第25話 反撃、そして
吹き荒れる竜巻のような渦がネズミの集団と知り、
「おのれ、おのれ、醜いごみどもめ」朱がようやく感情をあらわにした。
雪崩れ込んできたネズミたちは、そのまま朱配下の猫やイタチに飛びついては噛みつき、爪で飛ばされてもすぐまた襲いかかる。
追いかけるように、唸りをあげるひとかたまりの獣が飛び込んできた。
今度は色とりどりの猫だった。ネズミに比べると大きいだけに迫力があり、「わわわわわ」と新八が声をあげて逃げまどう。
猫の群れは、先に穴にいた同族より全体に毛並みがよく肥えており、鈴やら紐を首から下げているのもいた。
ついに敵の伏兵かと身構えた朝倉と虎之介の横を、新手の猫たちもまた通り越し、さらに加速して野犬の群れに飛びかかって、体当たりする。
すさまじい音、獣たちの互いに牙を剥きあらそう声が、洞窟に響いた。
「わっはっは」聞き慣れた久太の高笑がした。「義によって助太刀いたす」
「久太かっ」
「若さま、お待たせしやした」声が弾んでいる。「急いだから海の向こうのやつらは呼べなかったけど、こいつらだって頼りになる連中さ。化け猫だろうが化けイタチだろうが、恐れやしねえ」
「遅くなりました。ここは我らにおまかせを」たまの声が追いかけてきた、
洞窟の中は大混乱になった。
隙を見て虎之介に飛びつこうとする猫やイタチを、小さなネズミたちが果敢に襲い、のたうちまわらせる。奥に走り込もうとした久太側の猫を、なり損ないがつかんだ。するとその腕を朝倉が斬り飛ばした。
朝倉の足元から飛びかかろうとした野犬に、猫と鼠が一斉に噛みつく。猫たちを避けつつ朝倉が犬を突き殺す。いつのまにか援軍と呼吸が合っている。
「若さま、この奥へ。朱はそこにいやす」久太の声がしたと思ったら、「いててて、なにしやがる」と悲鳴があがった。
「久太、大丈夫か」混乱の中で久太を探すが、それらしい姿は見当たらない。
「若さま、おかまいなく。早く奥方さまをお助けください」たまの叫びにおされ、虎之介は細く窄まった穴に無理やり飛び込んだ。
中は一転して広く、暖かかった。
輝きを増した吉備津丸の光に照らし出された穴の奥は、女王蟻の住処のように大きく球状に掘られ、その奥になにかがいた。
手前に、土を焼いただけの大きな皿が何枚も並んでいた。それぞれに液体が張ってあり、奥に人の顔ほどまで盛り上げられた土壇があった。
高みからこちらを見下ろす白い塊の姿形に、虎之介は目を疑った。
「みたな」
朱の声がした。
口を聞いたのは猪ほどもある四つ足の獣だった。
(あれは、虎か)変な洒落だと思いつつ、虎之介はにじり寄った。
とても現実とは思えないほど、大きな白い猫がいた。
開かれた口が赤い。そしてその大きな背に人がひとり、おぶさるように重なっている。
半身が焼けただれ、骸にしか見えない。しかし焼け残った側からは、白磁にも似たつやつや光っているような横顔が見えていた。
その人物の目は閉じられ、背中には無残にも錆刀が突きたっている。
そして顔立ちは、虎之介が生まれてはじめて見るほどの美しさだった。
(おんなか、おとこか。わからぬほど、きれいだ)
急く気持ちがあるのに、その顔から目が離せなかった。
「お前をからかいに行けぬわけがわかったか」悔しげに朱は言った。「妻が気になるであろう。見よ、水鏡を」
言われるまま、土器をのぞき込もうとした虎之介は、吉備津丸の発する熱に驚いて動きをとめた。
(いかん。奴の術だ。ここまできて術に落ちては元も子もない)
さっき、この穴を見つける時にしたように、眉のあたりに守り刀を掲げ、あらためてのぞき見た。
水面には、たくさんの篝火にあかあかと浮かび上がる紅葉が映し出されていた。華やかな衣服をまとった女たちの影がちらちらと見えた。この中に真喜もいるのだろうか。しかし、じっと視線を注いでいると、人が耳を手で押さえたり倒れたり、不自然な動きをしているのがわかった。なにか庭園で異変が起こっているのは間違いない。
さらに見ると、薄暗い中に篝火とは思えない小さな火がたくさん揺れている。ときおり、怪しい光が閃く。なにかぶつかり合っているのだろうか。そばに打掛姿の若い女がいたように思えたが、よく見えなかった。
「まきっ」虎之介は水鏡に叫んだが、伝わるわけもない。
〈江戸宇部家下屋敷・庭園〉
庭園に悲鳴が上がった。狐火に巻かれ、匕首を振りかざしていた宗匠ずきんの男が燃え上がったのだ。炎に巻かれながら泉水に駆けて行き、水に飛び込むと、ついに動かなくなった。
「はい、おそまつさま」ぎんが凄みのある声で言った。そのすさまじい有様に、あき一派は一時撤退を余儀なくされた。
あたりが静まり返った。どこかから人のうめき声が聞こえる。
「ぎん、なにかわたしにできることは」真喜が尋ねた。手に懐剣を構えている。
「なくしたと思うたら、ちゃんと持っておりました。慌ててはなりませんね」
「いえいえ、とっても落ち着いて見えますよ。あら、左の手は大丈夫?あたしと一緒に叩かれたのね」ぎんが聞くと、真喜は腫れた左手を隠すようにした。
「ええ、骨が折れたわけではありません。存分に戦えます」
「さすがお武家さま。でも、この子分どもはたいしたことない。ただのがらんどう。不細工なご用人はそこそこ手強かったでしょうが、おかげさまで」と、苔の上にひどい姿で倒れたままの橋本を鼻先で示した。
「せっかくのお庭が無茶苦茶になったのはアレだけど」
「おきくさんが、助けてくれました」
「そうね。でもその幸運は、姫さまがご自身で引き寄せた。だって怖がってないから。あの幽霊のお姉さんが気に入ってくれたのも、きっとそのせいよ」
「ひざは、震えています」
「いいの、いいの、それぐらい。姫さまが恐れないから敵の術が効かない。あいつら、まず怯えさせ、震え上がらせて術にはめる。だけどあたしらには、その手が通じない。ざまをみろってところね」
暗闇の奥から、さっきの奇声ともつかない唄を歌う女がしずしずと出てきた。
「おっ、またひとふし歌ってくれるのね。お礼に丸焼きにしちゃおう」
そう言いながらぎんは、「それと」かたわらの真喜にささやいた。
「姫さまのそのお櫛、くれと言う声が耳元でしても、ぜったい離さないでね。たぶんそれが、あの変な女の唄からあたしたちを守ってくれている。あのいかれ女を押し出してこっちの気をそらし、その櫛を奪う手立てとあたしは見てる」
真喜は大事そうに櫛に手をやった。
「わかりました。これは祖母から譲られたもの。その前の持ち主は、義理の母」
「あら。てことは、お殿さまの御母堂」
「ええ」
女は、前回よりも大きく地に足を広げて踏ん張り、さらに背を曲げて両手も広げ、ますます蜘蛛のような姿となって、奇声を上げはじめた。
音が響き出したとたん、吐き気が湧いてくる。
「そばで聞くと、けっこう効くね。おえ、だれに教わったんだろ」
「さっきあんなにたくさんお団子をいただかなければよかった」
ぎんと真喜は、慌てて手で耳を塞いだ。
しかし、蜘蛛女は急に咳き込みはじめ、ついに血を吐いて地に伏してしまった。
くそっという罵声が闇の向こうから聞こえた。あきのようだ。
「まあ、気の毒な。いのちがけの唄とは。さぞ辛かったことでしょう」
「すまじきものは宮仕え、てぇやつかしら」
蜘蛛女が動かなくなると、術の効果が薄れたのか、庭園のあちこちに倒れていた人影の中から動き出すものがあった。
中にひとつ、大きな影がむっくり起き上がるのがわかった。
「なにやつ」ぎんが警戒すると、影はきょろきょろ周囲を見廻し、
「お、おくさま」と呼んだ。「おくさまではございませぬか」
「まあ、えん」真喜も応えた。「大事ありませんか」
「これはいったい、どうなっておるのですか。松尾さまはいずこへ」
大きな臀部を揺らしながら、えんが立ち上がり、主人のもとへやってこようとした。
その前を塞ぐように、茂みから男が飛び出してきた。激しい勢いがあるのに、どことなく動きがぎこちない。例の目から鉄筆を生やしたあきの手下だった。
今度は薪でなく誰かの小刀を持っている。それを振りかざし真喜に襲い掛かろうとした。
真喜が懐剣を構えなおし、「こりゃっ」ぎんが後ろ足を伸ばして、狐火を出現させようとしたその時、
「これっ、お待ちなさい」男の腰に、えんが縋り付いた。「ろうぜきは許しませんよ」
明らかに男よりも重そうなえんがぶら下がったため、彼はあえなく地面につぶれた。
「えんっ、危ない」真喜がいい、「えんちゃん手を離して、術がかけられない」と、ぎんが叫んだが、えんはそのまま地面に座り込み、
「お前のごとき身分で奥方様に近づこうとは、なんたる不届き者」と、説教をはじめた。
「いずれの家中か、名を言いなさい。答えようによっては、ただではおきませぬぞ」
ところが、ようやく半身をあげた男の眼窩には鉄筆が突き刺さったままだった。月明かりによって、相手の顔色も尋常でないのにやっと気づいたえんは、締め殺される動物のような悲鳴を上げた。
そして顔を背けたまま、ひたすら男の顔や胸を激しく突き押しはじめた。
激しく揺すぶられつつ、男はなんとか立ち上がろうとしたが、えんの攻撃はやまない。その形のまま二人は斜面からすべり落ち、男は激しい水しぶきとともに池に転がり込み、見えなくなった。
一方、えんはむっくり上体を起こすとあらぬ方角を見て、「いやいやいや」と聞こえる声を発しながら立ち上がり、どこかへと走り去った。豊かな彼女の臀部だけが目に残った。
「ま、無事のようだから、よかったじゃない」
「そう、です、ね。そう思うことにしましょう」
「まったく」大袈裟にため息をついて、あきが闇から姿を現した。
「おまえの家中以上に、わたしは家来に恵まれないよ。手間をかけたのにね」
身構えるぎんを尻目に、あきはふいに夜空を見上げ、なにかを探るような表情になった。
そして、真喜とぎんに顔を向け直してから、「ふん」と不満げに言った。
「もうこの身体はあきらめることにするよ。荒事にはひ弱でも、気に入ってたのだけどね」
あきは大きく息を吸い、そして口をすぼめ、黒い瘴気を吐き出した。
「姫さまっ、息を止めて」
ぎんの狐火が迎え撃った。煙の中に火花が走り、黒さが薄れていく。
「おのれおのれ、小癪なやつ」表情に乏しかったあきの顔は、すっかり醜く歪んでいる。
「やだやだ。余裕をうしなっちゃいけないわ、お姉さま。せっかくの可愛い顔が台無しよ」
闘うぎんのうしろで真喜が口を開けたまま、天を仰いでいた。そのうち、耳に手をあててなにかを聞いている。
「だめよ、姫さま。よそ見しちゃ」
「夫の声が、しました」
「ええ、わかってる。呼ばれたよね。あたしにも聞こえた。だからこそ油断しないで。あいつの術かもしれない。空耳を使うって教えたでしょ」
「そうですね。わかりました」
狐火はさらに数を増やし、いまやぐるぐるとぎんと真喜の周囲を巡って彼女らを攻撃から守っている。
「ネズミめ、どこでこんな小賢しい技を覚えた、墓場か、くそだめか」苛立ったあきの声がした。
「まあお下品。あんたにだけは教えてやらないから」ぎんは言った。
水鏡に見入っている虎之介に、朱がすさまじい笑いを放った。
「どうだ。ようけ集まっておるだろう。これだけの幸せな愚か者が、血の池地獄に落ちれば、われとわがあるじにさぞかし滋養がしみ渡ろう。待てやしばし。わが結縁どもの準備はとうにできておる。あとは花岡と老中を引きずり出して狂い死にさせるだけ。きゃつら、年寄りゆえ動きが遅い。あまりに遅いと皆の目の前で真っ先に引き裂いてやるぞえ」
「あるじとは、その骸のことか」虎之介の問いに、朱は毛を逆立てた。
「物知らずの無礼者めが」と断じた。「わがあるじ、三木乃丞は骸にあらず、生きておる。そして女にあらず、男にもあらず。女のこころに男のからだ、男のこころに女のすがた。良きところばかりよ。世のだれより美しく高貴なわがあるじは、この朱が誇り。おまえら世の決まりにとらわれた愚物どもに、なにが判ろうか」
静かな口調だったが、声は洞窟全体に響くほどだった。
「主人のために化けたか。しかし、死んだ者のために大勢を殺しても、主人は極楽には行けぬぞ」
「だから、生きておる」朱は吠えた。「その目でよっく見よ」
朱は白く大きな体を揺すりあげた。
「かつて、この穴に逃れた当座、気の毒にもあるじの姿は黒く焼けただれ、消し炭のようであった。見よ、いまはこのような姿へと戻っておられる。あと少しの辛抱ですっかり元のまま。それには憎いやつらの苦しむ様を捧げるのじゃ」
高笑いしつつ、朱は自らを語り続けた。
復讐のため、念と結縁を通じて人を操るうちに呪力が増し、相手を思うさま嬲れるようになると、主人の体にもよい変化が起こるのに気がついた。すると復讐の意味も変わった。
「肝心なのは、楽しいことよ。楽しければ、滋養が満ちわたる」ぞっとするような声で朱は言った。
復讐に快を感じれば、復活の効果もまた跳ね上がるという理屈らしい。
「一度は邪魔をされ、すべてを諦めかけた。だが、いまや一切が変わった。三十年ばかり土の下で眠っておったはかえって好都合であった。いたぶる相手が増えたからな。それに、位階の上がった相手を引き摺り下ろすのは、うれしいぞ。歳をとって弱くなった相手をからかうのは、楽しいぞ」
「諦めかけた、とはどういうことだ」虎之介の問いに、
「むかし、朱を封じ込めたお坊様か行者がいたそうです」
暗闇からたまの穏やかな声が聞こえた。朱とは違い、知性と豊かな感情が感じられる。
「お札か遺物か、そのお方が功力をこめて化け猫を眠らせていたなにかが、この近くにはあって、それが前の大水でどっかへ流れてしまった。そのために力を取り戻した朱は、もういっぺん仕返しをはじめた。先代や奥方様の兄上たちがずいぶん経ってから呪われたのは、そんな理由からのようです」
「黙れや猫又」朱がふたたび大声をあげた。「同朋のくせになぜ邪魔をする」
しかし、たまが猫又と呼ばれたことについては、前から知っていた気がして、虎之介は特に驚きはしなかった。
「同朋。いっしょにしないでおくれ」たまは言ってから、「あはは、似ているところはたしかにあるわね」と晴々した声で返した。
「おまえが昔、命を救われたその哀れな役者くずれに首ったけのように、あたしもこのお方にお仕えしている」と心地よさげに笑った。
「しかしね、肝心かなめは天と地ほど違う。こちらの若さま、いやお殿様は正真正銘、名君となられるお方。見よや。ひとり敵地に乗り込むこの勇気。そして家臣、けもの、なり損ねにまで見せるこの慈愛。あんたにだってわかっているだろう。かたきのクズ大名どもとは、格が違いすぎて気の毒なほどさ。悪いが、そのお大事に担いでる役者ともね」
朱が悲鳴のような歯軋りをしたが、たまの声はうきうきと聞こえさえした。
「ああ、若さま、よくぞここまで。奥方さまは、久太の妹が一命にかえてもお守りいたします、あとは疾くここで朱を止めれば」
「たまどの、よくきてくれた。この正光、心から礼をいう。おおぜいの連れたちにもな」
「まあ、まあ、礼など、おそれおおい。いえね」たまは照れたのか、ざっくばらんな口調になった。
「さいぜん、朱の手下に甘んじてた野良の頭目を締め上げ、聞き出したのですよ。この化け猫はちっちゃいころ、凍えて死にそうだったのを、そこにいる三木乃丞って女形に助けられた。親を探して泣く小さな口がとっても赤くて可愛くて、朱って名付けられたそうで。いまじゃ見る影もないけど」
「ほう」
「でも」たまの声は沈んだ。
「おそれながらご先代さまって、ひどい方でいらっしゃいますね。噂は前から小耳に挟んでいましたが、いろいろ調べたら、それ以上でした。なにせ互いに惚れて惚れ抜いて、それぞれのお付きを騙してまで、こっそり国元へ連れ帰った三木乃丞を、商人たちに金を出させて芝居小屋まで作らせたその相手を、痴話喧嘩の果てに殺めてしまった。あれだけ可愛がった女形とその飼い猫を、まとめて串刺しにしてしまった。そりゃ、化けもします」いつの間にか、横に朝倉や新八が来ていた。
「おまけに付け火までして。あと、まわしって言うんですか、江戸にいた頃から三木乃丞のお付きだった男も同じ晩に死んでいます。それは先代の仕業ではなく、どうやら隠れてこの国にきていた他の若さまたちが手にかけたみたい。まだ大名家を継がれる前の」
「そうか。恨む理由はあるのだな」朱の不条理への怒りが薄れていくのを、虎之介は感じていた。
「ええ。殿さま方はそろって悪辣、五十歩百歩ってところでした。調べても、どなたを褒める声もなかったですねえ」
「だ、だれの声だ」ぼそっと新八が言った。
「知らなくとも困りはしない」と、朝倉が言った。
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