第18話 迷子になったぼく、警察署に出向きました。



 

 

 その日はバレンタインデーだった。

 毎年、この日はなぜか気温が急降下する。

 夜は零下10度前後まで下がるのが例年の習わしだった。


 帰宅して車をバッグで駐車させるとき、早くも胸騒ぎがした。

「奥さんが帰って来るとすぐわかるよ。鳴き方がちがうからね、クルちゃんの」

 近所のみなさんが言われるとおり、うれしさのあまり、ほとんど悲鳴と言いたいほどの大絶叫を繰り広げるのだが、その日に限って、ワンともスンとも言わない。


 ドキドキしながら車を降りてみると、そこにあるべき犬の影もかたちも見えず、寒々とした薄暗闇に、年季の入った犬小屋の赤い屋根が霞んでいるばかりだった。


 目を凝らしてみた。

 鎖が、切れている!


 ――どうしよう! クルーッ!


 慌てて犬の名を呼んだが、しんとして答えるものなし。


 ――動いて! お願い。せめて尻尾の先なりとも……。


 必死の願いも虚しく、冷えこむ暮色が深まるばかり。

 いやでも思い出されるのは、先述の新雪事件だった。


 ――しまった、あの子には帰巣本能がなかった!


 もう何年も使い古したうえ、このところの極寒つづきでさらに劣化が進んでいたであろう鎖の点検を、うっかり忘れていた自分の怠慢がはげしく悔やまれた。


 真っ暗な家に入り、ふるえる手で保健所に電話すると「わかりました、迷子犬として登録しておきます。念のために、警察署と市役所、それから地元の新聞社にも連絡しておいたほうがいいと思いますが、この時間ではいずれも宿直しかいないでしょうから、明日の朝でいいですよ」前回とほとんど同じ示唆をいただいた。


 拝むようにして受話器を置き、懐中電灯を持って近所を探しに出かける。


 ――クルーッ、クルーッ! クルやあ!


 闇にライトを当て、大声で呼んで歩いたが、まったく反応なし。

 真っ黒な身体ごと、刷毛で塗りこめられてしまったかのようだ。

 膝頭がガクガクふるえる。


 ――このまま見つからなかったら、クル、凍え死んでしまう。


 前回の騒動のときの妹むすめの言葉がよみがえる。

 人間なら80歳はとうに超えていようという老犬。

 この寒さでは、ひと晩どころか数時間だって……。


  ――どうする? どう責任をとるつもり?


 ルーズな自分を責めながら、藁にも縋る思いで犬仲間の家のチャイムを押した。


「こんな時間にすみません。うちのクル、見かけませんでした?」玄関へ出て来られた奥さんに、祈るようにして訊ねると、「え、いないの? さっき、うちの犬の散歩で通りかかったときは、いつもどおりおとなしく小屋に入っていましたよ」


 ならば、まだそう遠くへは行っていまい。

 一縷の望みを頼りに、ふたたび住宅街へ走り出した。


 懐中電灯をかざして犬の名を呼んでいると、「おーい、大丈夫ですか~?」うしろから男声が追って来た。心配して駆けつけてくださった犬仲間のご主人だった。ご好意に甘んじ、二手に分かれて探したが、犬は気配さえ匂わせてくれない。


 ――もう近くにはいないのでは?


 車に掠られ、自転車につきとばされ、罵声を浴びせられ、力なく尻尾を垂らし、とぼとぼ極寒の夜道を彷徨っているすがたを思うと、居ても立ってもいられない。


 ご主人にお礼を言って、車で探しに行こう。

 そうそう、奥さんにも感謝を伝えなきゃ。


 

 犬仲間のお宅の玄関先で話しているとき、


 ――あっ!


 奥さんがこちらの腰のあたりを指さした。


 振動に気づかなかったが、黒いダウンコートのポケットで緑色が点滅している。携帯電話の着信は「保健所では明朝でいいと言っていたが、やはり早いほうがいいだろう」今度もまたそう思い直して電話をかけたばかりの警察署を示していた。


「お探しの黒い犬が、たったいま、当署の玄関から入って来ました」


 ――ええっ! ほんとですか?!


 そんな偶然が起ころうはずがない。

 半信半疑がそのまま言葉になった。


「いやあ、驚きましたよ。善良なる市民、あ、奥さんのことですがね、その市民から受けた通報をですね、『なになに、体長50センチ体重15キロの黒い中型犬。脚がすらりと長くて、コワモテの顔のわりに人懐こい……』そう書き取っておったらですね、同僚が『おいおい、それによく似た犬が自動ドアから入って来たよ』と言うじゃありませんか。『まさか?!』とふり返ったら、いまメモしたばかりの犬がトコトコとロビーを歩いているでしょう? もうびっくりしたのなんのって! まさに狐につままれたような気持ちでしたよ。こんなことってあるんですなあ」


 担当の警察官は、感に堪えない口調で説明してくれた。

 

  

 前回は妹むすめと一緒だったが、今回はひとりで、家から4キロ(これも前回とほぼ一致)ほど南方(前回は東方)に当たる警察署に駆けつけると、全身に泥のシャワーを浴びたような犬が、だるまストーブの囲いの中で丸くなっていた。


 雪道の長旅に消耗しきって意識が飛んでいた前回と異なり、今回は、自分のお腹に埋めていた顔を少しもちあげた犬は、ほんのわずかながら尻尾を振ってくれた。


 ――ごめん、かあさん、ぼく、またやっちまった。

 ――もう、おまえときたら、懲りないんだからぁ。


 目と目で対話しながら、窓口の警察官に心からのお礼を申し上げる。

 入り口横の大部屋のストーブのまわりで暖を取っていた刑事さんたち(あるいは生活安全課か?)が10人ほど、ぞろぞろとロビーに出て来て、口々によかった、よかったと言ってくださる。


「とんだご迷惑をおかけしました」全員に頭を下げながら「それにしても、家からここまでに明るい建物はいくらでもあったでしょうに、よりにもよって御署を選ぶとは……。この子、自ら出頭して来たんでしょうか?」うれしさのあまりつい軽口をたたくと、「いやいや、奥さん、そんなことを言ったらかわいそうですよ。この犬はなにもわるいことをしたわけじゃないんだから、出頭じゃなくて、自ら保護を求めてきたんですよ」チーフ格の警察官が、なんとも粋な返事を返してくれた。

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