第24話 死闘
–––– そろそろ、覚悟の決めどきか。
穴ぐらの奥の、清涼感など少しもない澱んだ空気の中に虎之介はいた。
脳裏に彼の大切なひとびとの面影が浮かんでは消えた。
わずかな恩返しすら果たせていないのに、このまま地上に戻れなければ、最後の最後に特大の迷惑をかけてしまいそうだ。
すまない、真喜。すまない、兵部。すまない……。
心が苦しく、眉をしかめると汗がこめかみに流れた。
暗い穴の先を見つめた。まるで無限の闇のように思える。
「そこにおいでか」声がして、足下から風が立ちのぼった。
虎之介の後ろにいたなり損ねの首が突然に消えた。
血は出なかったが、身体はくずれた。
風はさわやかに虎之介の周囲を巡ると、彼を守るように敵に立ち塞がった。
「殿、ご無事で」刀を構えているのは、朝倉俊平だった。
「俊平かっ」
「はっ。遅くなりました」
「よく、ここがわかったな」思わず声に喜色が混じった。
「はい。青波がおりましたし、怪しい気配が茂みからしました。それに、もとはゆきが危急を伝えに参ったのです」俊平の声は憎らしいほど穏やかだった。それが虎之介にも少し冷静さを取り戻させてくれた。
「ゆきがか」
「はい。ただならぬご様子の殿が、紅屋町への行き道を番屋に尋ねておられたと。それで、その」
「なんだ。言うがいい」
「なにやら、お命に関わる覚悟をされておられるようだったと」
「そうか」虎之介は恥ずかしくなった。
あんな子供にまで内心を見抜かれ心配されるとは、おれはまさしく、ひとりよがりなだけではないか。
「ゆきといい、深田といい、おまえといい、迷惑をかけっぱなしだな。はじめから素直に、ここまで来てもらえばよかった」
「なにをおっしゃいます。明かせぬ理由がおありとは思うておりました」
虎之介と話しながらも、朝倉は電光のように刀身を閃かせ、なり損ねの血脈を片っ端から斬っていく。狭い空間を意にも介していないようだ。
しかし、せっかく斬ったのに、動きが鈍くなるだけで止まらないのがいる。
「こやつらは、人ではないのですか」
「実は、よくわからん」
会話を交わしつつ、朝倉は次になり損ねを二人、唐竹割りと輪切りにして見せた。
返す刀で新八と掴み合っていたなり損ねの首をはねる。
すぐにコツをつかんだようである。身を両断されると、なり損ねもさすがに抵抗できなくなる。
四つん這いになって勢いよく突っ込んできたなり損ねは、瞬時に首と手をすっぱり斬られて沈黙した。
「ああっ」また朱の声がした。「いつの間に。この前の化け物ね。あなたと結縁したかったのに、充実しちゃってるわね」
「化け物に、化け物呼ばわりされたくはないぞ」
朝倉が声に応えつつ、またなり損ねを二つに斬り割った。
虎之介のような遠慮の一切ない暴れっぷりに、みるみる数を減らしたなり損ねたちが後ろに下がっていく。
顔に表情はなくても、あきらかに怯えている。
「あーああ。なり損ねは所詮なり損ね。頼りにならないわ」
わざとらしく朱はため息をついて見せた。
「でもね、おかげでようやく揃ったわ。ご披露しましょう。あたしの馬廻り衆」
暗闇に漂い始めた獣くささに虎之介は気がついた。
低く唸り声がしている。
「山犬か」
「もちろん、それもいるわよ」
声を聞いて、新八が穴の奥に提灯を差し伸べた。夜空のように小さな光がきらきらした。
「目玉?」新八が不用意に光に近づいた。
朝倉は新八を放置したまま、虎之介を自分の背後へと誘導した。
光がじりじりと距離を詰めてくる。
提灯に近寄ったために、はっきりとその正体がわかった。
「なんてこった」新八がなげいた。
二十匹を越える犬、その三倍はいそうな猫。イタチもいる。揃って牙を剥き、三人を睨みつけている。
獣たちに噛みきざまれるざまを思い浮かべ、虎之介はぞっとした。
真っ先に飛びかかってきた大きな犬の腹を、身を沈めた朝倉が冷静な顔で割いた。
血の匂いが穴の中に満ちた。
彼は刀を正面に立てると、低く構えた。数が違いすぎると虎之介は思ったが、朝倉は平然と言った。
「さあ、まいれ」
虎之介も前に出て、吉備津丸を突き出した。じりっと群れが下がった。
「やあねえ、その刀。仕方ないわ。元の持ち主を先に消すことにしましょう」
「まてっ」飛び出した虎之介に、立ちはだかった獣たちが牙を剥いた。
〈江戸・宇部家下屋敷庭園〉
二人の男女を引き連れた目つきのおかしい橋本用人が、
「女、そこにおれ。花岡を連れてくる。まだ用件は終わっておらん」と言った。
女というのは真喜のことである。平常ならば、そんな口の聞き方をすれば処罰の対象となりかねないが、橋本はすっかりと平気だった。
すると、後ろから二、三歩彼に近づいたあきが、
「ああ、それはもういい。出しものは変更になったの」
と、軽い調子で声をかけた。
彫りの浅い地味な顔立ちだが、あきにはつい目で追ってしまうような色気があった。いまもかがり火に映えて、色の白さが際立っている。
「順番を変えて、さきに奥方様に死んでもらうのもいいかなあ、って思ったの。それでまず、殿様をがっくりさせる。そのあと、花岡に奥方のみしるしを斬り取らせ、それを高く抱え上げてもらって、集まった皆さんに披露させつつ、いかに己が非道な振る舞いをしたかを、るる語らせる。それで仲間は死んでしまったから、かわりにその娘の首級をあげた、これで勘弁してくれって、老中の前で言わせるというのは、とても面白いと思うんだけど、趣味がわるいかえ?」
その場にいて声の聞こえた者たちは、揃って狂人を見る目つきであきを見た。
「これっ」声がかかった「なにをやっておるか。おい橋本、気でも触れたか」
花岡家の吉川家老が、怒りを漲らせた顔で池の反対側からやってきた。
「その女も、見た顔だがこんなところに来る身分ではなかろう。さっきからごじゃごじゃわけのわからぬことを口にしておるようだが、奥方様に無礼千万。はよう下がれ。それと橋本、あとで話がある」
「おれも、ある」橋本が言った。
「なにっ。ふざけおって、乱心したか。おい」吉川が首をひねると、男が三人ばかり、橋本を捕らえようと前に出てきた。そこに、橋本の連れてきた平徒士風の若い男が割って入った。
「うぬは何者か。邪魔だてするな」
それっと吉川がその若い男の排除を命じると、男は刀の代わりに薪ざっぽうを取り出した。
「うわっ」吉川の部下たちが、薪を振り回す男から逃げ惑った。
「なにをしておるかっ、そんな若造に情けない。しっかり捕まえよ」
「おまえがやれば、いいではないか」抑えた口調で橋本が言うと、
「うぬっ」吉川の顔が真っ赤になった。「調子に乗るのもたいがいにしろ」
すると、鵠山勢をはじめとして、騒ぎを聞きつけた人々が集まってきた。
「おい」橋本がかたわらの痩せた女に声をかけた。
女は前に出た。足を広げて立ち、背を伸ばしたまま腰をかがめ、まるで蜘蛛のような姿勢になってから、突然ガラスを引っ掻くような甲高い叫びをあげた。
声の届く範囲にいたひとびとが、一斉に耳をおさえて苦しみはじめた。
「なによ、これ」ぎんがたもとから聞いた。
「……わかりません。ほんとうに気分が悪くなってきました」
痩せた女に近いところにいた男たちは、ついに地面に横倒しになり、吉川も身悶えしている。えんや松尾らも耳を押さえてのたうちまわっている。
橋本らだけが、平然とした顔をしている。彼は、
「と、いうことは、おまえを殺せばすべてうまく行くということか」
そうつぶやきつつ、真喜に近づいた。
ぎんが、「こらっ」と叫びながら真喜のたもとから飛び出したところに、横から出てきたさっきの若い男が、薪ざっぽうを振り当てた。
悲鳴をあげて、ぎんは薪ざっぽうと一緒に泉水の方角へ飛ばされてしまった。
「ぎんっ」打たれた手を押さえながら、真喜が叫んだ。周囲は混乱の真っ最中となっていて、誰も助けにくる者はいない。
若い男は無言のまま、真喜の細い首に手をかけようと踏み込んできた。
絶叫が響きわたった。
男の声だった。
若い男は片目に鉄筆を突き立てられ、地面にもんどりうって庭園の苔の上を転がって行き、ついに痙攣をはじめた。
真喜はまだ、身構えている。「ぎんになにをするかっ」
「あら、勇ましい」見ていたあきがぽつりと言った。
橋本が、また動いた。「これは、わたくしめが、お命を頂戴しないとならないようです。恐れ多いこと」
彼は両手をまっすぐに伸ばし、黒目がちのまなこをいっぱいに開き、一歩一歩真喜に近づいていく。
真喜は立ったまま、胸元を探って武器を探すが、もうない。
あきはわずかに口元を引きゆがめた。
「悪いね。あんたが黙れば、亭主も黙る。あきらめなさい」
橋本は手を伸ばしたまま、後ろに下がり続ける真喜を追いかけた。そして不快な鼻音を鳴らしてから、
「お待ちなさい」と呼びかけた。口調はさっきとは一変し、慇懃無礼を楽しんでいる。「苦しむのはわずかな間。ご身分のわりに往生際が悪いですよ」
縁台にふくらはぎをぶつけて、真喜の動きが止まった。
「ほれ、そろそろ運の尽き、次の鬼はあなた。大人しく鬼となりなさい……ん」
伸ばした橋本の腕に、横から別の腕がかけられていた。青白くてほっそりした指をしている。女の手だ。
横を向くと、すぐそばに若い女の顔があった。
「なんだ、おまえは」
表情に乏しかった橋本が、ようやくぎょっとした顔になった。
見知らぬ若い女は、乱れた髪を額に垂らしていた。真っ青としかいいようのない顔色をして、血の気は少しも感じられない。ひたと橋本の目を見つめると、駄目だとでもいうように、首を繰り返し横にふった。
女は御殿女中風の衣装を着、どことなく薄ぼんやりしていて、宙に浮いているように体重を感じさせない。なによりすぐそばにいるのに体温を感じられず、むしろこちらの体温が奪われていく。「喰われた」はずの橋本がぞっとした。
「はなせっ」青白い手をじゃけんに払い除けた橋本左内は、一歩前に出て真喜を掴もうと腕を伸ばした。
その腕に、こんどは反対側から手がかかっていた。見ると同じ女がまた、首を横に振り続けている。青白く、途方にくれたような顔。橋本もかなり不気味な雰囲気を発しているが、気にする様子はまったくない。
橋本は、「うるさいっ」と女を反対側の手で殴ったが、すっこぬけた。
今度は橋本の首に青白い両腕がかかった。用人は苦しげに頭を振り、手を振り回してそれを外そうとするが、細っそりした指がほどけない。
「おきくさん」真喜が言った。「助けてくれてありがとう、でもあぶないわ」
きくと呼ばれた女は、青ざめた顔を真喜に向けると、ふわっと表情を緩めた。
微笑んだのだ。
橋本は、まとわりつく女を必死に振り払おうとしつつ、さらに真喜へ接近を図った。しかし、さっき彼女に対して見せた余裕は、あとかたもなくなっている。
「おのれっ、怨霊風情がっ」と身悶えする。
わずかに眉をしかめたきくは、暴れる橋本の首に、かまわず指をかけた。襟元でも直すような、自然かつ優雅な仕草だった。
橋本の口が泡を吹きはじめた。
きくは真喜の顔を見ると、声を出さないまま、唇を動かした。
「ありがとう」と、読み取れた。そして、「さようなら」
穴も開いていないのに、きくの体は徐々に地へと沈んでいった。それにつれて橋本の体も、巨大な力で押し縮められるようにぼきぼきと屈んでいく。そのうち、どこか大きな骨のへし折れる不気味な音がして、男の体は糸の切れた人形のように逆らう力を失うと、完全に地面へと引き倒されてしまった。
ぼう然として、真喜はその凄惨な様子を見ていた。
最後にもう一度、きくは真喜に対して青ざめた顔を向けた。そこには童女のような笑みが浮かんでいた。
真喜がおそるおそる手を振って合図すると、きくは深くうなずき、満足したような表情となって次第に薄れてゆき、周囲に溶け込んでいった。
彼女の姿が完全に見えなくなると、あらぬ方向に首と背骨の曲がった橋本の体だけが地面に崩れていた。手足が弛緩し、ぴくりとも動かない。
「えらいものを見ちゃったわね」あきが言った。「くわばらくわばら」
そして腰に手を当てて伸びをすると、
「仕方ない。この手でやるしかないか」と、歩きはじめた。足の向いた先には真喜がいる。
「またせたねっ」張りのある声がした。「あたしが相手だよ」
ぎんが二人の間に黒く勇ましい姿をあらわした。ただし毛は濡れて、足元に水が滴り落ちている。
「やあ、滝に打たれて目が覚めたっ。眠くて油断したけど、しゃっきりしたわ」
「おや、旧鼠。生きておったは身の不幸。踏み潰されたいかい」
「やってみな。足をもぎとってやる」
「ぎんっ、無事かっ」真喜が叫んだ。
「姫さま、気をつけて。こいつ、傀儡でも取り憑かれでもない」
「えっ」
「おそらく親玉の分身。江戸でいろいろ悪さをしてたのは、取り憑かれどもを操る糸の先にいたのは、実はこいつよ」
「あらご明察」
あきは感心したような表情を浮かべた。
「行者は気づきもしなかったし、円津ですら半信半疑だった。なのに見抜くとは、おぬしなかなか。どぶに捨てておくのは、ちと惜しい」
「あたしゃどぶネズミじゃないよっ」
「骸を野晒しにはせず、わがあるじに供えようか」
「ありがとっ。涙が出るよ。だけどお供えになるのは、あんた」
ぎんの威勢のいい啖呵に苦笑したあと、顔の前に指を一本立てたあきは、口のなかでぶつぶつ言った。
蜘蛛女が小さく唄をうたいながら、彼女の側にやってきた。目に鉄筆を突き立てたままの若い男もやってきた。こっちは顔色が青黒く、生きているようには見えなかったが、まだ動いている。
さらに、人がばたばた倒れて混乱している庭園の中から、男がふたりやってきた。いずれも中年の男だった。一人は髷が薄く、もうひとりは完全に毛を剃った頭に、宗匠頭巾をかぶっている。
全員に生気はなかった。
「さあ、どうする」
えへへ、と、ぎんが不敵に笑った。
「ついに嗜みをすてたのね。じゃあ、あたしも遠慮なくやらせてもらう」
毛を逆立てたぎんが、するどく呪文のようなものを口走った。
すると大ネズミと真喜の周囲に、狐火がいくつもいくつも燃え上がった。傀儡たちが、とたんに尻込みした。
「ネズミっ、きさま、なんのつもりっ」あきが炎に目を剥き、ようやく怒りを面に出した。
「ぎん、きれい」真喜のずれた感想に、ぎんは前足をかくっとさせたが、
「ひめさま、あたしから離れちゃダメよ。こいつらに目にもの見せてやる」と言った。
小刀の光に射たれ、獣たちが動きを止めると、朝倉がその中に飛び込み、情け容赦なくばさばさと首をはねた。
二人を避けるように、痩せて汚れた猫たちが駆け、提灯の下にいた新八へと襲い掛かった。弱い相手を見つけるのは上手なようだ。
「うわわわわ」
「深田、逃げろ」虎之介が新八を庇おうと彼の元にもどりかけると、今度は猫たちが彼に牙を剥いた。
「とのっ」朝倉が怒号し、主君の前方に戻ろうとした。その時だった。
どこかで、かすかに鐘の鳴るような音がした。穴の入り口からのようだ。
「なに」
すぐにそれは小さな地響きへと変わり、黒い渦が虎之介の背後から湧き上がった。
伏兵かと身を翻した朝倉を回避して、渦は朱の獣たちに襲い掛かった。
猫やいたちが吠えるが、すぐに渦に巻き込まれ悲鳴を上げた。黒い渦は、無数の鼠たちでできていた。
「げっ、ねずみっ」新八の裏声がした。
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