第26話 最終話・小さな英雄
〈江戸・宇部家下屋敷庭園〉
真喜は、空から降るように聞こえている会話に心を奪われていた。声が反響していて聞き取りにくいが、亡父の過去を明かしているのは、わかった。
今ではぎんも、熱心に耳を傾けているし、あきさえその動きを止めていた。
「へええ、そうだったんだ」ぎんが言った。「あ、姫さま、この声とおしゃべりはきっと本物。間違いなくたま御前よ」
「……」真喜はただ息を吸い、吐いた。
ならば、亡父についての話はいつわりではないだろう。一度は愛した相手を、無残にも自ら手にかけ、火を放ったというのは。
自分でも意外なほど衝撃は受けず、やはりあの男の娘だからだろうか、と考えたりした。それでも足元がふわふわした。
父は恋人を殺して以降、狂ったのだろうか。それともはじめから狂っていたので、そんなことをしたあとも、平然と過ごすことができたのだろうか。
(しかし、少なくとも)と、彼女は思いをめぐらせた。
あの父にも人を愛し憎むことはできたのだ。
彼女の顔色に気づいたのか、ぎんは声をはりあげた。
「でも、お姫さまにかかわりないじゃない。若さまもそう。お二人とも、生まれる前の、見たこともにおいを嗅いだこともない相手が死んじまった罪をおっかぶせられて、こんな嫌な目に合わされるなんて、ぜったい間違ってる」
「うるさい、罪だの間違いだの、どうでもいい」
あきから、どすの効いた声で返事があった。
「その女を殺し、花岡を殺し、みんな殺して、あのひとの滋養にするんだ」
「へええ。お姉さま、力むのは勝手ですけど、どうやって」
いまでは目の届く範囲に動く人間はいなかった。元気のある者は逃げ、あとはみな地に伏したままだ。多くは気絶しているものと思われた。
あきの連れていた橋本も蜘蛛女も、倒れたまま動かない。こちらには生の気配はなかった。彼女のほかの手下も、呼びかけに応えない。みな消えてしまった。
「そろそろ、あんたも手詰まりなのを認めなよ」ぎんが言うと、
「口のへらないドブネズミめ」あきは立てた指を、唇の前に置いた。
彼女はなにか呪文をつぶやいた。「こうなったらみんな一緒に始末してやる」
そして両の手を、今度は降る雨をうけるような形にかざすと、薄くただよっていたさっきの黒い瘴気が、ゆらゆらと彼女の頭上へと立ちのぼり、命を持っているかのようにうごめく。闇の中に黒々と凝集していく。
「まずは、おまえだ」
「あら、嫌よ」ぎんの周囲にまた狐火が燃え上がった。両者は睨み合った。
「まって」真喜が口をはさんだ。「あなたは父を知っていますか。少しだけ、お話を聞かせて」
「なんだと」憎々しげな顔であきが答えた。
「父が、天も許さぬ非道な行いをしたのは分かりました。娘であるわたくしで恨みを晴らしたい気持ちも。もし、この命によって夫が助かるのなら、そうなさっても構いません」
「姫さま、だめ」ぎんが慌てた。「冗談でもこんなやつに言い訳を与えちゃいけないわ、嵩にかかるだけだから。譲って言い分を受け入れたら、早速そこから呪いをかけてくる輩よ。あなたの気持ちはとても通じない」
しかし、せっかくのぎんの言葉も耳に入らないように、真喜は言った。
「これだけは聞かせてください。父は、まことにそのひとと、三木乃丞という方と好きあい、短くともわれを忘れるほど楽しい日を過ごしたのですか」
「おまえ」あきが憎々しげに言った。「なにを言ってるのか、わかっているか」
「ええ。そのつもりです」真喜の声が暗い庭園に響いた。
「わたくしの知る父は、だれにも情愛を寄せることはありませんでした。娘はもとより母にも、美しい側室たちにも。忠実な家臣や兄たちに対してもそうでした。せいぜい気に入りの書画や道具と同じ扱いをするのみ、意に沿わなければ取り替えるのに躊躇しない。だからわたくしは、父を生まれつき情の薄いひとと思うておりました。けれども」
「けれども」あきの声が、一段と低くなった。
まるで別人のように。
「もし父に思い思われる相手がいたのならば、わたくしの知るのとは違う父がいたことになる。あの父が、殺したいほどの気持ちをひとに抱けたとは。いえ、むろん犯した罪が許されるとは少しも思いませぬ。しかし、三木乃丞とはどういう方で、二人はどんなことを語り合ったのか、それだけでも知りたい」
あきの目が細まった。
「ひとの心を持たぬと見えた父にも、あるひとを慕い、そのひとのことばかり考え、会って嬉しく、会えぬ時はふみを待つ。そんな時期があったのだろうかと考えたのです。そして父の心を動かした三木乃丞とは、さぞや素晴らしい方だったに違いありません。なのに父は、どんな気持ちでその宝を裏切ったのか」
「それを知って、どうなさる」そう聞いたあきの声は、それまでのとげのある耳障りな調子から、低めでよく徹る、賢げなそれに変わっていた。
醸し出す雰囲気も変わった。世間をあざわらうかのようだった不敵な顔つきが消え、どこかしっとりとした優しさが浮かんだ。
目つきにも思慮深そうな光が加わり、それがまっすぐに真喜をとらえていた。
「知って、知ったら……」真喜は目を閉じた。「わからない。どうしたいのかわたしにもわからない。けど、父にもひとが好きになることができたのか、その方がこの世のすべてと思えた時があったのかを知りたい。この場所でわたしが死なねばならぬなら、ぜひその前に」
懸命に堪えているつもりなのに、真喜の目は濡れていた。
「そうですか」別人のようにたおやかな口調であきは言った。
「なら、こちらから奥方に問います」
「はい」
「貴方にはいらっしゃるのですか、それほどに大切なひとが」あきだった女は、ずっと歳下の相手に聞くように言った。
「いえ、間違えました。いるからこそ、父ごもそうだったかを知りたいのね。それほど相手を慕う気持ちでも、時とともにうつろうものなのかを。泉のように溢れる思慕の念が、いつか枯れ果ててしまうのかを」
「ええ。ええ」涙声で真喜は繰り返しうなずいた。
油断なく周囲を見廻しながらも、ぎんは黙って会話をきいていた。
「わかりました。お教えしましょう」あきは、目の前に立つ真喜よりも、ずっと遠くを見ていた。
「三木乃丞は、決してあなたの思うほど立派な者ではありませんでした。しかし、相手に対する気持ちに嘘や偽りはなかった。そして父上もまた同じ」
あきはふっと微笑んだ。「好きに理由はありませぬ。二人は心底から好きおうておりました。その気持ちの高まりは、この世のどの男女にもひけをとらぬほどでした。しかし」
もう術を恐る気持ちもなく、真喜はあきだった女の眼をひたと見た。
「それはあっけなく終わった。悲しいかな、季が変わるように人の心とは移ろいゆくもの。想い合う二人の気持ちが憎しみへと変わるのには、わずかな時を要しただけ。そしてそれから三十余年、憎しみはなおも続いている」
「それを、止めるなり、変える手立てはありますか」
「憎しみをですか。それはとても難しい」
「……」
「憎しみを抱くのはたやすく、憎み続けるのもまたたやすい。そして、いつしか憎しみこそが生きる糧ともなる。愚かな二人は知らなかったのですよ。好きに理由はなくても、好きを続けるには、相手の身になり、思いやる努力が大事という当たり前のことを。好きと思いやりは違うもの。思いやりを欠いた好きは、憎しみとひと続きでもあるのです。奥方よ」
「はい」
「ひとと心を通い合わせ続けるには、互いに不断の努力を要するのを忘れてはなりませぬ。これは心を失い、怨霊と成り果てた者からの忠告に過ぎぬ。なれど、嘲笑うことなかれ。肝に銘じ、末長く添い遂げられよ」
真喜は無言でうなずいた。
いつしかぎんも逆立っていた毛を収め、二人の語り合う姿を見上げていた。
「いまさらなにを、おっしゃいます。許してはなりませぬ」
朱が天に向かって吠えた。そして、背中に亡骸を乗せたまま、巨大な獣は立ち上がろうとしていた。
洞窟の中が揺すぶられ、土器がかちゃかちゃと鳴った。
目に見えない凄まじい力が充満しつつあるのが誰にも感じられた。
水の中に入ったように体が重く、動きにくくなった。
とにかく、はやく対策を講じねば。
「たまどの」虎之介は聞いた。
「江戸での狼藉を止めるには、どうすればよい?」
「それは、やっぱり、まずはあれに置いてある……」
言い終わる前に朝倉が刀で土器をひっくり返した。
「おのれ」朱が叫び、洞窟の中が震えた。
〈江戸・宇部家下屋敷庭園〉
「あれ。声が聞こえなくなったよ」ぎんが言った。
「あのひとも……」真喜が言った。
あきの顔から一切の表情が失せた。ただ立っているだけのように見える。
「魂が、抜けちゃったみたいだね」
「ええ」
化け猫は巨大な前脚を宙に浮かし、「ふんっ」と気合を入れ、呪いをこめたように下ろした。
そこにいた者すべてに、まるで大石が乗ったような衝撃が加わった。虎之介も新八も地べたに張り付いた。朝倉だけが片膝をたてて、刀を構えている。
「ぎゃ、化け猫の十八番たあ、これか」久太らしき声がした。
そして朱は、主人を乗せたまま完全に四肢を伸ばした。
赤い口に、刃物のような牙が光った。
「きさまをわが餌食として、ここにいるやつらすべての失望を、滋養にしてくれるわ」
朱の周囲に、パチパチと小さな火花がいくつも起こった。
それは化け猫のふさふさした白い毛の周囲をとりまき、光った。いかに大きな力がそこに凝集しつつあるかが感じられた。
朱は虎之介を見た。
猫のくせに笑ったような目つきをして、ぐっと前足を持ちあげる。そして、爪で引き裂くように宙を漕いだ。
すると信じられないほど強いちからの波が押し寄せ、虎之介の大柄な体が、網でもかけられたかのようにぐいっと引っぱられた。
「ああっ」思わず声が出た。
足で踏ん張っても止まらない。
「死ねや」朱がかっと巨大な牙の生えた口を開いた。
「とのっ」
「若さまっ」
朝倉と、灰色の鞠のようなものが虎之介と朱の間に入ろうとしたその時、
「ぎゃう」激しい朱の悲鳴が上がった。
鼻面に、尻尾のある黒い塊がぶら下がっている。黒いネズミが噛み付いているのだ。
朱は繰り返し首を振るが、ネズミは離れない。爪で引っ掻きさえした。ついに白い朱の顔に血がほとばしった。
「ほれがほんろの、きゅうほねこをはむだ」久太の声だった。
「はははは、わかはま、みてくだはい、ほいつのまぬけづら」
大ネズミは朱の鼻面を噛んだまま、勝ち誇ったように叫んだが、二回、三回と回転したあと、鎌のような爪のついた朱の前肢によって、ついにこそげおとされた。
小さく悲鳴が上がった。
「久太」虎之介が叫んだ。
その時、入り口の穴の向こうで「おお、あそこだ」と声がした。
「との、との」忠次郎が隣の穴から上半身だけを突き出していた。「これを、これをお取りください」彼は袋から刀を取り出した。「佩刀を、どうぞ」
忠次郎の腕の付近がぼうっと明るい。三池典太だった。
なんともいえない怯え声が洞窟中に起こった。
「ごめん」と言って、忠次郎が掴んだ三池典太を抜いて手渡そうと図った。
太刀の鯉口がわずかに切られると、暗闇に小さく閃光が走った。
「まて、抜けば仲間も危うい」虎之介が叫び、そこにいた物の怪が一斉に悲鳴を上げた。毛を逆立たせて、朱も吠えた。
太刀を抜かずにつかみとるのに成功した虎之介は、抱き抱えたまま朱の正面に立った。かすかな光を放つ刀を持ったまま、仁王立ちになって睨み付ける。
朱が毛を逆立て背中をたわめ、いつでも飛び出せる姿勢になって、吠え叫んでいる。
刀の柄に手をやったまま、どうすべきか虎之介は考えあぐねていた。
しかし、それもわずかな時間に過ぎなかった。
洞窟は急に静かになった。
朱は背をもどし、攻撃の姿勢をゆるめていた。逆立っていた毛も、もとにもどっている。
「どうして……」声がした。
鞘に収まったままの刀が放つ不思議な光の中に、目を閉じたままの三木之丞がかすかに動いているのがわかった。
朱の背に倒れかかった上半身はそのままに、片手だけで白い毛並みを愛おしそうに撫でている。
彼の唇は動かなかったのに、その場の誰もが声を聞いた。やさしく、よく徹る声だった。
–––– もういい、ようやってくれた。もういい。
「あなた……」朱が泣いていた。
もういい、もういい。なんども繰り返し、手はいとおしげに巨大な猫の背を撫でた。
ふいに三木之丞の手が力を失い、だらんと垂れ下がった。
しかし顔は、目を閉じたまま、幸せそうに微笑んでいた。
(ああ、なんてきれいな顔なのだろう)
虎之介が見るうちに、細面の白く整った顔はさらさらと音をたてて崩れ、形を失っていった。
気がつくと、朱も大きな白い毛の塊となり果てていた。
主従はやっとひとつになったようだった。三池典太が持ち込まれて以来、ずっと低くうめいていた、なり損ねたちも土色の塊に転じ、穴の中はしんと静まりかえった。
〈江戸宇部家下屋敷・庭園〉
「ぎん、あれを」
立ったままだったあきの体が、地面に座り込むように膝を崩し、そしてはらはらと別れて、砂の山のようになっていた。
そのむこうに倒れていた橋本と蜘蛛女の体は、だらんと弛緩していた四肢の形がくずれはじめ、次第に土塊のようになってしまった。
宙を見ていたぎんが、つぶやいた。
「兄貴……」
「と、との」忠次郎の声に、虎之介がはっと我にかえった。
「久太」太刀を放り出すと、急いで隅に転がっていた黒い塊に駆け寄り、両手で抱え上げた。
びっくりするほど大きいが、間違いなくネズミだった。まだ暖かい。
「すまん、久太。おまえのおかげで助かった」
久太の長くこわい毛に覆われた体は、ボロ布のように傷だらけだった。
黒い旧鼠はうっすら目をあけた。
「いいってことよ」
「しっかりしてくれ、久太」
「ひとの手の中も、悪くはねえな」
虎之介がそのまま背をなでていると、小さく首を曲げて、
「仲間だもんな、おいらたち」とつぶやいた。
「ああ、そうだ。そのとおりだ。わたしたちは仲間だ。これからもずっとそうだ」
虎之介の目から涙がこぼれ落ちた。
「また、温泉にでも行こう。今度は一緒に湯に浸かろう。きっと治るさ、良くなるさ」
ふふ、と久太は微かに笑った。「若さま、泣くなって。湿っぽくていけねえ」
「ああ」
「せっかくだから言っとくが」久太はゆっくりと囁いた。「奥方様を大事にしねえとな」声はひどくかすれていた。
「こいつ、最後まで説教がましくていけない」たまの涙声がした。
「一国の殿様ともなりゃ跡継ぎは大事だろうが、やたらよその女に手を出しちゃいけねえ。ネズミだろうが、さむらいの娘だろうが、心があらあ」
「ああ。わかった。そうするよ」
「あの」
「なんだ?」
「あの、お方は、たいしたごうけつだ。奥方さまだ」
「そうだな、まったくだ」虎之介は泣き笑いになっていた。
「化け鼠を見たって、悲鳴ひとつあげねえ。おいら、あのおかたに」
久太の体から力が抜けた。
「久太」
涙が、次から次へとこぼれて落ちた。母の葬儀にも涙を見せなかった虎之介なのに、いつまでも大粒の涙を流し続けていた。
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