第19話 さいごの3日はずっとかあさんと一緒でした。
歳月は春の淡雪のように、降っては消えてゆく。
いま天から降りてきた雪は、大地に着いたとたんに消え、あとかたも残さない。
まるで雪など降らなかったかのように。
犬は、ずいぶんと年老いた。
全身艶やかに真っ黒だった被毛に白いものが見え始めたのはかなり以前のこと。
いまではロマンスグレー(?)になり、口の周囲の髭にはとくに白髪が目立つ。
すうっとシャープに切れ上がり、通りかかった女子高生や若い女性から、
「うわあ、かっこいい!」
口々に称賛されたお腹から脚にかけても、見るからに精彩がなくなった。
でも、本人(犬)にはその自覚がない。
いままで容易に跳んでいた溝に転げ落ち、目を伏せて面目なさげに這い上がって来るすがたは、同じく老いていく一方のわが身にひどくつまされるものがあった。
――おじいちゃん。
呼んでみると、きょとんとしている。
その澄んだまなざしのピュアなこと!
生後間もなく母犬から引き離され、
――ピュー、ピュー、ピュー。
ひと晩じゅう風のように鳴いて、新しい家族を困らせた。
あたためた牛乳を浸したガーゼを、小さな口でチューチュー吸っていた。
蕾のような肛門を、そっと指で刺激してやらないと排泄ができなかった。
「いい匂い。クルは玉子やきの匂いだね」
姉むすめと妹むすめが、黒光りする背中に顔を埋めていた。
すべてが真実なのに、その真実はいつか忘れられて行く。
なにごとも変容をとげ、留まるものはひとつもないのだ。
――おまえの生きた証しは、かあさんの胸にしまっておくからね。
玄関先の犬つぐらに丸まり、安心しきった寝息を立てている犬を見守りながら、とりとめもない思いをめぐらせる時間が過ぎて行く。
*
決定的な老いは、まずうしろ脚から来た。
散歩の速度が目に見えて遅くなり、後半は脚を引きずるようになって来た。
家にたどり着くと、玄関に入る気力もなく、小屋の前に横たわってしまう。
立とうとしても腰が定まらず、すとんと尻もちをついてしまう。
「夕方になると、かあさんの帰りを首を長くして待っているよ」
みなさんから言われるとおり、車から降りるのも待ちきれず、鎖をピンと張ってうるさいほど吠え立てていたのに、いまは小屋から出て来ようともしなくなった。
「どうしたの? おいで」
手招きすると、億劫そうに出て来るが、うしろ脚が小刻みにふるえている。
この様子では昼間も寝ているのだろうか。
そう考えたとき、にわかに心配になった。
――もしや、鳥におそわれるのでは?!
家の周囲には、鵙や烏、雀、その他名を知らない鳥が多数飛び交っている。
その鋭いくちばしで、やわらかい部分や弱い部分をつつかれたら堪らない。
幼いころ生家で飼っていた鶏は、新参者があると、集団でいじめにかかった。
目や尻などやわらかい部分を狙い、みんなでつついてつついてつつきまわす。
病んだり老いたりした仲間にもすさまじく冷酷だった。
さっそく知り合いの大工さんに連絡すると、
「へえぇ? 犬のために鳥よけネットを張るんかい。そんなこと聞いたこともねえが、そんねに頼まれれば、職人としてことわるわけにもいかねえじゃんかい」
むかし、成長した犬を昼間は外へ出しておくことにしたとき、雨しのぎに造ってもらった車庫用の屋根の下に、なんとも立派な緑色のネットが3方に張られた。
出入り口は開いているが、鳥にも危険予知の知恵はあろうから、わざわざ羽がひっかかるような危ない真似はしないだろうと、希望的観測に賭けることにした。
一方で、いじめっ子対策も講じた。
ご近所の話では、下校の小学生が石を投げたり、棒でつついたりするという。
ある日、半休をもらって、家の中で待機していた。
おもてが騒がしくなったので、窓からのぞいて見ると、小学校低学年だろうか、ランドセルを背負い、手に棒を持った数人の男の子が庭に踏み入って来ている。
ガラッと窓を開け、精いっぱい居丈高に叫んだ。「ちょっとぼくたち、うちの犬をいじめたら承知しないよ。おばちゃんちの屋根には隠しカメラがついているんだからね。今度わるいことをしたら、証拠のフィルムを持って校長先生に言いつけに行くよ。いいね、わかったね!」ハッタリが大人げないとは少しも思わなかった。
*
そして、ついにその日がやって来た。
仕事から帰宅すると、犬の様子がおかしい。
――ゼ―、ゼ―、ゼ―、ゼ―。
小屋の前に横たわり、赤い舌をはみ出させ、大きく肩を上下させている。
「クルーッ! クルッ、どうしたの?!」
急いで毛布に包んで車に乗せ、近所のかかりつけの獣医師のもとに運んだ。
その間にも激しい呼吸発作はつづき、診察台に乗せるとはじめて失禁した。
腹部を触診した獣医師が言った。
「丸いボールのようなものが当たります。レントゲンを撮ってみますか?」
いじめっ子が持ち込んだと思われる野球のボールが即座に脳裡をよぎった。
あのとき取り上げておけばよかったのに、なぜそうしなかったのか。
またしても自分の怠慢が悔やまれた。
レントゲンの結果はすぐに判明した。
「ここに白い影があります。おそらくこれが気管に詰まったのでしょう」
息を呑んだ。
「どうしますか、手術しますか?」
「お願いします! 一刻も早く!」
電話で助手を頼んだ仲間の獣医師の到着を待って手術が始まった。
麻酔を打たれた犬の喘ぎは治まり、こんこんと静かに眠っている。
1時間ほどして、待合室のドアが内側から開いた。
――無事に手術が終わったのだ!
喜びもつかの間、保健所を定年退職した獣医師は信じがたいことを告げた。
「申し訳ありません。開腹してみましたが、なにも見つかりませんでした」
一瞬、聞き間違いかと思った。
――そんな! 丸い影はなんだったの?
――無駄な手術を受けさせたということ?
――なら、呼吸発作の原因はなんだったの?
問い詰めたいことはいくつもあった。
けれども、恐ろしくて訊けなかった。
――クル、ごめんね、ごめんね。
あやまってもあやまってもあやまりきれない。
獣医師に連れて来られた犬は、毒々しいピンクの筒状の包帯を巻かれていた。
どっと涙があふれ出た。
*
編集長に連絡すると、すぐに了解してくれた。
「ちょうど締め切りも一段落したところだから、しばらく休んで看病してあげて」
なるべく傷口が痛まないように、リビングに毛布を重ね敷きして犬を寝かせた。
その横に布団を敷いて添い寝する。
なぜか激しい呼吸発作はおさまっていたが、ほんの一瞬でも目を離せない。
ずっと一緒にいてもらえるうれしさに、犬は赤子のような目を向けて来る。
――わたしは全幅の信頼を裏ぎってしまったのに、おまえは……。
少し快くなったのか、犬はヨロヨロと立ち上がり、長い尻尾をかすかに振った。
昼も夜もふたりだけの静謐な、これ以上はないほど濃密な時間が過ぎて行った。
3日目の午後3時過ぎ、とつぜん犬の容体が急変した。
だれかが合図でもしたかのように、唐突に激しい呼吸発作が再発した。
舌を出し、白目をむいて横たわり、身体中を小刻みに痙攣させている。
無用な手術をした近所の獣医師には、二度と、もう二度と診せる気はなかった。
市街地の動物病院に連絡して簡単に事情を話し、悶絶する犬を毛布でくるんだ。
右手でハンドル、左手で助手席の犬を撫でながら、川沿いの道を走って行く。
途中から、ぽつんぽつんと降り出した雨は、あっという間に本降りになった。
前を走る車のテールランプが赤く滲んでいる。
犬の呼吸発作はしだいに小さくなっていた。
――もう少し、もう少しで着くからね。がんばって、クル!
道なりにカーブになったテールランプの長い列。
降雨と信号待ちによる長い渋滞が恨めしかった。
そのとき、
――ケーン!
いままで聞いたことがない声で、ひと声犬が鳴いた。
はっとして見ると、犬の首はがっくりと垂れていた。
――クルーッ! クルーッ!
苦悶に緊張しきっていた犬の全身に、ゆっくりと弛緩が広がって行く。
雨はひとしきり激しくなり、目の前のワイパーをフル稼働させていた。
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