いつか、水平線に辿り着く日

埜上襤褸

いつか、水平線に辿り着く日




 ツゥリャはホテルのベッドで水滴がタイルを叩く音を聞いていた。時刻はすでに二二時を回っていた。ツゥリャは枕に顔をうずめて、最適化された倦怠感に身体を預けていた。


 水音が途切れて、シャワー室から五十代前半の男性が出てきた。腰にタオルを纏っただけで肥満体を隠そうともしない。ツゥリャの今夜の相手はベッドの端に腰かけると、疲れたように溜息を吐いた。


「君はシャワーを浴びなくていいの」


 ツゥリャは頷いた。部屋を出る前には浴びるつもりだが、口を開くのは面倒だった。そうか、と男性は頷いたが、それは反射的な動作のようだった。


「いやぁ、Frau4-3型は久しぶりだが、よかったよ」


 ツゥリャはまた無言で頷いた。彼女はFrau4-3型という、身体的に未成熟な外観と、張りのある肌の感触が特徴的なMIHだった。そして客は目の前にいるような中年男性がほとんどだった。


「君はどうしてこんなことをしているの」


 ツゥリャはベッドから起き上がると、椅子にかけられた制服の胸ポケットを探った。やがて男性の方を向いたとき、彼女の左手にはシックな指輪がはめられていた。


「好きな人がくれた」


「ふぅん、よく似合っているよ」


 質問を無視されたと受け取ったのか、男性はあからさまに不機嫌な口調を用いた。


 ツゥリャは携帯端末を取り出すと二、三度揺らしてみせた。男性も承知したようで、手早く着替えると、やはり携帯端末を操作する。ツゥリャの端末に入金確認が表示された。


「それじゃあ、私はもう行くよ。君は泊まっていくの」


「そうだね」


 ツゥリャは窓の外を見つめていた。そこには人とAI、有機体とMIHによる効率化が図られながらも雑然とした公私の営みが可視化されている。彼女はその街の明かりの中に、目まぐるしく膨大な情報が消化される電脳空間にはけして存在しない、数値化できない個性があるように感じていた。


 ツゥリャは大切なものを探していた。それを言語化することは彼女自身にもできないが、個性の奔流のどこかにそれがあるのではと期待することはあった。もっとも、客たちの停滞した思考の中に彼女の探しているものはなかった。


 いつのまにか男性は部屋から消えていた。


 端末を確認すると数分前にメッセージが一件届いていた。差出人はトァネ。内容は明日の待ち合わせ場所について。文末には就寝時の挨拶がある。ツゥリャは端末を放り投げて、再び枕へと顔をうずめた。そして、おやすみと口の中で呟いた。




・――――――――――――――――――――――――――――――――――――・




 ツゥリャが待ち合わせ場所であるリニアモノレール駅前に着くと、そこにはすでにトァネの姿があった。周囲を見回しながら、じれったそうに靴先で地面を突いている。


 ツゥリャを視界にとらえるとトァネは途端に嬉しい気持ちになった。


「待った」


「いや、私が早過ぎたんだ」


 二人は歩き出した。ツゥリャは、トァネの横に並ぶと頭一つ分見下ろされる格好となって、そこに安心感を覚えることを本人に伝えようか迷ったが、そうはしなかった。


「今日はどこに行くの」


「どうしよう」


「遠いところでもいいよ。昨日は臨時収入があったから」


「そうなんだ」


 トァネに仕事のことは話していないが、もしかしたら気付いているのかもしれない。あるいは人工出産の実用化にともなって必然性が剥奪され、そういった行為自体が衰退している今、その仕事はトァネの想像の域外にあるのかもしれない。


「私、行きたいところがあって」


「もしかして、海」


「さすがだね」


「待ち合わせ場所がここなんだから予想は付くよ」


ツゥリャは電子表示を一瞥して歩みを速めた。


「海、好きだね」


「他の場所にしようか」


「いや、あなたが行きたいなら、それでいい」


 閑散としたプラットフォームに出ると、まもなく自動制御の車両が滑り込んできた。前方に向かって左側のブースに向かい合って座る。無機質なプラットフォームから市街地へ、景色がトァネの背後に流れていく。


「――ふ、ぁ」


「眠いの」


「ん、徹夜でレポート片付けてて」


「それなら今日はゆっくりしよう」


「うん、あのさ、それなら着くまでシェアしよう」


「うん、いいよ」


 トァネはリュックからISSMを取り出すと、ヘッドマウント型の感受機の片方をツゥリャに渡した。二人は感受機を目深にかぶると背もたれに身体を預けた。やがてセンサーが脳波を追跡し始めたことを知らせる電子音が二度続けて鳴って、トァネの意識は段々と沈んでいった。


 真っ先に気付いたのは、ひどく曖昧で言葉にならない、むずがゆいような仄温かい熱だった。それは遠慮がちに、しかし多くを物語ってくれるツゥリャの感情の一欠けらである。


 自分の中に自分でないものが混じる感覚は違和感を伴うものだが、トァネにはその温もりも確かに自分の一部だと感じられた。一度感じ始めると次から次へと新たな感情が流れ込んでいる。ツゥリャの主思考ユニットに再現された疑似脳波はISSMを介して、トァネにとって優しい想いとなる。


 気付けばトァネはこれまで経験のない奥底に沈んでいた。表層意識がそのことに不安を感じるも、すぐに原始的な情動にのまれる。多幸感にも似た感情の噴出はすっかり落ち着いて、あたりはしんと静まり返っている。


「ツゥリャ、どこ」


 いつのまにかトァネは空の真っ只中に放り出されていた。落下している。どうすればいいのか、戸惑う中でぼんやりとツゥリャのことだけが思い浮かんだ。必死に伸ばした指先がツゥリャのそれに当たって、次の瞬間すさまじい衝撃がトァネをばらばらにした。


 感覚が消える寸前、かすかに潮の匂いがした。





/――――――――――――――――――――――――――――――――――――/





 意識を取り戻すとそこは古びた駅のプラットフォームだった。トァネは年季を感じさせるベンチに座っていた。あたりは閑散として人気はない。


「ずいぶん高い所から落ちた気がするんだけど」


 トァネはいつもの癖で独り言を漏らす。


「途中の駅で降りたんだっけ。でもこんな駅は知らない」


 駅はどこもかしこも研磨された青銅のような金属で建てられており、建材には鏡のように周囲の景色が映り込んでいる。


「そういえばツゥリャはどこ」


 素早くあたりを見回すと、ツゥリャは背中合わせにベンチに座っていた。呼びかけても返事はない。トァネが顔を覗き込むと、彼女は穏やかな表情で眠りこけていた。


 二、三度と肩を揺らしても反応は返ってこない。それでもトァネが不安と共に肩を揺すり続けると、やがて彼女はぼんやりと目を開けた。


「ここはどこ」


「わからないよ、ツゥリャは記憶してないの」


「うん、身体機能は正常なのにメモリーが途切れている」


「どういうことだろう」


 駅名標には一切の情報が示されておらず、立ち上がった二人の姿を映している。やがて二人はゆっくり歩き出した。


 駅の中央部には二人が資料でしか見たことのない有人改札が設置されていたが、改札鋏を手にした駅員は見当たらない。


「誰もいないのかな」


「廃線の駅かもしれない」


 駅を出ると二人は溜息を吐いた。目の前には一面の荒野が広がっている。


「どこへ向かうのかね」


 いきなり横合いから年老いた男性の声がした。二人が振り向くと、そこにはいつのまに近付いたのか優しげな容姿の成人男性の姿があった。あちこち擦り切れた古びた外套を纏い、右手に杖を突いている。足下には仔犬型のペットロボットが待機している。その外骨格はすっかり錆びており、一部は破損していた。


「ふむ、私の質問には答えてくれないのかな」


 その低くしわがれた声はまるで目の前の男性には似合わなかった。事実、どういうわけか男性の口元はわずかも動きを見せなかった。ペットロボットの会話機能だとツゥリャは予想した。


「どうすればいいのか、わからないんです」


 男性は頷いた。


「皆はあちらに向かったようだがね」


 男性が指さす方向には、草に隠れるように一本の道があった。


「ここはどこですか」


「ここは見たままの場所だよ。君には一体どう見えるのかね」


「あの、真面目な質問なんです」


「いやいや、儂はふざけてはおらんよ。第一、たとえ儂がこの場所の名を教えたとして、あんたは満足できんだろう」


「あの道を辿ると、どこに出るんですか」


「儂にはわからん。が、皆が向かうんだ、きっと幸せな場所なんだろう」


「それなら、あなたも一緒に来ませんか」


「いや、遠慮しておこう。儂はここで十分なんだ」


 トァネは自分がちっぽけな気がして悲しい気持ちになった。


「あの、それじゃあ私たちは行きます」


「そうかね、好きにすればいい。が、後ろのお嬢さんや、少しいいかね」


「私ですか」


「そう、あんただ」


 男性は一歩前に出ると、外套から左手を覗かせた。そこには一輪の透きとおるように白いバラがあった。彼はツゥリャに微笑みかけて、手のバラを彼女の髪に挿した。


「ありがとう」


「今日はとても幸せな日だ。あんたらと出会えたんだからね」


「それが幸せなんですか」


「そうとも、儂はとても幸福な男なんだ」


「それは本当の幸せなの」


 ツゥリャは攻撃的な口調で問いかけた。返事はない。彼らは静かな足取りで駅の中へと消えていった。トァネには、もう二度と彼らには会えないという予感があった。ツゥリャも不安げな表情を浮かべている。トァネは途端に駅に戻って自分の姿をあちこちに映したくなった。


「ツゥリャ、手を繋ぎたい」


「うん、不安なんだね」


「そうなんだ、君は平気なの」


「私もそうだよ」


 二人はそっと手を繋ぐと、男性の指さした方へ歩き出した。




・――――――――――――――――――――――――――――――――――――・




 トァネは大草原の中を泳いでいた。もう二、三時間は歩いた感覚があるのに、疲労はわずかも感じない。むしろ駅のベンチで目覚める前より身体の調子はいいくらいだ。ツゥリャの手の温かさが不安を紛らせてくれる。


 やがて二人はぽっかり開けた広場に出た。そこには真っ白な一枚布を纏った人が大勢いて、裸足のまま輪になって踊っていた。二人が輪に近付いても、誰一人そちらに注意を向けない。彼らは一様に覗き穴がないのっぺらぼうの白い仮面を被っていた。


 いつまでも踊りが終わらないので、トァネは思い切って輪の中の一人に話しかけた。


「あなたたちは何をしてるんですか」


「私は四次元の影、ありえなかった可能性、ああ、ああ、私は幸せだ」


「あの、どういうことですか」


「私は四次元の影、ありえなかった可能性、ああ、ああ、私は幸せだ」

ツゥリャは別の相手に訊ねた。


「すいません、ここはどこですか」


「私は四次元の影、ありえなかった可能性、ああ、ああ、私は幸せだ」


 トァネは次第にもどかしくなり、一人の肩をつかんで無理やり輪の中から連れ出した。


「どうしたらここから出られますか」


「私は四次元の影、ありえなかっ/* カ、か、感覚的境界の先にある合理的幸福、わたしは、それに、いつか辿り着けるのだろうか */た可能性、ああ、ああ、私は幸福だ」


「えっ、あの、それってどういう」


 彼が輪に戻ろうと身体を動かしたことで、トァネの手が反動で仮面に当たった。仮面が外れて地面に落ちる。その下に隠されていた顔立ちは不思議なものだった。健康的な青年のようにも、病的な老女のようにも感じられる、ひどく曖昧で無個性な顔。ツゥリャは溜息を吐いた。


 そのあと誰に話しかけても返ってくる言葉は一緒だった。トァネには彼らがどういう存在なのか、ぼんやりと予想が付いていた。


 二人は彼らから距離を置いた。ツゥリャは泣きそうな表情でいった。


「私、本当に幸せになれるなら、自分なんていらない」


「でも個人の幸せがありえないなんて、そんなの悲しいよ」


「なんで、トァネは私に、私はトァネになれるのに」


「私は何にもなれないかもしれない」


「そうか、個の喪失が不安なんだね」


「うん、私たちには早いんじゃないかな」


「わからないよ、そうかもしれない」


 トァネはツゥリャを後ろから抱きしめた。


「ほら、いつまでもここにはいられないよ」


 広場の反対側へ回ってみると、そこから綺麗に整備された石畳の道が伸びていた。はるか遠くには無数の高層建造物群が立ち並んでいる。二人はもう一度はっきり手を繋いで、互いに頷いた。


 潮の匂いが仄かに鼻をくすぐった。




・――――――――――――――――――――――――――――――――――――・




 やがて二人は幅員が二十mはあるような舗装された直線道路に出た。道路は黒曜石でできているように透明感があって段差や傾斜はわずかも見られなかった。表面には幾本もの線が幾何学的な模様を描くように走っていた。縁石には色とりどりの鉱物がステンドグラスのように組み合わされて、夕焼けの赤い空を反射している。その向こうには道路と同じ素材で造られている高層建造物が無数にそびえて、二人を挟んでいる。建造物群の中にはガラス張りの綺麗に仕上がられたものも、構造部材が剥き出しのまま工事が中止されているものもあった。


 しかしトァネの関心は周囲を動き回る人影にあった。彼らは立体的な影とでもいうべき、人の外形をしながらも内部が黒に塗りつぶされた存在だった。影はそこらじゅう、道路のあちこちにも、壁がない建造物の内部にもありふれていて、各々が日常生活と呼べる活動を行っていた。彼らは闊達に意見を交わし合い、あわただしく作業に追われている様子なのに、周囲は静まり返っている。


「どうしてこんなに静かなんだろう」


「本当に誰かいるのかわからない」


 しばらく歩くと路上に手入れされたグランドピアノが置かれていた。ツゥリャがじぃっと視線を送ると途端にピアノの演奏が始まった。幻想即興曲。それはツゥリャの好きな曲目だった。いつのまにか痩せた影が椅子に腰かけて、鍵盤を軽やかに叩いている。


 ツゥリャが足を止めたので一旦休憩にするつもりで、近くの店を眺めていたトァネは声を上げた。彼女が覗き込むショーウィンドウの中には一組のペアリングがあった。その指輪は二人が左手にはめているものと同じで内側にはそれぞれの名前が彫刻されている。


「この店、私が指輪を選んだところにそっくりなんだ」


 背後にツゥリャの気配を感じて、トァネはいった。ツゥリャは肩をつかんでトァネを振り向かせると、その左手にある指輪を確かめた。


「どっちが本物なんだろう」


「ツゥリャ、そんなこといって、つらいよ」


「ごめん、嫌なこといった、だけどトァネは本当に信じている」


「心配ないよ、わかってるから」


 目の前に影が落ちたので空を見上げると、いつのまにか視界を埋め尽くすほどの電光表示アドバルーンが浮かんでいた。それらは係留具なしに同じ位置を保っている。ディスプレイには複雑な結晶構造が、途方もない数の光点で表示されている。


「わ、綺麗だね」


「うん、でも私はどうしてか幸せな気持ちになれない」


 トァネは幾つもの球体に紛れて、周囲のものより一回りも二回りも大きなアドバルーンがあるのに気付いた。


「ほら、ツゥリャ、あれが君の可能性だ」


「私は、そう、運命という表現の方がいい」


「それなら君のいうようにする」


 恰幅のいい影の露天商が広げた品物に、やはり大勢の影が群がっている。道路の反対側では背の高い影の一個小隊が行進している。戦闘靴が地面を叩く音は、そちらから目を逸らすと途端に聞こえなくなる。トァネはしゃがみ込んで地面を指先でなぞった。


「この道路は黒曜石なんかじゃないよ、ツゥリャ、これはとても大きい集積回路だ」

ツゥリャの返事はない。彼女は道路の先を見つめていた。


「あのバラをくれた人にもう一度会いたい」


「そう、私も同じ気持ちだよ」


 少し歩くと前方から光がぼんやり射してきた。二人は繋いだ手に引かれるように互いに身体を近付けた。


 潮の匂いがはっきりと強くなった。




・――――――――――――――――――――――――――――――――――――・




 すっかり陽が落ちて空には星が瞬いている。


 やがて道路が途切れて、二人はその先にある砂浜に踏み入った。潮の匂いがそこらに漂っている。しかし砂浜の向こうに広がるのは海ではない。そこには膨大な青色の水が海のように満ちていた。そのため砂浜に波が打ち寄せることはない。砂浜には幾つもの足跡が残されていて、それらは一様に水の中へと消えている。二人は足跡を追って視線を上げた。水平線上からは一条の光の柱が伸びている。


「あれはなんだろう」


「きっと到達点、すべての人が一つに繋がるところだよ」


「そうなの」


「私たち、あの場所に辿り着くためにここにいる」


「でも、私にはあれが幸せだとはどうしても思えない」


 ツゥリャは困惑したような表情で目を伏せた。するとトァネもそれ以上は踏み込めない気がして、二人は黙り込んだ。


「そこに誰かいるの」


 ふと背後から子供の声がした。二人が後ろを向くと、六、七歳くらいの少年が立っていた。ひどく落ち着いた様子で、大きな帽子を被っている。トァネはその姿にどこか違和感を覚えた。


「君たちは誰なの」


「私はトァネ、こっちはツゥリャ、それで君の名前は」


「僕には名前がないんだ、あっても名前を呼ぶ人もないんだ」


「そう」


「君たちはどこへ行くの」


「わからない、元の場所に帰りたいんだけど」


「君たちも海の中に行くの」


「それは、どういうこと」


「みんな海の中へ消えるんだ、戻る人はいない、海へ入って一体どこに向かうんだろう」


 ようやくトァネは少年に抱く違和感の正体がわかった。帽子のつばの影の位置、彼の眼窩にはあるはずの眼球がなかった。


「きっと光の柱に向かうんだよ」


「それはどこにあるの」


「水溜りの、いや、海の向こうにあるよ」


「それはどんな形なの」


「とても大きな柱だけど、光が両側から溢れてるから十字架みたいだ」


「それに色はあるの、どんな色なの」


「ん、色はわからないよ」


「それはなんだろう、大切なものなの」


「あれは、きっと本当の幸せだと思う」


「そうか、そうか、だから海へ消えるのか」


「そうかもしれない」


「海に入った人は幸せになれたの」


「わからない、でも本当に幸せになれたならいい」


「そうか、君たちに聞いてもわからないのか」


「ごめん、私、何もわからない」


「そんなことない、おかげで僕は海の先に何があるのかわかった。みんなが海へ入るわけもわかった。ようやく僕の疑問はなくなった、今はとても晴々とした気持ちだ」

少年は屈託なく笑って、両手を前に突き出した。


「できたら僕と手を繋いでもらえないか」


二人はそれぞれ少年と手を繋いだ。


「君たちも柱に向かうのか」


「私たち、そのまま海に入ったら溺れてしまう。舟を持っている人はいるかな」


「ここには僕一人しかいない、でも大丈夫だよ」


「どういうこと」


「君たちは僕にいいことをしてくれた、僕も君たちにいいことをしたい」

少年は二人の手をほどいて、水際の方へ歩み出す。彼は両手を高く上げていった。


「君たちは海の向こうの柱が幸せだという、それは本当のことかもしれない。でも僕は君たちのおかげで幸せな気持ちになった。だから僕は本当の幸せがそんなにいいものだとは思わない」


 そうして少年は水の中に一歩を踏み出した。途端に彼の身体はまるで石膏像のように固まって、まもなく足から崩壊していく。


 やがて少年は衣服ごと跡形もなくなり、石膏のような材質の道が光の柱へと一直線に伸びていた。トァネは気持ちを落ち着かせるように光の柱を確認したが、やはりそれが本当の幸せだとは思えなかった。


「ツゥリャ、私たち、いつまでもここにいられない」


「うん、一緒に行こう」


 二人は互いの手が重なるのを合図に、旅の終わりへと歩き出した。




・――――――――――――――――――――――――――――――――――――・




 二人はいつまでも歩けそうな気分だった。しかし、石膏の道は水上で途切れていた。光の柱との距離は一向に開いたままで、とても泳げる気はしない。


「どうすればいいんだろう」


「このままじゃいけない、砂浜に舟があるかもしれない」


「ツゥリャ、もう後戻りはできないよ」


「そんなことない」


「そんなことあるよ、バラをくれた人にはもう二度と会えない、男の子とも」


トァネの言葉に誘起するように背後で石膏の道がひび割れて水中に落ちていく。


「ツゥリャは本当はわかってる、私よりも」


「私は何もわからない、わからないよ、でも本当に幸せになりたかった、トァネと」


「なれるよ、道はここで終わりじゃない、この先も続いてる」


「でも、落ちたら溺れて死んでしまうかもしれない」


「大丈夫だよ、何も怖いことなんてない、私がいて、ツゥリャがいる」


「だけど、怖いんだ、私は本当はどこに行きたいんだろう」


「ツゥリャが自分のこと信じられなくても、私は信じてるから」


「私たち、どこにも辿り着けないかもしれない」


「それでも誰と一緒に行きたいかならわかってる」


「いつかトァネといられなくなるのがつらい」


「その不安も一緒に感じよう」


 やがてツゥリャは弛緩したように表情を緩めた。


「ううん、そうだね、トァネと一緒にいる」


「君と一緒でなくてはいけない、君といることが幸せなんだ」


「そんなの私も」


 二人は抱き合って、互いの吐息が聞こえる距離まで顔を近付ける。トァネが囁いた。


「私たち幸せになろう、ツゥリャ、どんなことがあっても、本当に幸せに」


 ツゥリャは大切なものを見つけた気がした。それはあいかわらず言葉にならないが、トァネを抱きしめる手の中にあるようにも感じられる。内心、先程の泣きそうな気持ちが嘘のように晴れやかだった。


 二人は向かい合ったまま両手の指を絡めた。やがて、ゆっくり互いの姿勢が傾いて、二つの人影が水の中へと没した。沈みながらも、彼女たちは互いを認識し合っていた。ぼんやりと意識が消えていく中、トァネにはツゥリャが心から微笑んでいるように感じられた。


 わずかに浮上する感覚があった。





/――――――――――――――――――――――――――――――――――――/





 ISSMの発する規則的な電子音でトァネは目を覚ました。途端に疲労が全身にのしかかる。ISSMは連続使用の規定にもとづいて機能を停止している。トァネは緩慢な動きで感受機をはずした。


 向かいの席ではツゥリャが座席にもたれて慣性に揺られている。トァネは車窓に投影されている電光表示に目を向ける。もう、次の停車駅で降りなければいけない。


 トァネに肩を揺すられてツゥリャは意識を取り戻した。すぐさま思考ユニットの片隅で自己診断が消費される。


 しかしツゥリャの意識は靄がかかったように曖昧だった。普段であれば認識を避ける自己走査プログラムに一切を委ねても、数秒前までの自分の状態が把握できない。副思考ユニットが非人間的な選択肢を羅列するものの、ツゥリャは目の前の微笑みにどうでもいい気持ちになった。


 やがて景色が流れる速度がゆっくりになる。


 トァネはISSMをリュックに放り込むと、座席を離れた。車両内には自分たちの姿しかない。それらももうすぐ失われる。


 リニアモノレールがあちこちに経年劣化の見られる駅構内に滑り込む。


 プラットフォームに降り立つと、穏やかな日射しと潮風の匂いに迎えられた。


 背後でドアの閉まる音がする。ふり返るとツゥリャがすぐそこに立っていて、その向こうで停滞を閉じ込めたリニアモノレールが徐々に加速していく。炭素繊維強化プラスチックで組み上げられた車両が過ぎ去ってしまうと、目の前にどこまでも海が広がった。トァネが階段を目指して歩き出しても、足音はしばらく追いかけてこなかった。


 旧式の自動改札機を残した人気のない駅舎を通り抜ける。


 目の前には砂にまみれたアスファルトの道路が横たわり、十数m先には砂浜へと下りる階段がある。


「どこから来たのかね」


 突然、横合いから年老いた男性の声がかけられた。


 肩を震わせ、声のした方向に視線を送ると、そこには老齢の男性が立っていた。穏やかな表情には幾線もの過去が刻まれている。その足元には旧式の仔犬型ペットロボットがまとわりついている。あるいはトァネより老齢なのかもしれないペットロボットは、動作の度にセンサー類の駆動音を伴っている。機体の耐久性が低下していながら積極的な行動を見せているということは、搭載AIも強いわけではないのだろう。


 けれどもそこに補完すべき要素は見出せなかった。


「私たち、遠くから来たんです」


「学生さんかい、ここらは遊ぶ場所もないだろうに」


「デートで、海が見たかったから」


「ああ、そうかい」


 男性はどこか懐かしそうな表情を浮かべて、頷いた。


「その気持ちは儂にもよくわかる。こいつもな、身体中に砂が入り込むんだが」


 三人の視線が向けられた先で、ペットロボットは不思議そうに首を傾げた。


 誰からともなく穏やかな微笑がこぼれる。男性はツゥリャの方に視線を向けた。


「おや、お嬢さん、そりゃ随分と綺麗なもんじゃないか」


 ほぅ、とため息をつく男性にツゥリャは戸惑った。ふり返る彼女に、トァネは助け舟を出すように髪を指さした。ツゥリャの髪には、まるで透き通るような青いバラが一輪挿してある。


「ありがとう」


「こちらこそ、いや、今日は気持ちのいい日だ。あんたらはどうかね」


 二人の返事を聞くことなく、男性は背を向けると道路沿いに去っていく。歩きながら満足そうに手をひらひらさせるので、トァネも答えるように右手を頭上で何往復かさせた。ツゥリャは指先でバラの輪郭をなぞっている。


「私が寝ているあいだに挿したの」


「いや、ある幸せな人が分けてくれたんだよ」


 ツゥリャはしばらく沈黙した後で、トァネに向かって手を伸ばした。


 二人は手を繋いだまま階段を下りた。砂に足を取られながら、波打ち際を歩く。

 ツゥリャは水平線を眺めている。そこは海と空の境界線だが、その二つに明確な違いはきっと存在しない。人とAI、有機体とMIHが必要性を超えて互いの可能性を求めるように。どちらの青色が濃いということもない。どこからが空であると定義することに意味はない。


 ただ、境界線の青だけが量子ビットの並列処理でなお否定しきれない可能性なのだろう。だとすれば本当に大切なものは、人とAIがどこか交錯する境界線にこそ存在するのかもしれない。


 足跡を残す。すぐさま波にのまれ、まっさらに均されてしまう。


 トァネはツゥリャの肩を引き寄せて、キスをした。


 目を瞑る寸前、ツゥリャの瞳には青が映っていた。

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