第5話




 日が完全に地平線に隠れると、今日泊まる場所に向かう。彼は彼女に泊まりということを聞き、1日分の着替えなどが入った荷物を持ってきていたが、彼女は貴重品くらいしかもっていないようだった。

 互いの素性を聞かないというのは、初めて会った時からの彼と彼女にとっての不文律だ。それがあるから、何も知らないで一緒に笑っていられる。だから、彼はそれを疑問に思っても、彼女がこちらに拠点でも持っているのかと見当をつけて、それを聞いたりはしなかった。

 

 彼女に従って歩き、着いたのは一軒家の前だった。てっきりホテルか、そうでなくても旅館など宿泊業を行っている店だと思っていた彼が驚いて尋ねると、どうやらこの街に来る予定だということを知り合いに話したら、その知り合いの家に泊まることを提案されたのだとか。彼には、彼女が泊まることを押し切られたことが推察できたが、あまり触れられたくなさそうな様子だったので気づかないフリをした。

 彼女がインターホンを押すと、玄関から老紳士が出てきた。老紳士といっても、パッと見たところでは60歳くらいだろうか。だが見た目以上に、その佇まいや動作が品と積み重ねられた経験を感じさせるのだった。


「よくここまで来てくれましたね。長旅で疲れたでしょう、今飲み物を入れますからどうぞ椅子に座って待っていてください。紅茶で大丈夫でしょうか?」


 彼がその問いに頷くと、家主はキッチンの方に消えていった。

 リビングを見回すと、物が整頓されていて几帳面な印象を受ける。ダイニングテーブルの側にはよく手入れされた花が小さい陶器に刺してあるのが見える。花は巻き毛のようにねじれて咲いていて、小ぶりだが可愛らしい。また、ソファが配置してある側には背の高い本棚が並び、図鑑や小説などが隙間なく収納されていて、読書家であることが伺えた。


「お待たせしました。こちらが砂糖とミルクですのでお好みでどうぞ使ってください。それとクッキーもあるのでよかったらお召しになってくださいね。」


 そう言って彼と彼女の向かいに座ったのが、初めて彼が彼女に会った時を思い起こさせた。彼女がミルクと砂糖を少し入れたのをちらりと見てから、家主は話し始めた。


「改めて、ようこそお越しくださいましたね。私は緋衣ひごろも誠司と申します。ましろさんがお世話になっております。君は──」


「──この方は純さんで、私の友人です。」


「はい、ましろさんの友人の純です。今日はお家を貸していただき、ありがとうございます。」


 彼に対して訝しむように問いかけられたその言葉に、彼が答えようと口を開いて声帯を震わせる前に、彼女は代わりに答えた。緋衣はそれに目を瞬かせて、小さく息をついた。彼はその時の彼女を見る眼差しに父親のようなものを感じて、調子を取り戻し冷静に挨拶した。


「いえ、私が申し出たことですので。ご滞在中は、ましろさんはもちろん、純さんも何かあればおっしゃってください。年寄りの言うことですから、あまりアテにはならないかもしれませんが。」


 緋衣はそういうと、目が弓なりになって柔らかな表情をした。目は細くなって瞳孔がはっきりと見えていなかったのに、彼は緋衣と目があった気がして、すべて見透かされているような、そんな気分になった。



 その後にいくらか話をした後、緋衣は彼を部屋に案内した。中の構造は、おそらく一般的な宿とあまり変わらないだろう。普段から客室にしているであろうことが見て取れる。

 いくつか緋衣は彼に説明をしてから、扉を閉めて去ろうとする。それを見た彼は、ずっと思っていた質問を意図せず口から出した。


「...どうして、ましろはたった一人であそこに居るんですか?」


 緋衣はきりっとしたその眉を下げて、申し訳なさそうに答える。


「申し訳ございません。それは、私の口からは話せないことです。ですから、もしましろさんがその話をしたら、どうか最後まで聞いて差し上げてはいただけないでしょうか。」


「いえ、わかっていたことですから。ありがとうございます、緋衣さん。」


「こちらこそ」と言って去っていった緋衣の瞳には、安心がのっていて、彼は本当に彼女のことを家族のように思っているのだと確信した。




 肥料をまいた土に埋められた種が芽吹くかどうかは、水が与えられるかどうかにかかっている。だがそれは、いったい誰にも分からないことだった。

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白薔薇 蒼野もか @mocha_symphony

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