向き直った。

「そんなことか」

「そんな、ことです。あなたの強さが、そんな小さなことを育てていった。ねえさまは知らないでしょう! わたしがどれほど貴女の寝首を掻こうと思ったか! 貴女のようなものは、生まれる時代を間違えているのです――さながら修羅だ。今日死合うたどのような人間も、ねえさまに並々ならぬ執着を見せていた! 貴女を見ていると...私たちの知らぬはずの戦国の世が、蘇ってくるのだ」

「困ったな。今はさ。太平の世なんだろう? そんなことは忘れて、おまえの小さな道場を守っていけば良かったじゃないか。必要なら私だって手伝ったよ。そういうのまるきりって呼ぶんだよ、双葉」

「...師範と門下は。」

「うん?」

「ねえさまを斬るつもりでした。あなたが留守から帰ってきたらすぐさま、ねえさまを斬る算段をつけていたのです。ねえさまが今日の試合に出れば、みながねえさまの技を目の当たりにする。そして、戦に取りつかれるものが増える」

「言ってくれれば、」

「貴女には解らぬ!」

 双葉の瞳からは、幾筋もの涙が零れ落ちていた。

「汚いな。火薬が湿気るよ」

「わたしは、今! ここで、貴女を!」

 一刃は、少しだけ目を閉じる。双葉と過ごした日々を考えてみる。

 彼女にとって――双葉は、どのような存在なのだろう。

「...分かったよ。せめて、お前の顔を見て逝きたい」

「ねえさま」

「なんだい、双葉」

「ねえさまは、最高の姉でした。ねえさまのせいではないのです。これはすべて、弱いわたしたちのせいなのです」

「ありがとう。さ、無駄話は良いだろう。開けるよ」

「ええ。ねえさまは最後まで、ねえさまらしいのですね」

「よせよ」

 一刃は胸部装甲を開いた。ぐぐぐ、とはっちが開く。空が見える。そして双葉の顔も。彼女は居合に備え一定の距離を取っていた。最後まで用心深い妹だ。だから一刃は、手に持っていた鞘付きの刀を――鬼神の如く突き出した。

 凄まじい速度で打ち出された鉄の鞘は、双葉の喉を強かに打ち、骨を割り砕いた。

 気官裂傷も起こしているようだ。ごぶ、という血の混じった呼気が聞こえる。

「さっき思いついた技だけど、なかなか使い勝手が良いね。おまえの鍛錬は付け焼刃に倒れる程度のものだったという意味でだけど」

「なっ...がっ、う、ぶ、ヴっ」

「何不思議そうな顔してるのさ。そんな勝手な理屈で殺されてたまるかい。浮世物語の読みすぎだよ、双葉――あ、そうだ」

 一刃は抜き身の刃で、息も絶え絶えの双葉の右手の筋に切りつけた。鮮血が舞った。鉄臭いにおいのする双葉に、一刃は顔を近づけた。

「さっきの技の名前、≪二羽≫ふたばにしようと思うんだ。二つ目の羽。どうだい? 喉を潰したから答えられないだろうけどさ――悪いね。私だって死にたくはない」

 一刃はもがく双葉を作務羅衣の上から蹴り落とした。

「おーい、連れて行ってくれ。私が腹を立てていないとでも思ったかよ、双葉。お前は牢座敷の中で死ね」

「ゔあーっ、あーっ、ひゅ...」

「私だってさ」

 双葉が、顔を上げた。一刃は彼女の血濡れた眼鏡を取ってやった。彼女が初めてこちらを見たような気がした。

「...お別れだよ、双葉。来世はこんな屑を姉に持たないと良い」

 そうして、立ち上がって、何も憂うことなく。

 蓋場一刃は、また歩き始めた。彼女の足跡は、血に染まっていた。


〈終〉




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剣法二羽流 カムリ @KOUKING

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