第3話 鈴木牧之の場合

 


 

 仲見世通りを一直線に吹き抜ける風にいつの間にか芯がなくなっている。

 浅草寺の五重塔を背景にした桜も、そろそろ咲き初めようかという時節。

 お了は藍木綿の手拭い鉢巻で頭痛を宥めながら、銭勘定に追われていた。

 何年か前、村田屋次郎兵衛が出版し、題名どおりの大当たりをとった、

 ――『的中(あたりやした)地本問屋』

 には、やれ働け、それ稼げ、抜ける手はいくらでも抜いて一刻も早く仕上げろと発破をかける草紙屋の店主と、作業に追われつつ、その様子を皮肉な目で観察する使用人の模様が、流れるような十返舎一九の筆で面白おかしく描写されている。

 同じ出版業でありながら、信濃屋とは別の娑婆がそこにはあった。


 口達者の多い世利人仲間から、

「志の高い信濃屋さんは、あたしらのように低俗な本はお呼びでないでしょう」

 いやみを言われることもあるお了は、

 ――あたしだって一度ぐらい大当たりをとってみたいよ。

 ぽつっと独り言をつぶやくこともある。

 けれども、それは決して本心ではない。

 そのことをよく承知している番頭の茂兵衛も手代の福助もほかの使用人たちも、聞いて聞かないふりをしてくれている。


 ――良心に恥じない、上質な本しか出版しない。

 それは先先代から一貫して貫いてきた信濃屋の魂である。

 その魂を売り渡してまで銭儲けを企みたいとは思わない。

 だが、古書の卸問屋の買掛、新刊の紙屋、機械の修理屋、本づくり職人の手間賃、店の使用人の給金などの手配をしなければならない月末が迫ってくるたびに、若いころからの持病の偏頭痛が堪えがたいほどひどくなるので、つい嘆いてみたくなるのだった。

 いまも別棟の本づくり工房では、そうは売れまいと思われる堅い本を制作中で、今日は、見返し、序文、跋文、袋などの付き物をつくっているはずだった。


 忙し気な物音を聞くともなく聞きながら、お了は痛む頭で思いを巡らせてみる。

 ――千年は残る。

 といわれる和本の紙質を保つためには、紙屋との値引き交渉などもってのほか、これは高い、売値に合わないと思っても、紙屋の勧める用紙を使わざるを得ない。

 米や木材と並んで莫大な取引量を誇る紙屋の鼻息はきわめて荒い。

 ひとたび機嫌を損ねると、取引中止など面倒な事態も引き起こしかねないから、こちらが客でありながら、紙屋にはことのほか気を遣わねばならなかった。

 紙代のほかに、宣伝費、販売費、世利会へ差し出す諸費用などの雑費もかかる。

 あれこれ諸経費を計算すれば、算盤を弾くのが恐ろしくなるほどの金額になる。


 かたや、売り出す本の値段には自ずから上限があり、かかった費用に見合うだけの売値をつけられるわけではない。

 徹底的に原価を叩き、たちまちボロボロになる粗悪な紙を遣い、最低でも千部、当たりが見こめそうな場合は一気に一万部も刷って大儲けを狙う草紙屋とちがい、信濃屋のような書物屋で出版するいわゆる物之本は、初版は数百部がいいところ。原価分岐点すれすれ、あるいは、それすらもおぼつかない場合が少なくない。

 ましてや、そこからが儲けになる増刷の機会などめったにないから、新刊だけで店を経営していくことは至難の技となり、それを補うために古書も扱っている。

 それが実態だった。


 参考までに記せば、当節の書物の最高価格は輸入唐本で、和本の三倍が常識。

 その和本はといえば、高いものは『今様職人尽歌合』が二冊組で銀五匁(一万六千円、大工の日当分)、俳諧書の類いは一匁三厘(四千円)が相場だった。

 ちなみに、貸本屋では売価の六分の一を貸し賃にするのが一般的である。

 そんな状況下にあっても、

 ――江戸の文化の一端は、ほかならぬこの信濃屋が担わせてもらうのさ。

 お了はたしかな信念をもち、採算分岐点ギリギリの商売をつづけている。



 

 見覚えのある顔が店へ入って来た。

 仕立てのよさそうな上物の着物と控え目な物腰に品格が漂う、小柄な中年男。

「あらまあ、これはまた、牧之(ぼくし)ちゃんじゃないの! 久しぶりだねえ。さあ、上がって上がって」

 一瞬、お了は偏頭痛も忘れ、驚きの声をあげた。

「ご無沙汰しております。お内儀さん、お変わりもなくてなによりでございます」

 中年男は礼儀正しく腰を折った。

 勧められるまま店に上がると、ずしりと重そうな包みを差し出す。

「あたしにこれを? まあ、なにかしら」

「お気に召すかどうかわかりませんが、越後縮(えちごちぢみ)でございます」


 お了は男に断ってから、棒状の包みを広げてみた。

「あら、すてき! あたしの好みがよくわかったわね」

「恐れ入ります。代々の商売柄でしょうか、お召しになっているものを観察させていただくのが、わたしの生まれついての癖のようなものでして」

 藍を基調にした小紋柄の渋い反物を、お了はさっそく肩に当ててみる。

「思ったとおり、よくお似合いでいらっしゃいます。お内儀さんは肌の色がことのほか白くていらっしゃるから、藍はきっとお似合いになると思っておりました」

 説明する口調はあくまで生真面目である。


 ひとまわり年下の朴訥な越後男を、お了は少し揶揄ってやりたくなった。

「やだ、牧之ちゃんたら、この歳になって、いまさら惚れられても困るんだけど」

 どこかで聞いたような台詞だが、まあ、それはそうとして。

 果たして牧之は、浅黒い頬から耳、首筋までを朱に染めた。

「決してそんなつもりでは……。あ、いや、そ、そういう意味でもございません」

 うろうろと狼狽え、肉の薄い膝頭をいっそう縮めている。

「やだ、牧之ちゃんたら、そんなこを真に受けて。冗談だよ、冗談」

 お了は白い手の平をひらひらさせると、奥に向かって声をかけた。


 お盆を持って現われた女中頭のお民は、牧之を見ると、丸顔をにっと広げた。

「気持ちばかりですが、国のものを」

 牧之はおずおずと、和装小物でも入っていそうな包みを差し出した。

「まあ、あたしにまで? ご丁寧なこと」

 愛想よく答えたお民は、柄にもなく科(しな)までつくってみせている。

 最初から最後までつっけんどんだった北斎のときとは、えらい違いだが、

 ――これも人情というものだろう。

 お了は目の前で繰り広げられる寸劇を面白く眺めていた。



 

 鈴木牧之は明和七年(一七七〇)一月二十七日、越後国魚沼郡(こおり)塩沢村に生まれた。

 父は恒右衛門、母はとよ。

 幼名は弥太郎といい、生来、病弱な性質だった。

 塩沢は江戸と寺泊を結ぶ三国街道の宿場のひとつだが、とりわけ越後縮の集散地として知られ、二百戸のうちの半数は、越後縮に関連する商工業に従事していた。


 恒右衛門は鈴木家の次男だったので、近郷のとよと結婚すると、いったんは新宅に分家したが、兄の与右衛門が不運つづきで、本家の家業「鈴木屋」が傾いてきたので、親戚一同で話し合いのうえ、兄弟の立場を交換して本家を継いだ。

 商才に恵まれていた恒右衛門は、越後縮の原料となる最上苧(もがみお 麻の繊維)や縮、大豆、米などの商品を手広くあつかう仲買商として、父祖伝来の鈴木屋をみごとに復興させた。

 さらに、儲けの大きい質屋にも手を広げ、塩沢村きっての豪商への道をまっすぐに突き進んでいたまさにそのとき、待望の長男として牧之が誕生したのである。


 この地域に生まれた女性の定めとして、幼いころから機織を仕込まれたとよは、手先の器用さ、優れた色彩感覚から、縮織の名人として近隣に名を馳せていた。

 近所でも評判の鴛鴦(おしどり)夫婦はそろって実直な働き者でもあったので、長男の牧之の成長に伴い、鈴木屋の商いはますます隆盛を極めていった。

 その一方、風流人の素質もある恒右衛門は俳諧に親しみ、のちには周月庵牧水を名乗って、地元の俳諧宗匠としても認められるようになってゆく。

 

 ちなみに、越後縮は宝暦から天明の時代に隆盛期を迎えた。

 とりわけ天明年間に、

 ――白縮、白絣、白地上布、白縞、紺縞、納戸縞、紅絣。

 など、色や柄の飛躍的な多様化を見た。

 冬、雪国の特典を製造に活かした、

 ――雪晒し。

 によって緯糸(よこいと)の撚りを強くさせたうえ、湯もみ、足踏みなどの工程を経て、きわめて細かい皺を定着させた布を、きゅっと小気味よく縮ませてやる。

 そうすると着物に仕立てたとき、着る人の素肌と布の間にわずかな隙間ができ、さらりとした感触が楽しめるので、蒸し暑い夏が長い江戸で絶大な人気を博した。


 病弱なこともあり、鈴木屋の跡取りとして大切に育てられた牧之は、質屋の稼業はともかく、もともとの家業の芯になっている越後縮には強い誇りを抱いていた。



 

 天明三年(一七八三)、江戸の絵師、狩野梅笑が塩沢村に隣接する六日町の庄屋宅に滞留したので、十三歳の弥太郎は、自ら望んで絵の手ほどきを受けに通った。

 だが、凝り性が嵩じて夢中になるあまり高熱を出し、

「絵ごときで身体を壊してどうするんだ。おまえは鈴木屋の跡取りなんだぞ」

「ほんとうに。おまえに万一のことがあったら、泣いても泣ききれないよ」

 父親からも母親からも懇々と説諭され、以後の六日町通いを禁じられた。

 

 この年、未曾有の冷害が東日本を襲った。

 追い打ちをかけるように岩木山、さらには浅間山も噴火して大量の灰を降らせたので、二重三重の自然災害が、向こう六年間にわたる大飢饉(天明の飢饉)の牽引となってゆく。

 傑出した恒右衛門の商才と、それを補佐するとみの働きで豊かな富を築いていた鈴木家では、食べ物に困った人たちへの炊き出しなどの救済活動を進んで行った。

 

 それから二年後の正月。

 飢饉は東日本から西日本にも広がり、被害の大きい東北を中心に全国各地で打ち壊しが続出するなか、十六歳の弥太郎は元服して義三治(ぎそうし)を名乗った。

 同時に、父ゆずりの風流好きから俳諧も学び始める。

 牧之の俳号は、父の俳号の牧水から一字を得たもの。

 四月、義三治ははじめて近郷の堀之内村の縮問屋、宮九(みやく)に泊まり込んで問屋商いの修業を積んだ。といっても、わずか二十日間のことではあったが。


 天明七年、生一本な牧之が自分に似た質を直感的に見つけ、生涯にわたって崇敬を寄せることになる松平定信が老中に就任し、さっそく倹約令を発令した。

 翌年五月、十九歳の牧之は、同年代の朋輩衆と連れ立ち、はじめて江戸へ出た。

 越後縮八十反の行商を名目に、江戸見物を洒落こむのが目的の気楽な旅だった。

 だが、生真面目な牧之は、誘われても芝居見物や茶屋遊びに出かけようとせず、ひとりで宿に残って貸本を読んだり、書家に就いて書を学んだりしていたので、

 ――あいつは爪が長い(吝嗇)。

 遊び好きな朋輩衆から陰口をたたかれた。



 

 天明九年、二十歳を迎えた牧之は正式に「鈴木屋」を継いだ。

 その翌年、生来の耳の病を治したい一心で、猛毒を持つ昆虫、

 ――斑猫(はんみょう)。

 を耳の中に入れたため、七転八倒の苦しみを味わうことになる。

「まさに毒をもって毒を制す、抜群の効き目だそうでございますよ」

 生まれ在所に伝わるという怪しげな民間療法を、持病に悩む若いあるじに耳打ちした女中が、激怒した両親から即刻解雇を申し渡されたことは言うまでもない。


 それから六十日余り。

 耳の奥で暴れまわっていた昆虫の死によって、夜も眠れなかった激痛はようやく治まったものの、生まれついての難聴は、かえって進行を速める結果になった。

 このときの辛く苦い経験は、牧之の人生観に暗い影を落とすことになった。

 ――忍。

 の一字をおのれに課すようになった牧之は、相変わらずの家業第一は言うまでもないが、どこか満たされない心の洞を埋めるようにして俳諧にのめりこんでいく。

 

 寛政四年、二十三歳になった牧之は最初の結婚をする。

 親戚から紹介された相手は、大崎村の中嶋八郎右衛門の娘、みねだった。

 「はて、困ったものよ。こう呑気ではなにもせずに日が暮れちまうわ」

 「てきぱきと気働きができなければ、商家の嫁はつとまりませんよ」

 おぼこ育ちのおっとりとした性格が働き者の両親の気に染まず、翌五年の暮れ、みねは実家で長男の常太郎を産んだまま、婚家にもどることなく離縁となった。

 鈴木家で引き取った子どもは、柏崎から雇われた乳母の手で育てられた。

 

 寛政七年四月、二十六歳の牧之は二度目の結婚をする。

 みねに懲りた両親が選んだ今度の妻は、小千谷の渡辺重兵衛の娘、ほのだった。

 翌夏、ほのは実家に帰って長女のくわを産んだ。

 秋になると、ほのは生まれたばかりの娘を連れてもどって来たが、子連れの嫁にも自分たちと同じ働きを求める両親の気には、またしても染まなかったらしい。

 翌春、ほのは鈴木屋を飛び出し、そのまま離縁となった。

 子どもはまたしても鈴木屋が引き取ることになった。

 

 寛政九年四月、二十七歳の牧之は三度目の結婚をする。

 今度の相手は刈羽郡岡野町の村山庄右衛門の娘、うただった。

 近所では二度あることは三度とうわさしたが、聡明で落ち着いた性格が両親ばかりか親戚一同にも気に入られ、無事、鈴木屋の女将として定着することになった。



 

 やり手として知られる両親の影響もあって、若いうちから波乱に富んだ私生活を送って来た牧之にとって、寛政十年(一七九八)はとくべつな年になった。

 二十八歳を迎える正月、牧之は伊勢参宮と西国巡拝の旅に出かけたが、江戸行きのときと同じく、芝居小屋だ茶屋だと遊び歩く八人の朋輩衆とは行動を別にした。

 塩沢周辺の狭い付き合いでは望めない薫陶を求め、行く先々で名のある俳諧宗匠を訪ね歩くうちに、牧之のなかで芽生えたひとつの思いが大きく育っていった。


 父ゆずりの文芸好きな牧之は、

 ――雪に関する文章と絵図。

 をこつこつ書き溜めていた。


 関西の俳諧の宗匠たちの人となりに刺激を受けるうちに、眠らせてあった原稿の出版を決意した牧之は、旅から帰宅するとさっそく、戯作者の山東京伝に雪中用具の雛形を参考に添え、原稿の一部を送った。

 山東京伝は当代きっての人気戯作者でありながら、北尾政演(まさのぶ)の号を持つ浮世絵師であり、さらに京橋で煙管や煙草入れの店まで経営する多才ぶりで、九年前の江戸で知遇を得て以来、牧之は書簡の往信をつづけていた。

 多忙を極める山東京伝からは、単に預かったというだけの簡単な返事しかもらえなかったが、朴訥な牧之は、念願の出版への記念すべき第一歩として、どう見ても走り書きとしか思えない、素っ気ない文言の一言一句を胸中深くに仕舞い込んだ。


 閑話休題。

 俳諧であれ散文であれ書くことが好きで筆まめな牧之は、隣国の信濃出身で七歳年長、人を介して互いの存在を確認したものの、いまだに会う機会のない小林一茶とも、たびたび書簡の往信を行っている。

 

 享和元年(一八〇一)、三十一歳になった牧之は、父の牧水と共に属する結社の一員として、裸押合い祭りで知られる浦佐村の普光寺毘沙門堂に句寄せを献額し、

 ――涼しさや灯火(ともしび)うとく水の上

 などの句で俳人としての顔見世を行った。

 このころ江戸では、山東京伝や弟子の滝沢馬琴の読本が盛んに刊行されて人気を呼んでいた。十返舎一九『東海道中膝栗毛』の初版は、翌享和二年のことである。



 

 文化三年(一八〇六)。

 三十七歳の牧之は、雪の原稿の上梓に向け、本格的な売り込みを再開した。

 九年前に草稿を送ったきり、相変わらず書簡の往信はあるものの、そのことには触れてこない山東京伝に、何度も推敲を重ねた原稿と挿絵の一部を再送した。

 だいぶ古いことになるが、寛政三年(一七九一)、江戸城中で田沼意次が旗本の佐野政信に刺された事件を素材にした『時代世話二挺鼓(にちょうつづみ)』や『仕懸文庫』など三冊の本が風俗取締令違反に問われ、手鎖五十日の刑に処された山東京伝は、痛い目に懲りて洒落本から手を引き、以降、読本作家に徹していた。


 その京伝から届いた返信を、牧之は手をふるわせながら開いた。

 ――山東京伝著述・北越鈴木牧之校之『北越雪談』と題し、全五冊の絵入り読本として出版するよう、版元の蔦屋重三郎に掛け合ってみましょう。

 一読、割りきれないものを感じはしたが、とにかく色よい返事はもらえた。

 そのことがまずうれしかった。

 著述であれ校之であれ、とにかく何十年も温めてきた原稿が日の目を見るのだ。

 物書きの素人と自認している牧之にとっては、それだけで十二分に満足だった。

 

 だが、追って届けられた書簡は、有頂天の牧之を絶望の底に突き落とす。

 江戸随一の版元の蔦重は、

 ――百両の著者負担。

 を要求してきたという。

 無名の、しかも田舎の書き手の原稿を、条件なしで出版はできない。

 業種は異なるが、同じ商売人であるから、蔦重の危惧は理解できた。

 だが、牧之としては、とうてい自腹をきって出版する気にはなれなかった。

 それは口さがない娑婆がうわさするように、度外れた吝嗇のゆえではない。

 ――自分の原稿を自費出版で終わらせてたまるか。

 どうしてもこれだけは譲れないという強い自負がある。

 銭を出しさえすれば名の知れた版元から出版してやると言わんばかりの文言は、生まれついて金に苦労したことがない牧之にとって、堪えがたい屈辱だった。


 書き継ぐうちに膨大な枚数となった原稿は、牧之の前半生そのものである。

 箪笥に眠らせておくのは忍びない。

 だが、せいぜい周囲に配るだけの、

 ――私家版。

 でお茶を濁されるのは、いくらなんでも悲しすぎはしないか。

 江戸の出版界を巧みに泳ぐ蔦重は、田舎者を軽んじている。

 あれこれ考え込んでいるうちに、持病の難聴も嵩じてきて、

 ――もしや、この話には山東京伝も一枚絡んでいるのでは?

 ふたりで自分を嘲っているのかもしれない。

 底なしの疑心暗鬼に駆られることもあった。

 三度目の女房は明るくおおらかな性格で、商売の連れとしては申し分なかったが、文芸には疎い。かといって、隠居している父母にも相談はできない。

 

 ひとり悶々と日々を重ねた牧之は、山東京伝の弟子で、当時『南総里見八犬伝』が大当たりしていた戯作者の滝沢馬琴に、出版の仲立ちを頼むことを思いつき、さっそく原稿の抜粋を同封して書簡を認めた。

 野心家の馬琴は、向こうから飛びこんで来た、

 ――雪中珍話。

 に少なからぬ興味を抱いたらしい。

 雪などめったに降らない江戸人からすれば、一種の怪奇譚めいて見える本の出版に積極的に関わる意欲を、いったんは見せはしたものの、当時は関係の冷えきっていた師への配慮もあってか、結局はやんわりと断りの返信を送ってきた。



 

 翌文化四年正月、長男の常太郎が元服し、恒右衛門を名乗った。

 三十八歳を迎えた牧之のなかで、出版への情熱はますます高まっていた。

 三月、『東海道名所絵図』で知られる大坂の絵師で『絵本太閤記』の挿絵の誤りの指摘を発端に交流が始まっていた岡田玉山にも、出版の相談をもちかけてみた。

 すると、折り返し、

 ――興味深い原稿を拝受。自分としては書肆秋田屋を版元に考えています。

 すぐにでも事が動き出しそうな色よい返事が届いた。

 牧之は大いに喜んだが、待てど暮らせどそれっきり。

 一日千秋の思いに耐えかねて、遠慮がちな催促の書簡を送ると、打って変わって素っ気ない返信が届き、先方としては社交辞令程度に考えていたことが判明した。


 五月、父の恒右衛門が没した(享年七十一)。

 経営者として俳人としての目標である一方、やり手の母親と一緒になって、なんの罪もないふたりの先妻を追い出し、ひそかに愛していた息子を悲しませた父親。

 大旦那と呼ばれながら、金貸しで利鞘を稼ぐ質屋稼業にも身を入れていた父親。

 そういう父親を心中で疎んじながらも、家長として従わざるを得なかった自分。

 息子の半生を思うがままに支配した男も、身ひとつで死んでゆくのだ。

 愛憎半ばする父の最期を看取りながら、牧之は決意を新たにしていた。

 ――わたしの生きた証しを、なんとしても書物のかたちにして残さねばならぬ。

 生来病弱な牧之の触覚は、身近な命の終焉に敏感な反応を示していた。

  

 この年、未曾有ともいえそうな読本人気に浮かれる江戸の暮らしをよそに、天明の飢饉以来の冷害に見舞われた陸奥や越後の暮らしは窮迫をきわめていた。

 天明の飢饉のときの亡父の行動を見倣った牧之は、自ら率先して食べ物や冬の衣類に困る人たちの救済活動を行い、のちに会津藩小地谷陣屋から表彰されている。

 そのときの心境を、日記がわりの『夜職草』に書き留めた。


 ――世の人、倹約と吝嗇の差別、ひとつに混雑して、雲泥万里の相違を弁えず。それ倹約は平日何事も質素つづまやかにして、飲み食らひなどに驕りを省き、衣服に綺羅をかざらず、おのれを慎み、無益の金銭を遣い棄てず、活業の余力をもって奉加(ほうが 神仏に寄進)様のことはなるたけに附き、さてまた、飢饉などの年柄は生涯のうち稀なることゆえ、右の心得をもって手を緩くいたし、賓客等には物入を厭わず。


 吝嗇と申すは、十分の身上にても、おのれも飲まず食わず人にもくれず施さず、たとえば、奉加様に百銅(もん)出すべき身分にても五十文で済まし、乞食の類にも、握り拳をくれ、たまたまの凶年には米穀の価額も高く売らんと考え、賓客入来にも饗応を粗略にいたし、貯えの金銀は人に倒されんと握り詰め、義理をかき、ことをかいても、おのれ勝手に校計(もくろみ)をすることこそ、これを名づけて、限りなき吝(やぶさ)かなる吝房(しわんぼう)とやいわむ。



 

 背負ってきた風呂敷から牧之が取り出したのは、山東京伝からの書簡だった。

「あら、あたしが見てもいいの?」

「はい。出版の玄人としてのお内儀さんのご意見を、ぜひお伺いしたいんです」

 実直そのものの双眸を、牧之はひたと見据えてくる。

「ご本人に許しを得ないのは、ちょいとばかり気が咎めるけど、ま、いいか」

 お了は少し黄ばんだ書簡を広げてみた。

 

 ――曲亭、柳亭、京山らの作は五千部は当たり前、当たれば七千も売れ申し候。なれど、貴殿の筆になる雪談は、物語ではなく随筆であるからして、たとえいかに妙作であったにしても、千部の上に出ることは、まずないと判断され申し候。

 値が安い合巻は万人に喜ばれるが、読本はそういうわけにいかず。されど、合巻は一年限りのところ、読本は需要があれば毎年増刷し、値段を落としても、増刷の原価は紙と刷りと仕立料だけで済むので、版元の儲けは合巻に倍する仕組みに候。

 

 さすがは文章の達人、達筆な墨が淀みなく流れている。

 だが、内容はといえば。

 素人に気を持たせて、

 ――上げたり下げたり。

 というところか。


 まあ、たしかに、出版という商いの大まかな仕組みは、原稿の執筆を頼まれる、あるいは持ちこむ側である、戯作者の山東京伝の言うとおりではある。

 だが、ここまであからさまな書き方をされるとねえ。

 お了は思う。

 五千部も七千部も売れるという合巻はもちろん、利幅が大きい増刷の読本にもめったに縁がない身としては、いささか白茶けた気持ちに駆られるではないか。


「ふうん。あれだねえ、山東京伝という人は、なかなかのお人らしいねえ」

 微妙な言い回しで所感を述べたお了は、率直な感想を付け加えた。

「けどさ、だからなんだと言うんだろうねえ。牧之ちゃんの本の出版の仲介をするのかしないのか、肝心なことがひとつも書いてないじゃないか、この書簡には」

 牧之はぐっと膝を乗り出してきた。

「ええ、そこなんでございますよ、お内儀さん。こちらとしてはどう受け止めたらよいのやら、まったく見当がつきませんで、ただ当惑する一方でございまして」

 山東京伝さんからの書簡はいつもこんな感じです。

 牧之は少し抗議めいた様子で語尾を濁らせた。


 たしかに。

 喉から手が出るほど自分の本を出版したがっている。

 そんな素人を弄ぶというつもりはないのだろうが、

 ――ああだのこうだの勿体ぶってばかりいず、白か黒かはっきりしなさいよ。

 会ったこともない相手を、お了はぎゅうぎゅう問い詰めてやりたくなる。



10

 

「けどさあ、牧之ちゃんも蔦重にこだわるからいけないんじゃないの?」

 話が湿っぽくなりそうなときは、かえってずばり核心をつく。

 それがお了のやり方だった。

「お申し越しですが、お内儀さん。わたしは別に蔦重さんにこだわっているつもりはございません。最初に山東京伝さんから蔦重さんの名が出たというだけの話で」

 いかにも心外という様子で、牧之は色素の濃い唇を尖らせた。

「やだ、真正面から受け留めちゃって。冗談よ、冗談。げんに牧之ちゃんは、大坂の絵師にも声をかけているんだし、よおくわかっているってば、その辺のことは」

 すると、牧之は急に居住まいを糺した。

「いまごろになってこんなことを言い出すのは、たいそう気が退けるのですけど、あのう……信濃屋さんを差し置いて、相すみません」

 お了は敢えて目を瞠ってみせた。

「それって、もしかして、うちに出版の声をかけなかったことを言ってるの?」

「さようです。なのに、お内儀さんに虫のいい相談に乗っていただいたりして」


 お了は手の平をひらひらさせた。

「いいの、いいの、そんなことは。どこで出版しようと、内容に見合った良い本になればいいんだから。第一、正直なところ、うちには少々荷の重い仕事だもの」

 牧之の顔に不安と当惑が奔った。

「あの、やっぱりあれでしょうか、わたしの原稿は、版元さんにとって儲けの薄い仕事になるんでしょうか」

 とんでもない言い様である。

「やだあんた、そんなこと、本気で訊いてくるわけ?」

 ぽんと苛立ちをぶつけると、牧之はぎょっと怯んだ。

「だって、牧之ちゃん、ふつうに考えてみてよ。言ってはなんだけど、越後の無名の人が書いた本がよ、この江戸で売れると、そう思うほうがおかしくないかい?」


 ――これだから素人は困る。

 お了はかっと頭に血を上らせた。

 儲けが薄いもなにもないものだ。

 わずかでも利益が出れば上々で、たいていは赤字、それも大赤字が珍しくない。

 それが出版の娑婆の現実だった。

 その証拠に、他の業界のようなお大尽を排出など、一度も聞いたことがない。

 江戸随一を誇る蔦重だって、大店の呉服問屋の身上の何十分の一もあるまい。

 この際、どこまでいっても丁半博打の業界の実態をきちんと話しておく。それが人品骨柄は申し分ないが大甘なお坊ちゃん育ちの牧之本人のためでもあるだろう。

 

 ぺしゃんとなっている越後男に、お了は容赦なく指摘してやる。

「牧之ちゃんがこだわっている私家版の件にしたってね、あたしから言わせれば、ずいぶんと分を知らない人だねえと、そういう話になるんだよね、実際のところ」

「相すみませんです」

 牧之はこぢんまりとした置き物になっている。

 お了は自分の気を励まし、懇々と説いていく。

「かの有名な『養生訓』の貝原益軒先生だってね、出だしのころはどこの版元からも相手にされず、身銭をきる私家版ばかりだったんで、これじゃあ益軒じゃなくて損軒だよと自嘲なさったと、そんな逸話が語り継がれているくらいなんだからね」


 素直で生真面目、好人物の牧之をいじめるつもりは毛頭なかった。

 だが、この手の書き手に何度となく苦い思いを味わわされてきた。

 それもまた事実だった。

 言いにくいからといって、口を噤んでいてはいけない。

 最初にきちんと出版の道理を話しておかないと、あとあと、きわめて残念な思いをさせられることを、お了は経験として、いやというほど承知していた。



11

 

「この際だからついでに言っておくけど、私家版じゃない本の書名や売価など重要事項の決定権は、すべて版元にあるんだよ。売上に直結するんだから当然だよね」

「あ、はい」

 越後塩沢きっての豪商のあるじも、お了の前では形なしである。

「商売人のあんたは利に聡いだろうからとくべつに教えてあげるけどね、そこからが儲けになる採算分岐点は、出版の場合、六百五十部が相場と言われているのさ」

 が、卸問屋の「鈴木屋」には当てはまらない。 

 曖昧にうなずく牧之の顔がそう物語っている。


「うちなんか、すれすれか、それ以下ばかりだろう? たまに千部売れたりすれば千部振舞(ぶるまい)といってね、みんなで天神さまに参拝して、帰りには食事をふるまう仕来りになっている。千部の販売がいかに大変なことかわかるだろう?」

 ということは、山東京伝の書簡に書かれていた部数は……。

 目を細めた牧之は、胸のなかで算盤を弾いているらしい。


 お了はかまわず説きつづけた。

「一方、よそから仕入れる本屋の仕切(卸の利幅)は二割と決まっている。出してみなけりゃわからない出版も、基盤というものがまったくない危うさだけど、卸は卸でこれまた儲けが少ない。どっちにしても儲からない仕組みになっているのさ」

 ――さようでございますか。

 とでも言うしかないというように、牧之はうつむいて聞いている。

「その証拠に、景気がよさそうに見えても、蔦重あたりが一番で、あとの書物屋はどこも似たか寄ったかの小商いだろう? あんたの業界じゃ考えられないよね?」

 なにを言われても、素直にうなずいてみせる牧之である。


 気の毒になったお了は、自分の口が発する言葉の棘を少しやわらげた。

「これは内輪話だけどね、目利き違いで採算ぎれの出版がつづき、ちょいとばかり銭繰りに窮したときは、自分の店で持っている版木を売ってその場を凌ぐ、そんな奥の手もあるんだよ」

 初版の版元が版木を売りに出すと、板株(版権)は買主に移る。

 かえってその方が当たったりするから、この娑婆はわからない。

 げんに、これより少しのちのことになるが、曲亭(滝澤)馬琴の『里見八犬伝』全七編七十冊揃いは、はじめ江戸の美濃屋甚三郎が刊行したが、のち大坂の河内屋長兵衛が百五十両の大枚を出して版木を購入し、増刷で儲けたという話である。


 

12

 

「どれ、見せてごらんなさい」

 お了は風呂敷包みに目をやった。

 丁寧に原稿を取り出した牧之は、とんとんと音をさせて四隅を揃え、反物を扱い慣れた、無駄のないきれいな動作で、すいっとお了のほうに向けてよこした。

 思いもよらず出版への心得違いを諭されたかたちの牧之だが、生真面目なわりに根に持たないのは、真綿でくるまれた坊ちゃん育ちの一面かもしれなかった。


 ここぞという場面には、牧之自身による細密な挿絵が添えられている。

 雪掘り(雪掻きではなく)の図。

 熊の穴に転げ落ちたと見える男。

 猛吹雪を助け合って歩む若夫婦。

 雪中歩行のときに用いる諸用具、などなど。

 少年期に師に就いたというだけあって、動きまわる人物の描写がことに巧みで、雪国の暮らしを知らないお了の胸にも、並大抵ではない苦労の模様が迫ってくる。

 文章がまた迫力に富んでいる。

 たとえば、「雪の形」の一節。

 

 ――およそ物を見るに眼力の限りありて、そのほかを見るべからず。されば人の肉眼をもって雪を見れば一片の鵞毛(がもう)のごとくなれども、数十百片の雪花(ゆき)を寄せ合わせて、一片の鵞毛をなすなり。これを虫眼鏡に照らし見れば、天造の細工したる雪の形状(かたち)奇々妙々なること下に図するがごとし。


――雪六出(りくしゅつ)をなす。御説に曰く「およそ物方体は四角なるをいふ。必ず八をもって一を囲み、円体は丸をいう。六をもって一を囲む条理中の定数しうべからず」云々。雪を六(むつ)の花ということ、御説をもって知るべし。

 

 文の下に、三十五種におよぶ雪の形状が正確に(おそらく)描かれている。

 お了が次に目を留めたのは「雪意(ゆきもよい)」と題された抜粋だった。

 

 ――我が国の雪意は暖国に等しからず。およそ九月の半ばより霜を置きて、寒気しだいに烈しく、九月の末に至れば、殺風肌を侵して冬枯の諸木葉を落とし、天色霎(しょうしょう)として日の光を見ざること連日。これ雪の意(もよい)なり。


――天気朦朧たること数日にして、遠近の高山に白を点じて雪を観せしむ。これを里言(さとことば)に嶽廻(たけまわし)という。また、海あるところは海鳴り、山深きところは山鳴る、遠雷のごとし。これを里言に胴鳴りという。これを見これを聞きて、雪の遠からざるを知る。

 

 

13

 

 丁寧に原稿を繰っていたお了の目は、「熊捕」の項に吸い寄せられた。

 

 ――越後の西北は大洋(たいよう)に対して高山なし。東南は連山巍々(ぎぎ)として越中上信奥羽の五か国にまたがり、重岳(ちょうがく)高嶺肩を並べて数十里をなすゆえ、大小の獣はなはだ多し。

 

 ――そもそも熊は和獣の王、猛くして義を知る。菓木(このみ)の皮、虫の類を食として同類の獣を食らわず、田畑を荒らさず、稀に荒らすは食の尽きたるときなり。詩経には男子の祥とし、あるいは六雄将軍の名を得たるも、義獣なればなるべし。夏は食を求むるのほか山蟻を掌に擦りつけ、冬の蔵蟄(あなごもり)にはこれを舐めて飢えを凌ぐ。

 

 薪取りのため山に入ったところ、あやまって熊の穴に落ち、その熊に助けられた男のにわかには信じがたい実話も、ことの一部始終が生き生きと描写されていた。

 

 ――もし情けあれば助けたまえと、怖ごわ熊を撫でければ、熊は起きなおりたるようにありしが、しばしありて進み出で、我を尻にて押しやるゆえ、熊の居たる跡へ座りしに、そのあたたかなること、炬燵にあたるごとく。全身(みうち)あたたまりて寒さを忘れしゆえ、熊にさまざま礼を述べて、なおも助け給えと、いろいろ悲しきことを言いしに、熊、手を上げて我が口へ柔らかに押し当てることたびたびなりしゆえ、蟻のことを思い出し、舐めてみれば甘くて少し苦し。しきりに舐めたれば、心爽やかになり、喉も潤いしに、熊は鼻息を鳴らして寝入るようなり。さては我を助くるならんと、心、大いに落ち着き、のちは熊と背中を並べて臥ししが、宿のことを思いて眠気もつかず。思い思いてのちは、いつか寝入りたり。

 

 ――かくて熊の身動きしたるに目覚めてみれば、穴の口の見ゆるゆえ、夜の明けたるを知り、穴を這い出で、もしや帰るべき道もあるか、山に登るべき藤蔓にてもあるかとあちこち見れどもなし。熊も穴を出でて滝壺にいたり、水を飲みしとき、はじめてよく見れば、犬を七つも寄せたほどの大熊なり。

 

 男は穴から出る術も見つけられぬまま、熊と一緒に何日も過ごすことになる。

 そうするうちに熊はしだいに慣れてきて、甘えるような仕草も見せるなど可愛くなり、ひとりと一頭は、まるで人と飼い犬のように仲睦まじく暮らした。

 

 ――ある日、穴の口の日の当たるところで虱を取りていたりしとき、熊、穴より出で、我が袖を咥えて引きしゆえ、如何にするかと引かれゆきしに、はじめ滑り落ちたる畔にいたり。熊、前に進み出て自在に雪を掻き掘り、ひと筋の道をひらく。何処までもと従いゆけば、また道をひらきひらきて、人の足跡あるところに至り。熊、四方を顧みて走り去りて行方知れず。

 

 ――さては我を導きたるなりと、熊の去りし方を遥拝(ふしおが)み、かずかず礼を述べ、これまったく神仏のおかげぞと、お伊勢さま善光寺さまを遥拝み、うれしくて足の踏みども知らず。灯とぼしころに宿へ帰りしに、このとき近所の人びと集まり、念仏申していたり。薪取りに出でし四十九日目の待夜(たいや)なり。


 

14

 

「すごいじゃない! 文も絵も」

 お了は率直に牧之を称賛した。

「ごめんね、前言を訂正します。この原稿はたしかに私家版の域を脱しています」

「いや、それほどでも。まことに恐れ入ります」

 牧之は照れて頭を掻いている。

「もっと見せて。江戸の住人からすれば、外つ国みたいだよね、雪国の生活は」

「恐縮でございます。どうぞ、お好きなところからご覧になってくださいまし」

 未知の魅力に富んだ原稿を夢中で繰っていたお了は、生後間もない赤子を連れた若夫婦の受難を物語る「雪吹(ふぶき)」の項に、とりわけ心を打たれた。

 

 ――産後日を経て、連日の雪も降りやみ、天気穏やかなる日、嫁、夫に向かい、今日は親里へ行かんと思う、如何にやせんと言う。舅かたわらにありて、そはよきことなり、倅も行くべし、実母どのへも孫を見せて喜ばせ、夫婦して自慢せよと言う。嫁はうち笑みつつ姑にかくと言えば、姑にわかに土産など取り揃えるうちに、嫁、髪を結いなどしてたしなみの衣類を着し、綿入れの木綿帽子も寒国の習いとて見にくからず、児をふところに抱き入れんとするに、姑、かたわらより、よく乳を呑ませて抱き入れよ、途(みち)にてはねんねが呑みにくからんと、一言の言葉にも孫を愛する情(こころ)ぞ知られける。

 

 ――児の泣くに乳房くくませつつ、打ち連れて道を急ぎ、美佐嶋という原中に至りしとき、天色にわかに変わり、黒雲空に覆いければ(これ雪中の常なり)、夫、空を見て大いに驚き、こは雪吹ならん、如何がはせんと躊躇ううち、暴風、雪を吹き散らすこと巨濤(おおなみ)の岩を越ゆるがごとく、つじかぜ雪を巻き上げて、白竜峯に登るがごとし。のどかなりしも掌を返すがごとく、天怒り、地狂い、寒風は肌を貫くの鑓、凍雪は身を射るの矢なり。

 

 ――夫は蓑笠を吹き取られ、妻は帽子を吹きちぎられ、髪も吹き乱され、あわやと言う間に目口襟袖はならなり、裾へも雪を吹き入れ、全身凍え、呼吸迫り、半身はすでに雪に埋められしが、命の限りなれば、夫婦声をあげ、ほういほういと哭き叫べども、往来の人もなく、人家にも遠ければ、助くる人もなく、手足凍えて枯木のごとく暴風に吹きたうされ、夫婦頭(かしら)を並べて雪中に倒れ死にけり。

 

 ――この雪吹、その日の暮れに止み、次の日は晴天なりければ、近村の者、四、五人ここを通りかかりしに、かの死骸は雪吹に埋められて見えされども、赤子の啼く声を雪の中に聞きければ、人びと大いに怪しみ恐れ、逃げんとするもありしが、豪気の者、雪を掘りてみるに、まず女の髪の毛、雪中にあらわれたり。さては昨日の雪吹倒れならん、里言にいうところとて、みな集まりて雪を掘り、死骸を見るに、夫婦手を引き合いて死に居たり。児は母のふところにあり、母の袖、児の頭(かしら)を覆いたれば、児は身に雪をば触れざるゆえにや凍死(こごえしな)ず、両親(ふたおや)の死骸の中にて、また声をあげて啼きけり。


 

15

 

 読み終えたお了は、大仕事を終えたような嘆息をついた。

「いやあ、参ったわ、牧之ちゃん。あんた、こんな力作をどこに隠していたの?」

「いや、ですから、山東京伝さんとか瀧澤馬琴さんとか、大坂の絵師のほかにも、いろいろな方々にお見せしていたんですが、一向に埒があきませんで」

 牧之は浅黒い頬を染め、生真面目に抗弁を試みる。

 相次いでやって来た小林一茶や葛飾北斎のように、

 ――わたしとしては、お内儀さんに認めていただくのが一番うれしいんです。

 などとは言わない。

 だが、半生を賭して書き継いできた、いわば自分そのものである原稿が、江戸の出版の目利き、お了を心底から感動させた、それも書き手の自分のすぐ目の前で。

 まぎれもない事実が、牧之にはうれしくて仕方がないようだった。

 

 その喜びに水を差すのは、いかにも気が退ける。

 だが、言わずもがなを付言せねばならなかった。

「ただね、優れた本が必ずしも売れるとは限らない。それがこの娑婆なんだよね」

 まことに残念な事実である。

 人情話や廓もの、敵討ちものなどの与太話を書き飛ばした黄表紙は、右から左へ飛ぶように売れても、小難しいと敬遠されがちな物之本の販路を見つけるのは容易ではないのだ。

「牧之ちゃんの畢生の大作をできればうちから出版したい、世に問うてあげたいと思う。いま読ませてもらったとおり、それだけの価値が十分にある原稿だからね」

 

 ここでお了は少し間を置いた。

「けどね、正直に言って、現在のうちの財務状況では、ちょっと……」

 いかに優れていても、銭を出してまで買おうという読者は限られるだろう。

 販売の至難を慮って、するりと逃げを打とうとする自分に、お了はうしろめたいものを感じずにいられない。

「いえ、あの、お内儀さん。わたしは決してそんなつもりでは」

 事実そうなのだろう。

 嘘がつけない男は、身体を堅くして困りきっている。

「でもね、この原稿はいつかきっと本になり、見識の高い人たちの胸に言い知れぬ感動を届けると、そう思うよ。信濃屋の看板を掲げる、このあたしが保証するよ」

 一瞬、頬を染めた牧之の奥二皮の双眸に、きらりと光るものが湧いた。

 

 ――大丈夫。

 いま読ませてもらったとおり、生まれたばかりの赤子連れの若い夫婦の命を容赦なく奪った、その雪に敢えて晒して糸の撚りを強める、越後縮問屋の大旦那なら、決して諦めず、しぶとく粘りに粘って、いつの日かきっと本懐を遂げるだろう。

 火鉢に炭を継ぎ足しながら、お了はひそかに確信を深めていた。




 エピローグ

  

 両養子の千次とお文、孫娘のお鈴は、三人とも生きていた。

 川向こうの目立たない裏店で、小商いをして暮らしていた。

 「だってさ、おっかさんと一緒だと、ちっともくつろげないんですもの」

 お了が知らないうちに、番頭の茂兵衛が手代の福助に命じて探し出したお文は、悪びれる様子もなく言ってのけた。

 つまりは、夫の清吉が行方知れずになってから姐御肌にいっそうの磨きをかけたお了との窮屈な暮らしに、永代橋の崩落事故を利用して終止符を打つことにした。

 そういうことらしい。

 申し訳ないが、信濃屋へもどる気は、さらさらない。

 そういうことらしい。


「ごめんなさい。これからも、あたしらはあたしらでやっていきますから」

 お文は芯の強さを隠そうともしなかった。

 夫の千次も伏目がちにうなずいてみせる。

 少し離れて、番頭の茂兵衛がなんとも言えない表情をしている。

 ――女は強え。苦労を糧に、ひと皮もふた皮も器をでっかくする。

 お了の耳にいつかの北斎の言葉がよみがえる。

 お文もまた、そんな強い女になったのだろう。


 男まさりを通り越し、

 ――情の強(こわ)い女。

 お了は自分への評判もよく承知している。

 ――ということは、ひょっとしたら、いや、きっと……。

 夫の清吉もどこかで生きているのではないか。

 そういえば。

 本所あたりのしもたやに、年上の女に囲われている。

 そんな話が伝わって来たのはいつのことだったろう。

 そのときはさすがに胸が騒いだ。

 けれども、すぐに思いを改めた。


 もし、亭主が生きていると仮定した場合、

 ――いまだに帰って来ないということは、帰って来たくないということだろう。

 首に縄をつけて強引に連れ帰ったって、なんの意味もない。

 本人が帰りたければ、だれが拒もうとて帰って来るだろう。

 それが人情というものだ。


 一茶、北斎、牧之など、外部の人間には慕われるが、身内にはさっぱり。

 ――あたしはいつから、そんなさびしい女になっちまったんだろうねえ。

 柄にもなく鼻の奥を熱くしかけたとき、

「おばあちゃん、また遊びに来てもいい?」

 この秋、四歳になるお鈴が、名前どおりの涼やかな声で言った。

 意外なことには、お文までが屈託のない笑顔で言い添えてくる。

「この子ね、近所の子らと本を並べ、書物屋さんごっこで遊んでいるんだよ」

 お了はまたしても鼻の奥をつんとさせかけたが、

「さあ、商売商売。みんな、今日も気張っていくよ!」

 番頭の茂兵衛や手代の福助たちに朗らかな声をかけた。      【完】


                          (2020年5月31日)

 

 

 

*参考文献

 矢ケ崎榮次郎編『懐古の五十年 鶴林堂書店史』(一九四一年 鶴林堂書店)

 橋口候之介著『江戸の本屋と本づくり』(平凡社 二◯一一年)

 藤沢周平著『一茶(文春文庫 二〇〇九年)

 田辺聖子著『ひねくれ一茶』(講談社文庫 一九九五年)

 瀬木慎一著『画狂人北斎』(講談社現代新書 一九七三年)

 永田生慈監修『葛飾北斎 生涯と作品』(東京美術 二〇〇五年)

 磯部定治著『鈴木牧之の生涯』(野島出版 一九九七年)

 鈴木牧之編撰 京山人百樹刪定 岡田武松校訂『北越雪譜』(岩波文庫 一九三六年)

 北嶋廣敏著『大江戸おもしろ商売』(学研 二〇〇六年)

 油井宏子著『江戸が大好きになる古文書』(柏書房 二〇〇七年)

 ほかにインターネットを参考にしました。

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