夢の跡

鹽夜亮

第1話 夢の跡

 私はまだ春になりきれていない寒空の朝、寝ぼけたままに醒め切らない夢を考えていた。厭に甘ったるい夢だった。寝起きの頭に煙草の、メンソールとニコチンが刺さるような気がした。

 夢は私の興味を惹く事柄だった。それは私が趣味として、教養として精神分析を好むからでもあった。また、私の中途半端な神秘主義の産物でもあった。今朝の夢も、私の興味をそそるには充分だった。

 私は、名も知らぬ褐色肌の健康的な、今の私から見れば幼さも感じる少女と遊んでいた。場所は父の実家の周辺だった。そこを少女は得意げに、猫のように走り回り、ついてこれるかと悪戯心を込めた笑顔で振り返るのだった。私は少女を夢中で追った。私は、自分もこの辺りは知り尽くしているからついていけると無邪気な自信を抱えたまま、石垣から石垣へと飛び飛び、走った。それは私に、幼少期を彷彿とさせた。夢の私は楽しかった。やがれ辿り着いた空地で、少女が私に好意を持っていることを知った。それは私も同様だった。しかし夢の私は、恋愛を知らなかった。キスの仕方も、異性間のあるべきタイミングで作られるあの、独特な雰囲気も…ましてや、人の抱きしめ方すらも、知らなかった。だが、私は意を決して少女を抱きしめようと、目を瞑って腕を前に突出し、前方へと飛び込んだ。…

 私はその勢いのまま、空地の草むらへ転げ込んだ。少女は腕の中にいなかった。いや、少女はどこにもいなかった。まるで最初から少女などいなかったかのように、綺麗さっぱり跡形もなく消えてしまった。不思議なことに、夢の私がそれに違和感を覚えることはなかった。ただ、少女を抱きしめられなかったことへの寂しさと…虚しい情けなさだけが、残った。

 ニコチンが回っている。朝の空気は澄み切っている。最近、早起きなどめったにしない私の肺を、煙と清澄な空気の混合物が満たしては、吐き出されていく。私は膝に頬杖を突きながら、まだ夢について考えていた。少女が誰なのか、皆目見当もつかなかった。私には褐色肌の知り合いなど一人もいなかった。それは幼少期の記憶の糸を手繰り手繰り、引き寄せてみたところで同じことだった。寝ぼけた頭は、普段から好き好んでいる精神分析の諸理論を、この夢の上に引っ張り出すことができずにいた。それをすれば、何かしらこの夢の意味がわかるだろう、とは思っていた。だが私はそれを、心のどこかで明確に拒否さえしていた。

 楽しい夢だった。美しい少女だった。もはや体験のできぬ、幼少期の、純粋な、あの心躍る感覚に満ち満ちた夢だった。知的な分析は、確かに私にとって好ましいことだったが、それがこの夢の解体を意味していることは、それ故によくよく理解していた。私はこの夢が、私の知識によって表象から象徴へ、事物から連想へ、そうして分解されていくことが恐ろしかった。私は、この夢を覚えているうちに分析へと取り組めば、きっとそれをやってのけるだろう。その自信はあった。のみならず、否定しようにも…私の知的な一部分は、既にその分析の糸口に気付いていた。しかし、だからこそ、その結果によって今ニコチンに侵されているこの現在の私の醜い潜在思想、欲動に、この優しい夢の全てが変化させられることが恐ろしくてたまらなかった。

 私は三本目の煙草に火を点けながら、今しばらく忘れていた恋心などという優しい感情を思った。それは性欲の関わり合いのない…いや、関わっていたとはしても互いにそれを知ることのない、純粋な感覚だった。今の私が二度と味わうことのできぬであろう、いじらしく、初心な、追憶の彼方にある感情だった。私は今でもそれを求めている自分を、否定することはできなかった。今や恋人や異性に、それほど純粋な思いを抱くことは不可能だった。そのためには、あまりにも私は多くのことを知りすぎていた。将来、生活、現実…様々な思想や立ちふさがる障壁が、それらの純粋さを汚した。無論、私自身の醜い性欲も、それを汚した。…

 いつもより濃く、苦い珈琲を淹れよう。そう思った。脳裏ではまだ少女が前を走っていた。柔らかな感情は、夢の名残のように優しく心の中で香っていた。少女の振り返った得意げな、悪戯心に満ちた笑顔は、今でもありありと眼前に浮かんでは消えた。私はこの幻想を手放したくなかった。しかし、それもあと数十分、いや、数分で消え失せるだろうことも、私は知っていた。私の意識は少女の居る無意識層に近い微睡のそれから覚醒しつつあった。次第に、少女もあの優しい感覚も、手の届かぬ無意識の深淵に呑まれ、消えていくだろう。

 三本目の煙草を揉み消し、もう一度朝の空気を吸い込んだ。その清らかさは夢の少女にどこか似ていた。幻想と無垢な笑顔の名残をひきながら、私は私を現実へと引き戻す苦い珈琲を支度するため、玄関へと帰った。

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夢の跡 鹽夜亮 @yuu1201

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