第20話 エピローグ




  

 あれから10年の歳月が過ぎた。


 タウン誌を定年退職したのは3年前の春。

 最後の役職は副編集長(デスク)だった。


 かつての自分と同じ契約記者の原稿をチェックするとき、朱を入れ過ぎないことを自分に律した。未熟にも未熟なりの思いの丈がある。その芽を摘んでしまうと、きれいな花が咲かない。自分の経験にも照らし、先輩方の教えを忠実に守った。



      *


 

 送別会を開いてもらってから3か月ほどを経た、ある夏の宵――

 なんの前触れもなく、とつぜん、激しい動悸と息切れが始まった。

 クルの最期と同様、だれかが「ポン」と合図でもしたかのように。


 信じがたいことに、生まれてこの方、一度として意識したことがなかった呼吸の仕方を、どうしても思い出すことができなくなっていた。吐いて吸って、吐いて吸って、ゼ―、ゼ―、ゼ―。刻一刻、魔界へ引きずりこまれていくような恐怖。


 ハンドルにしがみつくようにして車を運転し、夜間の緊急病院へ駆け込んだ。

 問診のあと、ただちに血圧、心電図、肺のレントゲン、血液検査が開始された。

 結果を待つあいだにも点滴が施されたが、呼吸発作は少しもおさまらなかった。


 長い、長い時間が過ぎ、クリーム色の間仕切りカーテンが開けられた。

 青白い顔をのぞかせた研修医らしい若い医師は、冷静な口調で告げた。


「各種検査の結果、どこにも異常は見当たりませんでした」

「でも先生、こうしているいまも呼吸が苦しいんですけど」


「そう言われましても、ねえ。……きっと気のせいですよ」

 疲労の色を滲ませた若い医師は、あきらかに迷惑そうだ。


「ひとりでいるのは怖いんです。せめて今夜は入院させていただけませんか?」

「この程度では無理なんですよ。当院のベッド数にも限りがありますからねえ」


 しぶしぶ帰宅し、処方された抗不安薬を飲んでも症状は少しも改善しなかった。

 立っていても、座っていても、部屋のなかをぐるぐる歩きまわっていてもだめ。


 疲れ果てベッドに入っても、うとうとしかけるたびに、鼻と口を濡れたタオルで押さえられたような息苦しさにおそわれ、掛け布団を蹴り、がばっと飛び起きた。


 朝も昼も状況に変わりはなかったが、とりわけ夜間の恐怖は耐えがたかった。

 翌日もその翌日も、さらにその翌日も、夜の緊急病院を頼った(落ち着いてから計算して知ったことだが、このときの医療費だけで10万円近くかかっていた)。


 引き継ぎのカルテに、


 ――困った患者。


 とでも書いてあるかのように、そのつど変わる若い当直の医師に、


 ――検査に異常が見つからないのですから、あなたの気のせいですよ。


 同じことを言われ、突き放されて帰宅した。

 そうこうするうちに長いお盆休みに入った。


 煉獄の1週間を堪え、休み明けを待って、ネットで調べた心療内科へ行った。


 たくさんの患者が待っていたが、慌ただしい緊急病院の場合とちがい、院長先生はこちらの言うことをいっさいさえぎらず、30分余りも話を聞いてくださった。


 指示どおり、帰宅してすぐに処方薬を飲むと、うそのように発作がおさまった。



      *



 すこやかで穏やかな犬生の最後の最後に、信じきっていた飼い主の浅慮のせいで無用な苦痛を味わわされることになったクルは、姉むすめの一家から贈られた純白の透かし百合と妹むすめの一家から贈られた五色のミニ紫陽花の下で眠っている。


夏は葉かげが涼しく、冬はあたたかな日が降りそそぐ、玄関わきの花壇の片隅に。


 同時に、犬はどこへ行くにも一緒だ。


 カサコソと乾いた音を立てる真っ白い骨の、小豆粒ほどの一片を忍ばせたのは、犬の永遠の不在に耐えられなかったとき、ネット検索で見つけた愛犬ペンダント。


 ――これからはいつでも一緒だよ。


 バッグの奥におさめた骨に話しかけると、ほんの少しだけ気持ちが安らいだ。


 悲しみが遠ざかったいまでは、楽しかった思い出ばかりが胸に宿っているが、


 ――クルや。


 ふと呼びかけてみる癖は、いまだに抜けきれていない。      【完】       

 

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クルや――愛犬にまつわる20の話 🐶 上月くるを @kurutan

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