第17話 かあさんの創作童話『水のぼうやとくろい犬』。




 

 このころ、タウン誌の編集会議で、公募創作童話の連載開始が決定した。

 社内外を問わないというので、書きためておいた掌編『水のぼうやとくろい犬』を応募してみると採用され、地元の画家がかわいらしい挿画まで描いてくれた。

 

 

     ⁂


 

 春まだ浅い朝。

 池のほとりに咲いたスミレの花の上で、水のぼうやが目をさましました。


「ふぁーい、よくねむったなあ」


 大きなのびをしながら、めずらしそうにあたりを見まわしています。

 丘の上にも池のまわりにも、あちこちにまだら雪がのこっています。


 山のほうから吹いてくる風もひんやり冷たいので、水のぼうやが、ぶるんと身体をふるわせると、ぱっと、水しぶきが散りました。


 でも、空からお日さまがじんわりした光を降りそそいでくれていますし、ツクシがつんつん茶色い頭をのぞかせ、タンポポもあざやかな黄の花を咲かせています。


 ――やあ、眠っているあいだに、外はすっかり春になっていたのかしら。


 水のぼうやは、もう一度両手をあげて大きなのびをすると、


 ――えいっ!


 とばかりに飛び降りました。


 地面に降りたってみると、ぬれた大地がむせかえるような香りに満ちています。

 水のぼうやはすっかりうれしくなって、ころころころころ、転がり出しました。


 土の中から顔を出したミミズやモグラが、


 ――あらあら、おやおや。


 呆れています。


 でも、水のぼうやは気にもとめず、ころんころんどこまでも転がっていきます。


 雨あがりの水たまりで、ミズスマシと遊んでいたと思うと、草むらから顔を出したカエルの背中に飛びのってみたり、ミツバチの羽を黄金色に光らせたと思うと、ツバメのかあさんの足にぶらさがって、大空を高く低く、自由に飛んでみたり。


 公園のすべり台を、つううっときもちよくすべりおりたかと思うと、思いっきりブランコをゆらせてみたり、あるいは砂場のバケツの下にもぐりこんでみたり。


 ついさっき、屋根の上でスズメの赤ちゃんとかくれんぼをしていたかと思うと、学校帰りの小学生の黄色い傘の上に、ぴょんといきおいよく飛びおりてみたり。


 ビルの屋上から商店街を見下ろしていたかと思うと、森の中の病院の窓辺で、ベッドに横たわる少女の黒いひとみを、じっと見つめていたり。


 山の渓流や街中をぬう小川のせせらぎを、すうっと流されていったかと思うと、大きな川を、どどうっと下って、一気に日本海まで泳ぎ出てみたり。


 水のぼうやは、すこしもじっとしていません。


 春はまた、花ばなだってすてきなのです。


 ピンクのじゅうたんを敷きつめたような蓮華田。

 黄色い絵の具をぶちまけたような菜の花畑。

 桃色の花がすみがどこまでも広がる杏畑。

 つんとおすまししているラッパ水仙。

 おちゃっぴいなチューリップたち。


 なかでも水のぼうやが好きなのは、よく晴れた5月の午後、ムラサキツユクサの葉っぱの上にころんと丸くなり、星の色をした花を飽かずにながめることでした。



 植物だけではありません。


 水のぼうやは、チョウチョやクモや虫たちとも大の仲よし。

 細い触覚やイボイボの足先にぶら下がり、小さな命の歌を一緒にうたうのです。

 

 

     ⁂

 


 夏。

 水のぼうやにとって、1年中でいちばん楽しい季節がやって来ました。


 サルビアが真っ赤なドレスでタンゴを踊り、一途なヒマワリが日がな1日太陽を追いかけ、橙色のノウゼンカズラが情熱的な花びらを垣根からこぼしています。


 鎮守の森ではセミが鳴き、渓流では魚がはね、小川には藻が生い茂っています。

 湖はしずまりかえり、泉はこんこんと湧き、滝はどどうっと流れおちています。


 水のぼうやは愉快でなりません。

 無我夢中で飛びまわっています。


 でも、うっかりすると、ギラギラの太陽にあっという間にやかれてしまいます。


 ――ひゃあ、たすけて!


 水蒸気になって天にのぼった仲間を、水のぼうやはたくさん知っているのです。


 いったん気化して空にのぼってしまうと、雨や雪になってふたたび地上に降りるまで、稲妻や雷といっしょに、しんぼう強く順番を待っていなければなりません。


 太陽のほかにも、気をつけなければいけないことは、たくさんあるのです。

 水のぼうやはいつも用心しながら、動物や植物たちと遊んでいるのでした。

 

 ところが、あるとき、大変なことが起こりました。


 木かげで休んでいて、うとうとしてしまったのでしょう。

 気づくと、水のぼうやは牛の飼い葉桶のなかにいました。


 生ぐさくて荒々しい牛の鼻息が、まぢかに迫っています。

 水のぼうやは大急ぎで逃げ出そうとしました。

 なぜって、牛の口に入ってしまったら、もう二度と外へは出られないからです。


 けれど、もうちょっとというところで足がすべり、飼い葉桶にまっさかさま。

 おそるおそる目を開けてみますと、粘っこいよだれだらけの大きな口が目の前に迫ってきていて、長くて赤い舌が、ちろちろと、あやしげに動きまわっています。


 あわや、水のぼうやは草といっしょに、牛の口にのみこまれてしまいそうです。


 ――もう、だめだ!


 目をつぶったそのとき、


 ――ワン、ワン、ワンッ!


 けたたましく吠えたてながら、1匹の黒い犬が駆けよってきました。

 犬はするどい牙をむき、ひっきりなしに吠え立てながら、牛を追い始めました。


 牛たちは、さも不満げにブイブイと鼻を鳴らしていましたが、


 ――ボスの命令にはさからえません。


 とばかりに、飼い葉桶からはなれていきました。

 そのとき、桶の中からなにかが飛び立ちました。


 ぽんぽんにふくらんだおなかに、黄色と黒の横じまをはわせたクマンバチです。

 クマンバチは、広い牛舎のなかを、上に下に斜めに横に、めちゃめちゃに飛びまわっておいてから、まぶしい光が射しこむ戸口へ向かって、


 ――ブブーン。


 と飛び出ていきました。


「ああ、こわかった。黒犬さん、ありがとう!」

 草の中から顔を出した水のぼうやは、まだ吠えている犬にお礼を言いました。


 身体じゅうどこもかしこも真っ黒なので、どこが目やら口やら鼻やら、ちっともわからない犬でしたが、照れくさそうに上目づかいになった拍子に、ちらりと白目が見えたので、水のぼうやは慌ててそちらに向かってぴょこんと頭をさげました。


 けれども、黒犬は、


 ――べつに。


 というように、そっけなく黒いあごをしゃくってみせただけで、ふんふんと地面をかぎまわると、すたすたとどこかへ行ってしまいました。


 

     ⁂


 

 秋になりました。


 コスモス、キキョウ、リンドウ、ハギ、ワレモコウ。

 さびしげな色の花ばかりが、ひっそりと咲いています。


 青い青い空に、真っ白なうろこ雲がひろがっています。

 トウガラシみたいに尻尾を赤く染めたトンボが、群れになって飛んでいます。


 ムラサキシキブの紫の実が、薄い秋の日に丸い粒をつやつやと光らせています。


 ススキの尾花が銀の穂を波うたせ、山の紅葉が里におりてきて、熟れた柿の実をカラスがつつき、晩菊が咲いたまま枯れると、秋がしんしん深まっていくのです。


 水のぼうやは道ばたの石にすわり、変わりゆく景色をふしぎそうに見ています。

  

 池のまわりの木立ちがすっかり葉を落とすと、木枯しが吹きはじめました。


 そして、はじめての雪が降って何日かしたある朝、


 ――おや?


 水のぼうやは首をかしげました。


 ――なんだか、からだがガシガシするぞ。


 気のせいか、あんなに透きとおっていた肌も、白くかたまってきたみたいです。

 水のぼうやは、あわてて身体を動かそうとしました。


 でも、ぴくりとも動きません。

 それどころか、刻一刻、かたさが増していくようです。


 なんだか急に眠くなってきました。


 ――いったい、どうしたんだろう。


 水のぼうやは自分の身体をたしかめようと、腕をのばしたり、足をけったり、頬をつねったりしようと思ったのですが、じっさいはなにもできませんでした。


 ――こんな ときに 眠くなって しまう なんて……。


 はっきりしない声でつぶやきながら、水のぼうやはまぶたを閉じました。


 

 それからしばらくして、池のあたりを1匹の黒い犬が通りかかりました。


 いつか暑い夏の日に、水のぼうやを助けてくれた、あの牧場の犬でした。

 犬は池の淵をのぞきこみ、寒そうにぶるんと黒い身体をふるわせました。


 ――やあ、氷が張ってらあ。もう冬なんだなあ。


 ぽっつりつぶやくと、犬は長い尻尾をたらして、どこかへ行ってしまいました。


 あたりが白一色にぬりこめられる日は、もう間もなくです。

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