406420-TOKYO Olympics

初音

406420-TOKYO Olympics

 未だに信じられないが、僕は今、桜型のトーチを持って代々木にいる。

 少し顔を上げれば、真新しい国立競技場が見える。


 正直、東京オリンピックなんて、迷惑以外の何者でもないと思っていた。外国人が押し寄せて電車も道路も混むし。そういうのは、夏休みじゃない時にやってほしい。そしたら、休校になったかもしれないのに。でもそれはそれで、ボランティアに駆り出されそうだな……それも面倒くさい。だって、暑いし。

 別にオリンピックが嫌いなわけじゃない。涼しい部屋でテレビを見ながらよっしゃー!金メダル!とか騒ぐのは好きだ。時差の関係で深夜の観戦になるのも、非日常的で悪くない。

 だから、別に東京でやる必要は微塵もないと思っていた。学校でも、大方のクラスメイトがそんなことを言っていた。

 そんな僕が、聖火ランナーに応募なんて。どんな心境の変化だと友達に笑われるのが恥ずかしくて、やっぱりやめようかとも思った。でも。


「父さんに見せたいんだ、俺の勇姿を」


 彼のその言葉を思い出す。 


 僕だって、やるんだ――


***


 去年のゴールデンウイーク、僕はタイムスリップした。


 よくあるアレだ。トラックにぶつかって~ってやつ。ただ、僕の場合は家族で車に乗ってじいちゃんの家に向かっていた時に、トラックが降ってきた、といった方が正しい。そんなことがあり得るのかって?

 場所は、日本橋。首都高速道路を走るトラックの運転手は、昨今の人手不足のせいか、疲れ切っていたらしい。そんな条件が揃えば、トラックが降ってくるということもあり得る。


 がっしゃん、と大きな音がして僕の意識は途切れた。目が覚めたら、青い空が見えた。


「ここは、どこだ?」


 きょろきょろと、あたりを見回す。場所は、日本橋で間違いないだろう。「日本橋」と確かに書いてあるし、麒麟の像だってある。


 唯一おかしいのは、空が見えることだ。そう、首都高速道路が、ない。

 いや、ないわけではない。左側と右側には、ある。日本橋の真上にだけ、ぽっかりと、ない。


「おい、大丈夫か?」


 声をかけられて見上げると、なんとなく見たことがあるような風貌の男が立っていた。たぶん、同い年か少し上くらいだろう。

 どこで見たんだろう、でも、なんとなくダサい恰好だなあ、と思いながら、僕は差し出された彼の腕を取り、立ち上がった。あれだけのことがあったのに、無傷だった。


「父さんと母さんは?車は?事故は?」僕は状況が飲み込めずにあたりを見回したが、すぐに様子がおかしいことに気づいた。


 車が、なんとなく、古い。レトロといえば聞こえがいいが、「エコなんて知ったこっちゃないぜ」と言わんばかりに排気ガスをもくもく出しながら、たくさんの車が道路を埋め尽くしている。大渋滞だ。


「事故?なんのことだ?この渋滞で事故なんかおきないよ。もしかして、頭を打って、混乱してるのか?」

 

 僕は「いや……」と否定した。そして、視界にあるものが飛び込んできた。


「TOKYO 1964……?」


 それは、近くの建物に貼られた大きなポスターだった。 


「もしかして、今年ってオリンピック?」僕はどうしたらいいかわからず、そんなことを聞いてしまった。

「来年だよ」

「だよね」


 オリンピックが来年ある。いや、それは、間違いないんだけど。


「変なことを聞くやつだなあ。そんなこと、知らない日本人はいないぞ。やっぱり頭を打ったんじゃないか?どこに住んでる?とりあえず、家に帰れば家族に落ち合えるんじゃないか?それとも、交番、病院……?そうだ、名前は?」

「佐藤拓真」

「おお、奇遇だなあ、俺も佐藤だ。佐藤昭三。よろしくな」

「佐藤、昭三?」


 それは、今会いに行こうとしてたじいちゃんの名前だった。いや、まあ佐藤なんてたくさんいるし、たまたま同姓同名ってこともあるだろう。でも、なんだか僕は嫌な予感がしていた。


「えっと、ここは1963年の東京。来年オリンピックがある。そこの首都高速も、もうすぐつながって日本橋からは空が見えなくなる」

「そうそう、合ってる。合ってるけど、やっぱりなんか言い方が変だなぁ。で、どこに住んでるんだ?」


  そう、ここは僕がいたところと同じ「オリンピックの前年」なのだ。……1964か2020かの違いはあるけれど。


 だとすると、僕の家は、たぶんない。あったとしても、ここから神奈川に帰る電車はあるのか?野口英世の千円札は使えるのか?

 イチかバチか、この人が本当にじいちゃんだったとしたら……


「じ、実は、家出してきたんだ。しょ、正三くんの家に泊めてもらえないかな?」

「お前、さっき父さん母さんはって、親の心配してたじゃないか」

「そ、そう。家族で家出。夜逃げってやつ。だから自分の家には帰れないんだ。ね?お願い、頼むよ」

 

 正三はうーんとしばらく考え込んでから、「いいけど」と切り出した。


「母さんに聞いてみないと。門前払い食らうかもしれないけど、そうなったら交番の世話にでもなれ。とにかく行こう」


 あ、電話とかメールで今聞いてくれるわけじゃないのか。そりゃそうだ。


 昭三に家の場所を聞いたら、浅草にほど近い下町の一角だという。思った通り、それはまさに僕たちが行こうとしていたじいちゃんの家のある方だった。

 そして、なんと日本橋から浅草までの交通手段は徒歩だった。昭三は大学生で、陸上部に所属しているらしい。トレーニングのために、東京の町を走っていたそうだ。しかも、来年の東京オリンピックの聖火ランナーにも内定しているという。そんな話をぼんやりと聞きつつ、僕は息も絶え絶えになりながら、なんとか昭三の家までたどり着いた。やっぱり、じいちゃんの家だ。僕は自分が知っているよりもはるかにきれいで新しいその家を見て、不思議な感慨に浸っていた。


 中に入れてもらったが、誰もいなかった。昭三は今母親と妹と三人暮らしで、二人は買い物にでも出かけているのだろうと言った。

 麦茶しかないけど、とりあえず居間に座ってろよ、と言われた僕は、案内される前に居間に向かった。昭三は「よく場所がわかったな」と目を丸くしていた。僕は、「友達の家に構造が似てたから」と言うしかなかった。


 居間の様子は僕が見慣れたじいちゃんの家とほとんど一緒だったが、テレビはブラウン管のレトロなテレビだし、エアコンがなくて扇風機しかなかった。

 部屋の片隅にある仏壇も、少し様子が違っていた。2019年のじいちゃん家にある仏壇には、二年前に死んだばあちゃんと、なんだか知らないご先祖様の写真が二、三枚供えてあったけれど、今は写真が一枚しかなかった。まだ、新しい。あのご先祖様はこの1963年の段階で、すでにご先祖様なんだなあ、とぼんやり思った。僕がじっと仏壇を見ているのに気づいたのか、昭三は「それ、俺の父さんなんだ」と言った。

 そうだ。どうして忘れていたんだろう。昔、じいちゃんが言ってたじゃないか。


 ――じいちゃんはな、この写真でしかお父さんの顔を知らないんだ。戦争で、死んだんだよ。


「戦争で……」

「よくわかったな。まあ、この辺は空襲もあったし家族を戦争で亡くしてるやつなんてごまんといるもんな」

「う、うん」

「知ってるか?二十三年前、東京でオリンピックをやるはずだったんだ。父さんはそれの聖火ランナーに応募しようとしてたらしいんだけど、戦争でオリンピックが中止になっちゃって。それどころか、自分が戦争に駆り出されて死んじまった。だから、俺は今回のオリンピックで聖火ランナーに応募した。父さんに見せたいんだ、俺の勇姿を」


 ああ、この時代の人たちにとっては、東京オリンピックの重みが、全然違うや。

 そんなことを、僕は思った。 


 その日は一晩昭三の家に泊めてもらったけど、若い頃のじいちゃんとこれ以上一緒にいるのはなんだかよくない気がして、置手紙を残して翌朝早く浅草の家をあとにした。


「ありがとう。僕の名前を、どうか憶えておいてくださいね」


 それから僕は、日本橋に戻ってみた。麒麟の像をぼんやり見つめたところで記憶が途切れ、次に目が覚めたらまた日本橋からくうを見上げていた。今度は、そらは見えなかった。道路脇にはぶら下がっている「TOKYO 2020」のフラッグが視界に飛び込んできた。

 僕は軽傷で済んでいた。父さんと母さんも無事だった。 


***

 

 僕は今、桜型のトーチを持って、聖火を待っている。しかも、アンカーから数えて三人目という、栄誉あるというべきか微妙な位置にいる。たぶん、テレビにちらっと映るだろう。

 クラスメイトに見られたら、何て言われるかな。大学受験控えてるのに何やってんだ、とか?いや、皆オリンピックの聖火リレーなんて興味ないだろうから、テレビも見ないんだろうな。


 もったいない、と今ならわかる。

 アスリートになれなくたって、オリンピックはこうやって参加できるんだから。五十六年分、いや、八十年分の思いが詰まった、東京オリンピックに。


 歓声が聞こえてきた。もうすぐ、僕の番だ。


 僕の他にもここまでたくさんの人たちが聖火を繋いできた。今日の日を楽しみにしてきた。


 僕が走るのは距離にして、二百メートルだけど。たかが二百メートル、されど二百メートル。


 歓声が近づいてくる。

 振り返ると、市松模様のエンブレムがついたTシャツを着た集団が走ってくるのが見えた。

 ついに、僕の目の前に聖火が到着した。熱い。ただでさえ暑いのに、こんな火を目の前にしたら余計暑い。

 僕はトーチを傾けた。相手も傾けると、ボッという音と共に、僕のトーチに聖火が灯った。

「よろしくお願いします」

「ありがとうございます」

 短い言葉を交わすと、僕は一歩を踏み出した。


 たった二百メートル。僕にとってはたった二百メートルだけど、この道は、あの頃から、もっと昔から、たくさんの人が歩んで、バトンを渡し続けてきた道なんだ。


 2020年、三度目の東京オリンピックが、ついに始まった。





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