第2話 葛飾北斎の場合



 

 年が明け、松の内が過ぎると、女正月が来た。

 久しぶりに出髪(でがみ)を頼んだお了は、

 ――番頭さん、その辺にしておいておやりよ。

 相変わらず若々しい顔を鏡台に向けたまま、朧月のように美しい眉根を寄せた。

 華やかな緋牡丹柄の覆いを払いのけた鏡面に、うすい冬の日差しが射している。

 昼も夜も店の切り盛りに気を張っているお了が、唯一くつろげる貴重な時間だ。


 同い年の髪結いとは数十年来の付き合いなので、互いの呼吸が聞こえるほど間近に接していても、ことさら気を遣うこともなく、ゆったりと髪を任せていられる。

 長年の馴染みといっても、私生活まで承知しているわけではない。

 惚れ合って一緒になった瓦職人の亭主が、反りの合わない兄弟子のために大怪我を負わされたこと。髪結いの腕一本で三人の子どもを育て上げたこと。その亭主と子どもたちをこよなく愛しんでいること……お了が知っているすべてだった。

 髪結いのほうでも詮索めいたことは口にしない。

 互いに深入りしない、暗黙の了解ができている。

 きわめて聡明な性質らしく、その日のお了の気分を素早く読み取り、日によっては鈴を転がすような声で話しかけてくれたり、ひたすら黙々と作業に没頭したり。他家のうわさ話など間違ってもしないところが、とくにお了の気に入っている。


 ――冗談じゃない、よその家の内緒ごとなど聞かされたくもない。

 はっきり口にしたわけではないが、ぴしゃりと戸を閉ざすお了の心持ちを、生来の利発に苦労で磨きをかけた出髪は、阿吽の呼吸でわかってくれているらしい。

 本当にありがたいことだと思う。

 髪は女の一生の宝だ。

 すでに大年増と言われる年齢だが、もっと年寄って薄化粧(けそう)も施さない年代に入っても、彼岸へ召される瞬間まで髪はきれいに整えておきたい。だから、髪結いに恵まれるかどうかは、大げさに言えば一生の命運を分かつことになる。

 信濃屋の商いものの紙のようにぺらぺらと口が軽いということは、うちの内情もよそでしゃべり散らされることにほかならず、こうしてひっかきまわされ、孫子の代まで犬猿の仲になった例を、ここ浅草界隈でもあちこちで耳にしていた。

 ゆえにお了は、店に出入りさせる業者にも、きびしい基準を設けている。

 といっても要は、

 ――人柄第一。

 に尽きるのだが。

 

 お了の居所は、店の帳場の奥、廊下を鉤の字に曲がった離れに設えてある。

 その中間に奉公人の部屋を設けたのは、なにも監視しようというわけではない。

 ――年端もゆかぬ丁稚をあずかるのだから。

 両親に代わって育てるのだから、せめて自分の目の届くところに置きたい。

 お了一流の考え方がある。


 先先代(父親)と先代(夫の清吉)の時代には、裏庭の別棟にある本づくり工房(刷本や写本から製本まで行う)の隅を仕切って奉公人部屋に当てていたのだが、

 どうもそこで、

 ――新米いびりの悪しき伝統が培われているらしい。

 そう踏んだお了は、

「はあ? なんだってそんな。いくらなんでも、お内儀さんのとなりの部屋というのは、若い者にけじめがつきませんよ」

 番頭の大反対を押しきって、夜間も気配が感じられる場所に移させた。

 

 その番頭の茂兵衛が先刻からしつこく咎めているのは、去年の春、先先代から付き合いのある口入れ屋が連れて来た、奥州の在出身のひときわ小柄な小僧だった。

 いまだに奥州訛りが抜けず、

「ああだの、ううだのばかり言ってないで、はっきりしろよな、はっきり」

 日頃から揶揄いの対象にされていることに、お了は心を痛めていたが、こういうとき自分が出しゃばれば、かえって小僧に辛い思いをさせることも承知していた。


「いいかい、ゆっくりでいいからね、もう一度声をあげて読んでごらん」

 隣室のお了の耳を十分意識している茂兵衛は、やや芝居がかった声音で命じた。

「しなのや……ほうこう……きそく」

 蚊の鳴くような声で、小僧はようやく読み上げた。

 ――かわいそうに、ろくに寺子屋へも通わせてもらっていないだろうに。

 すべてにおいて理詰めを好む茂兵衛は、小僧の側の事情にはいっさい頓着せず、自分という番頭の監督のもと、規則に従わせることだけを考えているらしい。



 

 奉公規則といったって、大した条項を認めてあるわけではない。

 先先代が世利人仲間に借りた雛形を、ほとんどそのまま使っており、その世利人仲間にしても、別の商売仲間から借りたものを丸写しして自分の店用にしたそうだから、どの商いにも通用する平凡な文言が、ずらずら並んでいるだけだ。

 当たり前のことをしかつめらしく述べ立て、年端もゆかない小僧たちに、雇い主と奉公人の関係を骨の髄まで覚えさせるために、はるか昔のだれかが思いついた。

 お了はそう踏んでいる。


 たとえばこんなふうだ。

 商品は丁寧に取り扱うこと。

 とくに子ども(小僧)には、丁稚や手代がよく教え込むこと。

 安物しか買わない顧客にも、上客と同様に愛想よく接すること。

 売掛金は時節ごとに回収し、残債が増えないよう十分に留意すること。

 店内の役替え(昇進)があったときは、互いに祝儀を出して讃え合うこと。

 平素から心根をよくして書を学び、決して驕り高ぶらないよう精進すること。 

 正月三が日は囲碁や将棋、歌留多などの遊興を許すが、四日以降は厳禁のこと。

 他出(外出)の節は、行き先と目的、帰店の時限など仔細を、手代または番頭に報告し、時限以内に帰店したら、ただちにその旨を報告すること、などなど。

 

 このうち、小僧がしつこく責め立てられているのは、監督者のいない店外へ出るだけにもっとも重要とされている、最後の「他出破り」の一件であるらしい。

「もう一度訊ねるよ。おまえ、昨夜はどこへ行くつもりだったんだい?」

 先刻から小僧は一言も発していない。

「あのな、番頭さんは怒っているんじゃないよ」

 ――怒っているじゃないか。

 お了はくすっと笑って、鏡の中の出髪と目を合わせた。

「こうして無事に見つかったからよかったものの、あのまま、おまえがどこかへ行っちまっていたら、国の親御さんたちが、どんなにか心配されるだろうよ」

 泣き落としが功を奏したのか、わずかに身じろぐ気配が伝わってくる。

 

 それに気をよくしたのか、茂兵衛の口調は少しばかり横柄になった。

「あのな、ことの仔細はこういうことなんだよ。晩飯の刻限になってもおまえの姿が見当たらないというんで、岡っ引きの源八親分にお願いしようと思っていたら、折りよく下っ引きの平造さんが通りかかった。で、かねてより昵懇のこのあたしがひらに頼み込んで、大川の向こうまで探してもらったと、こういうしだいなのさ」

 ――やれやれ、また始まったよ、自慢癖。

 きゅっと髪を引っ張られて狐目になりながら、お了はふうっと吐息をつく。

 こういうところがあたしの気性に合わないんだよね。



 

「いいかい、江戸は怖いところなんだ。いや、そうじゃない。お化けなんかより、もっと怖いものがいるんだよ。たとえばの話だが、かどわかしってわかるかい? そうだ、その人さらいで食っている闇の世界の連中がいてね、ふつうの町人の顔をして、おまえのようにふらふらしている子どもを探して歩いているんだよ」

 ひーっと息を呑んだ小僧は、

 ――ああん、あんあん、おっかさーん!

 三歳児のように泣きじゃくり始めた。

「これ、泣くんじゃない、泣くんじゃないったら。そんなに騒がれたら、あたしが子どもを苛めているみたいじゃないか。人聞きがわるいことはやめとくれよ」

 茂兵衛の声は明らかにお了を意識している。


「それにね、近ごろは性質のわるい流行り病が浅草中に広がってきている。高熱を出して、咳が止まらず、魔物に鼻や口を塞がれたように息ができなくなって、悶え苦しみながら死んで行く。なんせ流行るのが速いんで、なかには長屋ごとそっくりやられた小路もあるってえ話だ。そのくらいはおまえも聞いて知っているだろう」

 素直にうなずく気配が伝わってくる。

「そんなときにだよ、しかもこのひどい寒中に、よりにもよって両国橋の下なんかで野宿を決めこむなんざあ、どう考えたって正気の沙汰じゃないだろう。わざわざ自分のほうから流行り病の餌食になりに行くようなものじゃないか、馬鹿だねえ」

 小僧はすすり泣き始めた。

「田舎が恋しくてたまらなくなった。矢も楯もたまらず国に帰りたくなった。大方そんなところだろう。ちがうかね? そうだろう。いや、じつを言うとね、おまえだけじゃないんだ、こういうことは。正月明けには起こりがちなことなんだよ」

 茂兵衛の声に湿りが帯びてくる。

 つられてお了も胸を詰まらせた。


 無理もないよ、まだ十歳だもの。

 けどね、もしうまく国へ帰れたとしても、おとっつあんもおっかさんも、じいちゃんもばあちゃんも、ごろごろいるだろう弟や妹たちも、だれひとりとして、

「兄ちゃん、よく帰って来たな」

 とは迎えてくれないだろうよ。

 口入れ屋からもらったわずかな前金は、とうの昔に遣い果たしているだろうし、もっと言えば、一丁上りで片付いた養い口のことなど、めったに思い出しもしなかったろう。囲炉裏端の筵(むしろ)だって、とっくに奪われていたはずだ。

 そこへ、前触れもなく、とつぜん舞いもどるんだからねえ。

 ――やれやれ、せっかく減ったと思っていた口がまた増えちまったよ。

 あんなに愛しかったはずの家族から、露骨に邪魔者扱いされるだけのことさ。

 お了は鏡の中の自分の目に溜まったものを切なく見つめている。

 すべて承知の出髪は、黙りこくってせっせと手を動かしている。

 

「わかったら涙を拭いて店へおもどり。鼻が赤いのは仕方ないか。手代や丁稚たちには、あたしからいいように言っておくからね、なにも心配しなくていいんだよ」

 小僧が立ち上がる気配がした。

「あ、ちょっとお待ちよ。じつはね、あたしも小僧のころ、国へ逃げ帰ろうとしたことがあるんだよ。そのときの番頭さんがいまのあたしと同じことを言って諭してくれたのさ。あのとき我慢できずにお店を飛び出していたら、今ごろどんなことになっていたか……。おまえは賢いからわかっていると思うけど、このことはだれにも言うんじゃないよ。おまえとあたしの秘密だよ」

 やっと聞き取れるほどの茂兵衛の声には、珍しく真実が滲んでいる。

 お了はくすぐったいような、申し訳ないような、へんな心持ちになった。

 ――ごめん、だからって好きにはなれないけどね。

 合わせ鏡で仕上がりをたしかめながら、お了はひょこっと首を竦めた。


 

 

 翌日、信濃屋にはちょっとした大口の取引があった。

 さる藩の江戸屋敷の家老から大量の払本(はらいぼん)の引き合いが来たのだ。


 払本の引き取り値は、売値の二割が相場である。

 ひと口に本といっても、たとえ何両出しても惜しくないような唐本(からぼん)の稀覯本(きこうぼん)から、一冊六文(三百円)足らずの値段で、紐でくくってまとめ買いする赤本や黒本、黄表紙など大衆本の類いまで文字どおり玉石混淆で、ときには書物とはいえないようなものまで紛れこんでいることもある。


 たとえば、実録、御家騒動、敵討ち、心中事件、騒擾物など、下世話な出来事を好む町人用に、筆に覚えの武家や大店の隠居が、小遣い稼ぎに面白おかしく綴った写本(しゃほん)や、単色刷で十六文(八百円)、多色刷で三十二文(千六百円)が相場の錦絵、一枚物四文(二百円)の「よみうり」(瓦版)などがそれである。

 ちなみに、市井では二八そば(かけそば)一杯十六文が相場になっている。


 払本の商いには、本命の高級本の抱き合わせとして、そうした紙屑同然のものを押し付けられる場合も少なくない。

 だが、信濃屋の口の堅さが見込まれ、

 ――別嬪の奥方がらみの訳ありです。

 として出入りの呉服屋を通じて打診があった今回は、文には覚えがあるが武の方はさっぱりという点が、同好の士の殿さまの目に留まり、国許では垂涎の的である江戸家老に抜擢された、その学者肌の若い家老が愛蔵する高級本ばかりだという。


「お内儀さん、久しぶりに書物屋としてのあたしの腕が鳴りますよ」

 手代の福助を連れた番頭の茂兵衛は、朝から張りきって出かけて行った。



 5

 

 裏庭の本づくり工房からお了のいる帳場まで、製本の音が聞こえてくる。

 店の仕事とは別に雇い入れた、四人の専門職人たちが手がけているのは、

 ――『漢詩集大全』全六十巻。

 右から左に売れるという筋合いのものではないが、先先代による創業以来、これはと惚れこんだ本ばかり出版してきた信濃屋の刊行物に誇りを持っているお了は、

 ――ほおら、またしてもお内儀さんのお道楽が始まりましたよ。

 苦笑まじりに取り沙汰されることを十二分に承知していながら、大衆受けがして日銭が見こめる赤本や黒本、黄表紙の類いには、いっさい手を出そうとしない。


 劣情を煽り立てる本を好んで出す地本問屋のように、一発当てて暴利を貪ろうという気はまったくないので、信濃屋の身上は年々増えるというわけにはいかない。

 けれど、それでいいのだ。

 きれいごとを言うようだが、商売の目的は銭儲けだけじゃない。

 とくだん書物屋に限ったことではないが、

 ――この仕事でおまんまを食べさせてもらっている。

 いわば養い親も同然の、江戸という町のお役に少しでも立てれば本望だ。

 それが商売の王道だろう。

 ――積善の家に餘慶あり。

 それが信条だったおとっつあんも、きっと草葉の陰で喜んでくれているだろう。

  

 ところで――

 いささか古い話になるが、現在の江戸の出版事業は「諸商人諸職人組合仲間相定候付」ご布令の翌年、第八代将軍・吉宗公による仕置き改革(享保の改革)の一環として享保七年(一七二二)に発令された「出版条目」に拠っている。

  

一 新たに出版する本に、みだりに異説を採り入れることを禁ずる。

二 風俗を乱す好色本は、全面的に内容を改めるか絶版にすること。

三 人びとの家筋、先祖のことなどを認めて流布することを禁ずる。

四 新たな刊行書にはかならず作者、版元名を奥書として示すこと。

五 徳川家に関する版本の刊行および写本はこれをいっさい禁ずる。

六 以上、本屋仲間でよく吟味し合い、違反のないよう心得ること。

 

「出版条目」の違反を取り締まる元締めは町奉行(与力・同心二百八十名で江戸の行政、警察、裁判、消防、経済を担当)で、その下に町年寄が置かれ、さらにその下に頼母子講(たのもしこう)で資金を融通し合う本屋仲間が組織されているのはいまも同じだ。

 

 ときが流れた。

 第九代家重公の時代を経て、出版に逆風の時代が到来する。

 第十代家治公を支えた田沼意次が天明の大飢饉の責を問われて失脚し、第十一代家斉公の信任を得た松平定信(八代吉宗公の孫)が新たな仕置きの矢面に立つと、諸産業と同様に、出版界にもきびしい統制が申し渡され、違反者には厳重な罰則が科せられた。

 いまも語り草になっているのは、

 ――山東京伝の手鎖(てぐさり)五十日事件。

 松平定信が老中に就いて四年後の寛政三年(一七九一)、遊里の出来事を書いた洒落本『娼妓絹籭(きぬふるい)』『仕懸文庫』『錦之裏』が発禁処分となった。

 当代一の流行作家だった山東京伝は、手錠をかけられたまま自宅で謹慎する罰を受け、発行元の蔦屋重三郎は、それまでに築き上げた身上の半分を没収された。

 見せしめのような厳罰に、当時の出版界は萎縮した。

 

 だが、またしても時代は移ろう。

 それから二年後、老中松平定信の仕置き改革(寛政の改革)は終焉を迎えた。

 文化の時代に入ると、かつてのような出版活動が再開され、現在に至っている。


 

 

 しめしめ、鬼の居ぬ間の洗濯といきますか。

 番頭と手代が店を留守にすると、お了は正直ほっとする。

 ――先代が行方知れずになったので、やむを得ず三代目を継ぎました。

 写本のネタにでもされそうな事情はあるものの、かりにも現在は主なんだから、どんと構えていればよさそうなものだが、にわか店主の引け目もあって、どっちが奉公人かわからないほど気を遣ってしまうのが持って生まれたお了の性質である。


 昼どきになって客足が途絶えたとき、

「お内儀さん、お内儀さん。またあの人が来ていますよ」

 女中頭のお民が、太い八の字眉をひそめながら注進に来た。

 追分の遠い親戚筋に当たるお民は、真面目で働き者の典型的な信濃人だが、忠義が過ぎていささか煩わしくなるときがあることを、お了は申し訳なく思っている。


 お民が眉を寄せているのは、

 ――画師の葛飾北斎。

 その人にちがいなかった。

 いきなり厨に入って来て、昼飯を所望したという、

 とつぜんふらりと現われては、ろくに挨拶もせず、ずかずか上がりこんで来る。

 その風体はといえば、垢じみた着物をだらしなく着崩し、貧弱な腰に引っかけるように帯を巻き、その着物も帯も手足も顔も、赤や青や金色の顔料で汚れている。

 きれい好きのお民は、その不潔さ加減がどうにも我慢がならないらしい。

「こっちへ通ってもらって」

 苦笑してお了が告げると、

「そうですかあ、本当にいいんですかあ。いつものあの態(なり)ですけどねえ」

 不満を露わにしたお民は、分厚い腰を揺すりながら引き下がっていった。

 

 まるで自分の家のように、奥からのっそり現われた北斎に、

「あら、生きてたの? ずいぶんご無沙汰だったじゃないの」

 お了は陽気な声をかけてやる。

「いや、面目ねえ。八卦見(はっけみ)の見立てによりゃあ、当分こっちの方角に足を向けねえほうがいいってんで、暮れから巣ごもっていたってえわけでして」

 北斎は照れくさそうにそっぽを向いた。

「おや、あんた、八卦見なんて信じるのかい。こりゃまた妙な取り合わせだねえ」

 ずけずけと遠慮なく突っ込むお了に、

「滅相もねえ、あっしの趣味じゃござんせんよ、お内儀さん。そういうものに目がねえあっしの妻(さい)がですね、毎月が無理なら、せめて季節の変わり目ごとに見てもらえのなんのと、やいのやいの、うるさくってやりきれねえんでがすよ」

 北斎は向きになって言い訳をする。

「あんなこと言って、素直にご託宣に従って足を遠ざけていたくせに。新年早々、お熱いところを見せつけてくれるじゃないか、独り身のあたしの前でさあ」

 三歳年下の北斎に、お了は弟か従弟のように打ち解けた口をきく。

 北斎のほうでも、野郎の朋輩じみた親しみを感じているようだ。


 

 7

 

「で、どうなの? 最近は」

 火鉢の灰をかき混ぜながらお了が訊ねると、

「それがお内儀さん、まあまあってえところでしてね」

 北斎は待ってましたとばかりに弾んで答えてくる。

 以前、ちらと漏らしたことがあるが、師匠に認められるより、

 ――よくやったね。

 お了のひと言のほうが、この男にとっては栄誉であるらしい。

「おかげさんで、葛飾北斎の雅号もだいぶ浸透してまいりやした」

 誇らしげに小鼻を蠢かす北斎に、

「そりゃあ、なによりだよね。なにしろあんたときたら、暑いにつけ寒いにつけ、ころころ名前を変えてばかりなんだもの。覚えるほうだって大変なんだよ」

 少しばかり意地悪を言ってやると、

「まことに面目ねえです。けどね、お内儀さん。これでもあっしなりの事情ってえやつがありやしてね、なにも好き好んで変えているわけじゃあねえんですよ」

 遅咲きの浮世絵画師は不満げに口を尖らせた。


「まあ、いいよ。人にはそれぞれ他人には言えない訳っちゅうもんがあるからね。人はだれだって訳ありなのさ、わざわざ訳ありなんて断らなくてもね」

 つい独り言めくお了の脳裡には、今朝がた、番頭の茂兵衛と手代の福助を出向かせた、例の某藩江戸家老の別嬪の奥方絡みの一件が引っかかっている。

 むろん、そんなことはおくびにも出さない。

 相手がだれであろうと商売上の秘密を漏らしたら、信用第一でやってきた信濃屋の看板に取り返しのつかない疵をつけることになると、お了はよく承知している。


 こういうときは話題を変えるに限る。

「じゃあ最近は損料屋(そんりょうや)の世話にならなくて済んでいるんだね」

 少し踏み込んでみると、

「へえ。おかげさんで鍋釜のたぐいは自前になりやしたが、黴くせえ煎餅布団に妙にあっしの身体が馴染んじまいましてね、いまだにあれだけは借り物なんですよ。もっとも妻やがきどもは、不潔だとかなんだとか文句たらたらですがね」

 北斎は悪びれずに内輪話を打ち明けた。


「ところで、新宅の住み心地はどうだい」

 ――亀沢町の北斎邸。

 ずっと貸家住まいだった北斎が、四十九歳にしてはじめて建てた家である。

「いやあ、それがなかなかでしてね。なんかこう落ち着けねえっちゅうか、他人の家に間借りしているような気がしてならねえんです。やはりあれですかね、お内儀さん。あっしには一つ所に腰を落ち着ける暮らしは、性に合わねえんですかねえ」

 浮かない顔をしている北斎に、

「でもさ、あんた、たしか今年は五十の大台に乗るんだろう。あのやんちゃな信長公が『人間五十年』と謡い舞ったという、いわば人生の節目になる歳なんだもの、そろそろ落ち着くことを真剣に考えたほうがいいと思うよ、あたしは」

 お了は歳上らしく諄々と諭してやった。

 ――五十といえば。

 最期まで息子の老後を案じていたという、一茶の父の憂いが胸をよぎってゆく。



 

 三代目店主のお了は信濃屋を、

 ――ものを創る人たち。

 すなわち、娑婆のはぐれ者の社交場として開放している。

 うわさを聞いて訪ねてくるのは、娑婆の目から見れば一風変わった人たちばかりなので、常識人の代表である番頭の弥兵衛や女中頭のお民は、いい顔をしない。

 「お内儀さんの物好きにも困ったものだ」

 奉公人のあいだで囁かれている事実を、お了も知らないわけではない。

 だが、訳あって、 

 ――それこそ訳あって。

 現在は独り暮らしのお了は、特異な才能に恵まれたばかりに娑婆から爪弾きされがちな人たちが、気ままに身を寄せられ、いつでも好きなときに離れていかれる、

 ――ゆる~い場所。

 を用意しておきたいと思っている。

 

 たしか去年の夏だったか。

 目の前の北斎と微妙なやり取りをしたことがある。

「あっしなんぞがこんなことを言うのも口幅ってえですがね、お内儀さんてえ人はてえしたお方だ」

 急になにを言い出すのかと、お了は面食らった。

「やだよ北斎ちゃん、柄にもない世辞なんぞ、よしとくれ」

 奥二皮の北斎の双眸が、よく斬れる刀のようにぎらりと光った。

「いや、おいらのような絵師稼業は、人間の姿かたちを写し取りながら、その実、肌や肉や骨の奥にある芯を描いているんでさあ。で、因果なことに、心の臓の形状や、その中に詰まっているものを観察する、それが習い性になっちまいやしてね」


「ふうん、そんなもんかねえ」

 気のない返事をしながら、お了は内心ぞくぞくする。

 ――ものを創る人は、やっぱりこうでなくっちゃね。

 いつも飢えているこっちの魂を、荒っぽい手つきでぐいぐい揺すぶってくれる。

 そんな思いを味わいたいために、信濃屋を解放しているようなものなんだから。

 お了の思いを知ってか知らずか、北斎はちょっと唇を歪めてつづける。

「そんなあっしに言わせりゃね、お内儀さん。たいていの男はだめだ。図体ばかりでかくても、からっきしだらしねえ。ちっとばかしの苦労や災難に逃げ腰になる。くだくだしく言い訳ばかりして、てめえで責任を取ろうとしねえ野郎ばっかしだ」

「こりゃまた手きびしいこと」

 われながら間の抜けた返事。


「そこへいくと女は強えや。ことにある種の運命にもてあそばれた一部の女たちは苦労を逆手に取って、むしろ糧にして、てめえの器をでっかくしちまう。そりゃあもう見ていて惚れ惚れしちまうくれえだ。その代表がお内儀さん、あんたですよ」

「やだよ、北斎ちゃん。いまさら惚れられても困るよ」

 年甲斐もなく薄赤くなった自分が忌々しい。

「それそれ、そういうとこなんですよ、あっしが言うのはね。ぽんと打ってやればぽんと響いてみせる、粋な返しなんざあ、並みの女にできる芸当じゃあねえんだ」


 ――あんたこそ胸の空くような返しっぷりじゃないか。

 のんしゃらんと見えて、じつはすこぶる頭のいい証拠だろう。

 若いときから男前に興味のないお了は、頭のいい男が好きだ。

「超辛口の北斎ちゃんが、今日はたんと褒めてくれること。雨でも降るのかねえ」

 照れくささ隠しに、あえて凡庸を言う。

「いやいや、何百、何千というのはちっとばかし大げさかもしれねえが、とにかく数えきれねえほど大勢の人間を描いてきた、あっしの目に狂いはねえはずですぜ。それでもって、それこそが放っておいても信濃屋に人が寄ってくるゆえんですよ」

 

 北斎の世辞を真に受けるわけではない。

 だが、たしかにお了は強くなったと自分でも思う。

 先年の大火のとき、亡父が気に染めた婿養子の清吉が行方知れずになり、その傷も癒えぬうちに、一昨年の永代橋の崩落事故で、両養子の千次とお文、孫のお鈴の親子がそろって犠牲になった。

 ただひとりの遺骸もあがらなかったが、いまだになんの音沙汰もないのだから、ほかの犠牲者と一緒に、三人とも海へ流されちまったのだろうと諦めている。

 ちなみに、深川の永代橋の事故は、富岡八幡宮の祭礼のときに発生した。

 大勢が乗った重みで橋が崩れ落ち、およそ千五百人の参拝客が川に沈んだ。

 追分の親戚のむすめを養女にもらい、それに忠義者の手代を娶わせて、かわいい孫むすめにも恵まれていたのに、お了は何重もの不幸に耐えねばならなかった。


 北斎が絵師の目で看破したように、たしかに自分は強くなったのだろう。

 ――だけどね、強くならなければ生きてこれなかったんだよ。

 だれへともない弁明をこめ、お了はひっそりつぶやいてみることがある。



 

 一茶の場合と同じく、先方から話さない限り、こちらからはいっさい詮索しないことにしているお了は、葛飾北斎についての詳細をほとんど知らなかった。

 それに、同郷人のよしみか、それとも素朴な性格なのか、一茶は自分の恥を隠さずに打ち明けてくれるが、捩花(ねじばな)のように、ひと捻りもふた捻りもしていそうな北斎の言うことは、正直、どこまでが本当かわからないところがある。

 ちなみに、お了が承知している北斎の経歴はつぎのようなものだった。


 浮世絵師葛飾北斎は、宝暦十年(一七六〇)九月二十三日、下総国本所割下水(わりげすい)の川村家に出まれた。幼名は時太郎。のち鉄蔵に改名。

 生みの父母については不詳。

 だが、元禄十四年(一七〇一)三月十四日、江戸城松の廊下で播磨国赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(ながのり)に斬りつけられ、翌十五年十二月十四日、赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助らに急襲されて惨殺された吉良上野介義央(よしちか)附き家老の小林平八郎は、母方の曽祖父に当たる……とは、好んで語りたがる本人の弁。

 事情は不明だが、幕府御用達鏡師をしていた叔父、中島伊勢の養子に入ったが、後年、結婚してから実子に家督をゆずり、生家の川村家にもどっている。

 一方、絵師としては、彫刻家や貸本屋の丁稚などを経て、十九歳のとき浮世絵師の勝川春章に入門。めきめき頭角を現わし、翌年、勝川春朗としてデビューしたが生活は苦しく、七色唐辛子や柱暦の行商で糊口を凌ぐ暮らしが長いことつづいた。


 ただ、まったく別の経歴をまことしやかに教えてくれる人もいた。

 実父は徳川家御用達の鏡師・中島伊勢、実母は吉良上野介の家臣・小林平八郎の孫娘というのである。事実関係を微妙にすり替えた話で、どちらが真実かわからないが、少なくとも二十歳で勝川春朗としてデビューしたことは間違いないらしい。


 苦しい生活の中で絵師として精進したものの、やはり理由は不明だが、師の春章が亡くなると、事実上、勝川派から破門された。北斎が三十三歳のときだった。

 その後、たびたび雅号を変えながら、絵師として独自の道を探っていたが、いまから五年前、四十五歳のころから読本(よみほん 道徳・教訓的な本)の挿絵の分野に進出し、当代きっての人気作家のひとり、曲亭(滝沢)馬琴とも知遇を得た。

 昨年、四十九歳で借家生活から足を洗い、亀沢町にはじめての新宅を構えた。

 

 こうしてお了の頭の中にある記憶をたどってみても、ぷつん、ぷつんと断片的で肝心な点がぼかされており、ひとりの男の半生として一本につながるものがない。

 不明な点が多く、清貧から身を起こした絵師の軌跡がまったく見えてこない。

 ――ああ、もどかしい。

 何事も黒白はっきりさせたいお了の苛々は、いまや最高潮に達そうとしていた。

 で、番頭と手代の不在を機に、思いきって当の本人にぶつけてみることにした。

「あのね、北斎ちゃん。あくまで、もしよかったらなんだけどね」

 娑婆に馴染まないもの作り人の中でも、ぶっちぎりの変わり者の逆鱗にうっかり触れないように細心の注意を払いながら、お了はさりげなく切り出してみた。

「よく考えてみたら、あたし、北斎ちゃんのことをほとんど知らないじゃない? もしかして今日あたり、ちっとばかり話してみる気になったりはしないよねえ」


 すると、北斎は意外にあっさり承諾した。

「ようがすよ。あっしの半生なんて、どうせろくなもんじゃありゃあせんですが、お内儀さんのご退屈凌ぎに、ひとくさり、くっちゃべらせていただきやす。ただ、整理や順序立てっちゅうもんが不得手なあっしのこと、筋道があっちこっちして、話がこんがらかることを、てめえで受け合いやすが、どうか勘弁してやっておくんなせえ」

 ――そうか、節目の五十歳を前に、だれかに話したかったんだ。

 火鉢の向こうの膝をぐっと乗り出させた北斎の胸の内を、お了は了解した。

 白湯で喉を湿らせた北斎は、自分で断ったとおり自由気ままに語り始めた。


 

10

 

 さあて、なにからお話させていただきやしょうかねえ。

 なにしろ、出来立ての飴のようにあっちへ捩じれこっちへ捩じれ、思いきりひん曲がって生きてきたあっしですから、てめえでも覚えていねえことばかりでして。

 ああでもねえこうでもねえと取り沙汰されている、生みの親のことですかい?

 てへへ、そいつはお内儀さんのご想像にお任せいたしやす。


 ただひとつだけ。

 あっしの母方の曽祖父が、

 ――吉良上野介さまお附き家老の小林平八郎。

 このことについてだけは、正真正銘、うそ偽りのねえ話でして。

 自慢じゃねえですが、あっしは曾孫に当たるっちゅうわけです。

 え、とっくに自慢している? このあっしが?

 いや、こりゃあ参ったな、一本取られやした。

 まったくもって、お内儀さんには適わねえや。

 もっとも、そういうところが、あっしのここんとこにびんびん響くんですがね。

  

 ところで、お内儀さん。

 世にいうところの赤穂事件の一件について、どこまでご存知ですか。

 ほう、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目の『仮名手本忠臣蔵』でご存知?

 こいつはちいとばかり心外だな。

 あの与太話はねえ、お内儀さん。

 いくらのたうち回っても抜けきれねえ、てめえの境遇の反動としての判官贔屓、それに加え、安っぺえ義侠心をくすぐってくれる仇討話に目のねえ町人に合わせ、創作を隠れ蓑に、事実を都合よくひん曲げた、まったくのでっちあげですぜ。


 え、まったくご存知なかった?

 いやはや、江戸の出版界の良心とも言われる信濃屋の看板を担うお方が、まさか低劣極まりねえ偽話を信じておられたとはね、正直、がっかりもいいとこですぜ。

 あれあれ、お内儀さん、そんなに恐縮されちまって。

 あっしとしたことが、ちいとばかり口が過ぎやした。

 吉良さまの話になると、つい興奮しちまうのが、あっしのわるい癖でしてね。

 お詫び代わりと言っては何でごぜえやすが、およそ百年前に起きた事件の関係者の数少ねえ末裔として、あっしがお内儀さんにきちんとお話させていただきやす。


 

11

 

 ときは元禄十四年(一七〇一)三月十四日。

 ――ででんでんでん。

 おおっといけねえ、これじゃあ与太話の再現になっちまいますね。

 とにかく、事件の概要を大雑把に申せばこういうことになります。

 

 すっかり春めいてきて、そろそろ桜も咲こうかというその日、江戸城松の廊下で待ち伏せていた赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家筆頭の吉良上野介義央さまに、いきなり斬りかかってきた。危うく逃れた上野介さまは、額に深手を負われた。

 ひと口に申せば、そういういきさつですが、日頃から親交があったわけでもない内匠頭が、父親ほど歳の離れた上野介さまに、なぜそこまでの遺恨を抱いたのか。

 そのことについては、

 ――傲慢な態度が腹に据えかねたゆえ。

 なんぞという下世話な説が、いまだにまことにしやかに流布されています。

 その事実ひとつ見ても例の『仮名手本忠臣蔵』の罪は重いわけですが、これなどまさに死人に口なしのご都合主義の典型でして、浅野内匠頭生来の癇癪持ち気質によって引き起こされた誇大妄想的な疑心暗鬼が、上野介さまへの逆恨みに転じた。

 それこそが真実です。


 ところで、お内儀さん。

 あまり知られておりませんが、この話にはとても重要な前ふりがありましてね、ここんところをきちんと押さえとかないと、事件の真相が見えてまいりません。

 それはこういうことなんです。

 年が明けたばかりの一月十一日の早暁、御年六十一歳におなりの上野介さまは、朝廷への年賀使として江戸を出立された……ということになっていますが、それは表向きの名目でして、もうひとつ、別件で重大な案件を授かっていたのです。


 ――桂昌院さま(第五代将軍綱吉の生母)の従一位(じゅいちい)ご昇階。


 その大義実現のため、京の公家衆に事前に入念な根回しを行ってほしい。

 それが篤い信頼を寄せる上野介さまへの、公方さまからのご指示でした。

 それまでの慣例では、将軍のご生母さまは従三位どまりのところ、

「過去のことは知らぬ。わが母上ばかりは、なんとしても女子としての最高位に」

 ことのほかご所望された訳ですか?

 それはこういうことかと思います。

 第三代家光将軍の四男として誕生された綱吉さまは、本来ならば亜流のお立場にあられながら、先代の家綱将軍に男子がなく、次兄は早逝され、三兄の綱重さまもすでに亡き人という偶然が重なったため、いわば棚ぼたで将軍職を掌中にされた。

 まさに瓢箪から駒ならぬ、瓢箪から将軍というわけです。

 そんな経緯から、ご就任当初から臣民の背面服従を疑っておられた公方さまにとって、ふとしたときに気の利かない何某からご生母のご出自を云云されたりすることは、傷口に塩を塗られるような痛みであったろうと推察されるわけです。

 で、いつかはと名誉挽回を期しておられたところ、朝廷からご生母さまのご昇階についての打診があった。機は熟したと、ひそかに欣喜雀躍されたことでしょう。

 

 さて、話を元にもどします。

 上野介さまが京の公家衆に根回しを行っている真っ最中の二月四日、江戸では、当年とって三十五歳の浅野内匠頭と、弱冠二十歳の伊予国吉田藩主伊達左京亮宗春さまのご両名に、新年恒例の朝廷の使者をお迎えする御馳走役が任ぜられました。

 ちなみに、それまでの慣例にしたがい、どちらも外様のお殿さま方ですし、そのうち内匠頭は、十八年前、十七歳のときにも同じ役を仰せつかっておりますので、

 ――勝手知ったる御馳走役。

 ということになりましょうか。

 同じ日、筆頭の上野介さまほか四人の高家衆にも、接待役が命じられました。

 

 二月二十九日、ふたつの上洛の目的をふたつながらに首尾よく果たされた上野介さまは、還暦過ぎのお身体ながら、早駕籠を飛ばして江戸へ帰着されました。

 思いもよらぬご災難に見舞われたのは、それからわずか十四日後のことです。

 その場に居合わせた留守居番に取り押さえられた内匠頭は、

「上野介どのはわれら御馳走役の指南役の立場でありながら、多忙を理由にろくに教えてくれなかった。ゆえに、不届き者として一刀両断に成敗してくれたのじゃ」

 とかなんとか口走り、幽鬼のように青黒い顔で仁王立ちになっていたそうです。

 長旅のご疲労の癒えきれぬ上野介さまとしては、

 ――内匠頭どのは二度目のお役目ゆえ、いちいち言わずともわかっておろう。

 そんなお気持ちでいらしたのかもしれません。

 

 上段から振り下ろされた刀から逃れた上野介さまは運よく一命をとりとめられ、その場で捕らえられた内匠頭は、公方さまによって、即日切腹を命じられました。

 ――これにて一件落着。

 となるはずでしたが、さらなる問題は、そこから先の不可解な出来事でした。


 しょっぱなにみんなが驚愕したのは、騒動の責任を取り、高家筆頭の御役御免を申し出られた上野介さまの願いが、いともあっさりと聞き入れられたことです。

 これには吉良家の関係者のみならず、周囲のだれもが唖然としたようです。

 なぜって、お内儀さん。

 昼も夜も、四六時中気を張り詰めていなければならない高家筆頭として、歴代のご公儀に心からの忠義を尽くしてこられた吉良家です。

 ましてや上野介さまは、公方さま念願の桂昌院さま従一位昇階のかげの立役者、いわば大恩人に当たる方です。なのに、あんまりな仕打ちではありませんか。


 しかも、吉良家へのご制裁はそれだけではなかったのです。

 あろうことか、公方さまは吉良家のお屋敷の所替えをお命じになったのです。

 それより三年前、富子奥方さまのご実家、米沢藩上杉家から援助を受け、瀟洒なお屋敷を新築されたばかりだったのに、それをそっくり召し上げ、大川の向こう、ご府下といえども人も通わぬ本所の鄙へ追い払うとはなさり方が酷すぎましょう。

 とはいえ、とにもかくにも命令は命令です。

 痛恨の刃傷事件から五か月を経た八月十九日、長いこと空家のままだったため、壁も障子も畳も破れ放題の荒れ屋敷に、ご一家は主従総出で移転されました。

 お耳を病んでおられた奥方さまは、ご実家の上杉家の白金屋敷に引き取られた。そのことだけが、口惜しなみだに暮れる人たちの唯一の慰めだったそうです。


 なにゆえに公方さまは、そこまでの仕打ちをなさったのか、ですか?

 にわかにけむたくなられたのでしょうね、用が済んだ上野介さまを。

 ご公儀の一部始終を知られている。

 逆に申せば、尻尾を握られている。

 その吉良一族を、この際、一気に闇に葬ってしまおう。

 そう謀られたとしても、なんら不思議はないでしょう。

 公方さまといえど、あっしらと同じ人間ですからねえ。



12

 

 ともあれ、今度こそ一件落着かと思われました。

 ですが、地下で密議がつづけられていたのです。


 本所へ移転した、その翌年も暮れの元禄十五年十二月十四日。

 風雅の道に入られた上野介さまは、年納めの茶会を催されました。

 引退されたとはいえ相変わらずご人望のある方ですから、ご人徳を慕う人びとが集われ、おかしな言い方ですが、人目を忍んでひっそり行われた茶会は、ずいぶんと盛会だったそうです。


 口にするのも忌々しい浅野内匠頭の家老、大石内蔵助良雄(よしたか)率いる赤穂の一党が、とつぜん吉良さまのお屋敷に押し入ったのは、昼間の楽しい余韻のうちに上野介さまはじめ、みなさんが穏やかな眠りにつかれた、その夜半のことでした。


 茶道に通じた仲間を言葉巧みに上野介さまに近づけて油断させておき、そいつの手引きで寝静まったお屋敷を襲撃するという、市井の夜盗となんら変わりのない、卑劣きわまりない連中の手によって、上野介さまのお命は奪われました。

 ご享年六十二。

 ご無念のご最期であられました。


 ここからは私事になりますが――


 吉良さまのご家老をつとめていたあっしの曽祖父の小林平八郎央道(ひさみち)は、得意の槍を引っさげて、つぎつぎに襲ってくる夜盗どもと激しく戦いました。

 ですが、寝入りばなでもあり、鼻を摘まれてもわからない真っ暗闇なのに、相手はお屋敷内を知り尽くしておりましたので、無念にも討ち取られてしまいました。


 そのとき平八郎には五歳になる娘がおりました。

 槍を取る前、とっさにその娘を抱きかかえると、

 「この子を頼む!」

 隣室に控えていた臣下の中島夫妻に託しました。

 さようです、さすがはお内儀さん、お察しがお速い。

 その娘こそが、あっしの祖母に当たる人なんですよ。


 かつて、ある事情から若い男女が心中を図ろうとしたところを平八郎が救って、子どものいない中島伊勢夫妻に、夫婦養子として世話をしたことがありました。

 それが幼い娘を託した中島夫妻です。

 つまり、平八郎が人助けをしていなければ、いまのあっしはいないわけです。

 そう考えれば、不思議といえば不思議なえにしですよねえ、お内儀さん。

 

 ああ、あの不名誉な逸話のことですか?

 逸早く逃げ出そうとしたところを捕らえられ、

「上野介はどこに隠れているのだ」

 きびしく尋問されたが、とっさの機転で、

「拙者は下々の身ゆえ、殿さまの居場所は存じ上げない」

 と言って逃れようとしたものの、

「下々が絹の寝衣(ねまき)を着ているはずがない」

 と見破られ、その場で首を落とされたという……。

 それこそ後世の者がおもしろおかしく捻じ曲げた与太話ですよ。

 人の口に戸は立たぬと申しますが、まったく非礼千万な話です。

 ちなみに、平八郎は吉良さまの家老として百五十石を拝受いたしておりまして、央の諱(いみな)は、上野介(義央)さまから直々に賜ったものと聞いています。

  

 凶年が明け、元禄十六年二月四日。

 ――信濃諏訪藩高島城に改易流罪。

 上野介さまの孫でご養子でもある義周(よしちか)さまは、木枯しが吹きすさぶ寒中であるにもかかわらず、粗末な木綿の単衣を着せられ、頭には深編笠をかぶせられ、厳重な見張りがつく流人駕籠に乗せられて、早暁の江戸を出立されました。

 なぜ、ですか?

 夜盗の襲撃時の不首尾な対応の責を問われたのだそうですよ。

 むろん、大嘘もいいところで、実際は、十八歳のお若さでありながら、凛々しく賊に立ち向かっていかれたと、生き残った人たちが声を励まして証言しています。

 ですが、最初から聞く耳などさらさら持たれなかった公方さまです。

 ――目障りな吉良家を根絶やしにする。

 真っ黒なお腹で練られた策謀の、最後の駄目押しにご活用なさったんですよ。


 それから三年後の宝永三年一月二十日(一七〇六年三月四日)。

 生来の蒲柳の質に加え、不慣れな寒冷地暮らしにお身体を蝕まれた義周さまは、罪人の汚名を着せられたまま、幽閉先の諏訪高島城南ノ丸でご逝去されました。

 ご享年二十一。

 それより二十五年ほど前、同じ高島城南ノ丸で流人としてのご長寿を全うされた松平上総介忠輝さまの例に倣って、塩漬けにされたご遺体は、江戸から派遣されたご公儀の使者の検死を待って、翌二月四日、ようやく荼毘に付されたそうです。

 ――せめて自然石の墓石を立ててさしあげたい。

 江戸からお供し、最期まで義周さまをお守りしたふたりのご遺臣(左右田孫兵衛と山吉盛侍)の願いを聞き入れてくださり、ご自身の寺域の裏山に懇ろに埋葬してくださったのは、諏訪大社上社本宮に隣接する、鷲峰山法華禅寺のご住職でした。



13

 

 おっといけねえ。

 あっしとしたことが、吉良さまのことになると、つい柄にもなく馬鹿っ丁寧な口を利いちまいました。らしくもねえとは、まさにこのことでごぜえやすね。この辺がむず痒くおなりでしょうが、お内儀さん、もうしばらくご辛抱くださいまし。

 

 娑婆の耳目を集めた事件から五十年を経た寛延元年(一七四八)八月。

 どこのどいつが思いついた銭儲けの悪企みか知りませんが、

 ――『仮名手本忠臣蔵』。

 なる人形浄瑠璃の上演が、上方の芝居小屋で始まりました。

 先刻から再三申し上げておりますが、こいつがとんでもねえ食わせ物でしてね。

 恥ずかしげもなく大向こう受けを狙った、

 ――お涙ちょうだいもの。

 に仕立て上げた輩のせめてもの良心の片鱗か、あるいは姑息な責任逃れのつもりか知りませんが、たしかに登場人物も時代設定も、そっくり変えてはありました。

 ですが、だれがどう見ても赤穂事件を材にしていることは明らかです。

 なのに、事実とは正反対の、妙ちきりんな筋書きになっていたのです。


 すなわち、こういうことです。

 ひたすら公方さまの御為に正月早々に還暦過ぎのご老体を押して京へ向かわれ、公方さま直々にご内命を受けた桂昌院さまご従一位昇階のため八面六臂のご活躍をされ、ようやく江戸へ帰着されたところを、訳もわからぬうちに斬りつけられた。

 その吉良さまは、煮ても焼いても食えぬ大悪党。

 かたや下手人の浅野内匠頭はなぜか悲劇の英雄。

 馬鹿らしくてお話にもなにもなりゃあしません。

 乳飲み子のころから、上野介さまを襲ったご不運と、果敢に夜盗に立ち向かった曽祖父の話を聞いて育ったあっしは、とんでもねえ与太話の存在を知ったとき、

 ――よくもここまでの大嘘が書けるものだ。

 とことん呆れ果て、しまいには感心までしちまいました。


 ですが、誘い合って芝居小屋へ繰り出す町人どもにしたって同じ穴の狢です。

 虚実の危うさを薄うす知りながら、檜舞台できられる大見得にやんやの喝采をおくり、梲(うだつ)の上がらぬ貧乏暮らしの憂さ晴らしを図ったのですからねえ。

 まさに魚心あれば水心ってえやつですよ、お内儀さん。


 どっちが魚でどっちが水か、そのあたりは微妙なところですが、そのかげで悲憤慷慨する関係者が少なからずいるってえことなんぞ、だれも知ったこっちゃねえ。

 ほんのいっとき、てめえらが楽しめればそれでいい。

 娑婆では歯向かうことが適わぬ相手に毅然と立ち向かっていく役柄に、心許ねえ身上に心持ちまで重ね合わせ、すかっと胸の空く思いを味わえればそれでいい。

 そういうことでしょう、お内儀さん。


 片方の魚だか水だかにしても、薄汚え了見は同じだ。

 芝居をかける興行元は大入りで儲かればそれでいい。

 演じる役者のほうは自分の役が当たればそれでいい。

 観せるほうも観るほうも、だれかの作為を疑ってみることすらしねえ。

 いや、それより以前に、本当はどっちに理があるかなんぞ関心がねえ。


 なにより大事なのは、祭りがつづくことなんですよね、お内儀さん。

 果てたあとのうそ寒い現実を見たくねえから、たとえだれかの恣意に幻術されたまんまでもいいから、祭り気分のまんま娑婆を駆け抜けてしまいてえんですよ。

 そう考えれば、なにやら背筋にひやっとしたものが奔るじゃありませんか。



14

 

 さてと、ほかのだれでもねえお内儀さんに百年前の事件の真実をご理解いただけたんで、あっしのここんところにつっかえていたものも、すうっと降りやした。

 そろそろ話を、あっし自身のことにもどさせていただきやしょう。


 最初の記憶は、六歳ぐらいのころ、はじめて犬の絵を描いたことです。

 むろん、がきの遊びですから、落書きみてえなものだったはずですが、

 ――絵を描くのはおもしれえな。

 子ども心が輝いたことを覚えています。

 ちょうどそのころ、木版刷りの技術の進歩により、多色摺の錦絵がはじめて世に出たんだそうですが、当時のあっしには、そんなことは知るよしもござんせん。

 

 それから寺子屋へ行ったり行かなかったり、親父やおふくろから命じられるままうちの手伝いなんぞしていましたが、いつまでも遊ばせておくわけにゃいかねえ、そろそろ外へ修業に出そうということにでもなったんでしょうね、きっと。

 十二歳で貸本屋の小僧になりました。

 背丈よりも高い貸本の山を背負って得意先をまわっているうちに、文章に付ける挿絵というものを見よう見まねで覚えやしてね、夜、行燈のあかりでその日見た絵をなぞってみるんですが、それがおもしろくてね、夢中になって描いたもんです。

 ところがです。

 万事において身勝手なあっしのことですから、挿絵の模写の腕が上がるにつれ、人さまが創ったもので日銭を稼ぐ仕事に飽き足らなくなってきちまったんです。

 さあ、そうなると、一日でも我慢できねえのがあっしの性分だ。

 さっさと貸本屋をやめ、知り合いの彫刻家に弟子入りしました。


 ここではまず木版印刷の版木彫りを教わりましてね。

 てめえで申すのもなんですが、こいつはなかなか筋がいいぜってえんで、入門の翌年には、兄弟子連をさておき、当時売り出し中の雲中舎山蝶の洒落本『楽女好子(らくじょごうし)』のうち末の六丁の文字彫りを任せてもらうまでになったんです。

 しかも、新人にしては大出来と好評を博したんで、

 ――よし、おいらは彫刻家として一旗揚げよう!

 褒められ好きなあっしは大いに意気込みました。


 ところがですよ、お内儀さん。

 好事魔多しというたとえは、この場合、当たっているかどうか……。

 生家の家中にちょいとした事情が生じやしてね、大人同士の取り決めで、あれよあれよと言う間に、中島家の養子に入ることになっちまったんです。

 ええ、そうです。

 曽祖父の小林平八郎に心中寸前を救われた男女が夫婦養子に入り、本所のお屋敷で上野介さまが赤穂の賊どもに襲われたとき、家老の平八郎が五歳の娘を託した、その中島家ですから、あっしにとっちゃあ、祖母の家ということになりやす。

 え、生家の事情とはなんだとはお訊きにならねえ?

 そういうとこなんだよなあ、あっしが好きなのは。


 そういうわけで、せっかく志した彫刻師の道を泣く泣く諦め、中島家代々の鏡師の仕事に就いたわけなんですが、これがまたあっしの性に全然合いませんでねえ。

 なぜってお内儀さん。

 鏡師は職人ですから。

 自分の流儀は許されず、一から十まで親方の言うとおりにしなけりゃならねえ。

 お内儀さんもとうにご承知のとおり、あっしという野郎はてめえの思うがままにやりてえほうですから、そこんところがどうにも肚に収めきれませんでね、正直、毎日がいやでいやで仕方なかったんですよ。



15

 

 それでもしばらくは我慢していたんですぜ。

 けれども、堪え性のねえあっしのことだ、そのうちにどうしても絵を描きたくてたまらなくなりやして、親父に頼んで中島家に詫びを入れてもらい、役者の似顔絵の第一人者として売り出し中の浮世絵師、勝川春章師匠の門を叩きました。

 安永七年(一七七八)、十九歳のときのことです。


 ええ、そりゃたまらなくおもしろかったですよ。

 てめえから望んで飛びこんだ娑婆ですからねえ。

 師匠や兄弟子たちの下仕事を手伝いながら技を見覚えやしてね、貸本屋の小僧のときと同様、夜になるとその日頭に入れた作業を夢中になって復習ったもんです。

 で、二十歳のときに師匠から、

 ――勝川春朗。

 の名前をちょうだいしやした。

 これがあっしのはじめての雅号ということになりやす。


 初仕事は黄表紙の遊女の挿絵で、ほかに役者絵も描かせてもらいやしたよ。

 ええ、いずれも小型の細判で、中村座の芝居『敵討仇名かしく』の市川門之助の小間物屋六三郎および岩井半四郎のかしく、それに市村座の芝居『新薄雪物語』の瀬川菊之丞の政宗娘おれん、および中村里好のふく清女ぼうの四枚です。


 入門からわずか一年で顔見世とはさすが?

 いや、そうでもねえんですよ、お内儀さん。

 こういう言い方をすると、また生意気のなんのと言われそうですがね、六歳からこの方、ずっと絵を描いてきたあっしとしちゃあ、むしろ遅すぎるくれえでして。

 腕が鳴って、胸が騒いで、一枚でも多く描きたくて仕方ありませんでしたよ。


 え、まだなにか?

 あれほど歌舞伎をこき下ろしていたのに、なぜ役者絵を描く気になったのか?

 いやあ、商売人でありながら、お内儀さんのおかしな潔癖症には参りやすなあ。

 仕事ですぜ、仕事。

 あっしは絵筆一本で食っていく身ですからねえ。

 銭を出すと言われたら、なんだって描きやすよ。

 どうせご承知でしょうから、いまから白状しておきますがね、

 ――「忠臣蔵討入」。

 つい数年前のことですが、たしかにあれなんかも描きましたよ。


 上野介さまや曽祖父が斬殺された夜盗を描くことに抵抗はなかったのか?

 ご無礼ながら、子どもみてえなことを言わねえでくだせえよ、お内儀さん。

 あっしは一介の貧乏絵師ですからねえ、絵が銭になりゃあそれでいいんです。

 ですから、先刻から申しているように、あっしはそういう下衆野郎なんですよ。

 おや、とうにご存知でしたか。

 ま、そうでしょうな。

 そうでなきゃ、あっしなんぞと平気でくっちゃべっちゃあいられませんや。

 こう申し上げてはなんですがね、お内儀さん。

 お内儀さんにもあっしらと同じ血が流れていなさるっちゅうことでござんすよ。

 

 ところで、あっしらの娑婆のことはご存知ですかい?

 お仲間の地本問屋から少しばかり聞きかじっただけ?

 なら、ちいとばかりご説明させていただきやしょう。


 いまの娑婆に出まわっている浮世絵のもととなる、

 ――錦絵。

 これを最初に手がけたのは、鈴木晴信という大先達の絵師でしてね、細身の美人を描いた紅摺絵の、たとえば「風流四季歌仙」「風流やつし七小町」「見立三夕 定家 寂蓮 西行」、錦絵では「夕立」「座鋪(ざしき)八景」「清水の舞台より飛ぶ美人」「夜の梅」なんかは、お内儀さんもご覧になっておりましょう。

 その晴信の流れを引き、石川豊信や一筆斎文調といった人たちが美人画を広める一方、あっしの師匠の勝川春章は役者絵に独自の境地を開きましたし、それとは別に、喜多川歌麿は晴信流とは異なる独特の美人画を生み出して一家を成しました。

 まあそんなところです。


 おっといけねえ、またまたおかしな口調になっちまいやした。

 柄にもなく緊張すると、妙な癖が顔を出したがりやしてね。

 まったくもって面目ねえことでござんすよ。

 

 

16

 

 え、黄表紙の挿絵への批判?

 もちろん承知していやすよ。

 ひでえ場合は作者不詳だったり、たとえ明かされていても、本業は表具屋だったり下級武士だったり煙管屋だったり、要するに市井の素人が面白半分に書き散らした、どうしようもねえ駄作ばかり。なかには絵師のあっしが作者を兼ねたものまである。

 そのうえ、享保の改革のときの「出版条目」で定められた奥付に、版元の記載がねえものまであることから、当時のあっしが関わった黄表紙のうちかなりの本が、ほとんど値打ちのねえ入銀本(にゅうぎんぼん=自費出版)だったにちげえねえ。

 そういった手合いの話でがしょう。


 いえ、そう思ってもらって、あっしは一向にかまいやせんよ。

 口三味線のみなさんがおっしゃるとおりでごぜえやすからね。

 実際の話、お内儀さん。

 人気絶頂の勝川春章の門下といったところで、師匠が弟子の生活の面倒まで見てくれるわけじゃねえですから、春朗を名乗って顔見世したばかりの新人が絵筆一本で食っていくなんてえことは、ある意味、荒唐無稽な絵空事でやんしたよ。


 兄弟子たちも親戚に無心したり、幼馴染みの芸者衆に取り入って座敷の太鼓持ちみてえなことをして金蔓を見つけたり、それぞれ苦労しておりやしたが、不器用なあっしは、手っ取り早く日銭を稼げる棒手振りに身をやつしやして、尻っぱしょりに頬っかぶりで、七色唐辛子や柱暦を売り歩いて糊口を凌ぎやした。

 あ、申し遅れやしたが、稼ぎは半人前でも、一丁前に所帯なんぞ持ちやしてね。

 え、そういうことは速いんだね、ですか?

 やだな、からかわねえでくだせえよ、お内儀さん。

 てへへ、そのうえさっそく餓鬼までぽこぽこできちまいやしたんでね、そいつらを食わせるためでしたら、人さまに言えねえことまで、なんでもやりやしたよ。


 毎日米びつの底を気にするような貧乏暮らしでしたから、たまに物好きな客から絵の依頼が飛びこんだ日にゃあ、押し頂くようにして描かせてもらいやした。

 逆にお茶っぴきがつづくときなんざあ、ええい、面倒だってえんで、てめえ自身で下手な文を書いてそれに絵を付け、とにもかくにも値段を付けて売れそうな一冊に仕上げて地本問屋へ持ちこんだ、なんてえことも何度かありやした。

 背に腹は代えられぬと申しやすが、うちで黄色い口を開けて待っている餓鬼どものために、なにをどうしても銭を得る算段をしなけりゃあならなかったんです。


 ですから、その時代の筆が荒れていると言われても、返す言葉もねえです。

 ただ、若描きの未熟を云云されるのは、ちいとばかり癪ではありやすがね。


 画号を変えてみたのも、そういう日常から出た駒のようなものでしてね、

 ――群馬亭。

 たしか二年ほどのあいだでしたか、そう名乗っていた時期もありやした。

 え、てめえで付けた雅号の由来ですか?

 さあて、どうでしたっけ、とんと忘れっちまいやした。

 おそらくあっしのことですから、ごく適当に付けたんじゃあねえでしょうか。

 あっしはね、お内儀さん。

 名前なんてえものになんの意味も見い出せねえんですよ、ええ、いまだにね。



17

 

 役者絵のことですかい?

 てめえで就いた師匠でありながらなんなんですがね、勝川派の一門として活動をつづけていくうちに、あっしには役者の似顔絵、とりわけ芝居小屋の表に貼り出す看板絵は向かねえことがだんだんわかってきやしてね。

 正直なところ、見得を切った表情に役者の魂を映すことに、面白みを見い出せなかったんです。かといって、美人絵も相撲絵も、いまひとつ気乗りがしませんで。

 ややもすれば手も止まりがちで、いやいや描いているうちに、

 ――浮絵。

 といわれる分野に、あっしの絵筆が勝手に走りはじめたんでごぜえやす。

 ひと口に申せば、人物だけでなく風景や花鳥も描く浮世絵でござんすね。


 画号も群馬亭から勝川春朗にもどし、それまでのいやいや仕事の分だけ、がぜん興味が湧いてきた浮絵に力を入れてみたところ、これが見事に壺にはまりやして、少しずつ贔屓筋も広がり、版本の挿絵の注文もぽつぽつ来るようになりやした。

 そうなってくると、娑婆もげんきんなものでして、

 ――市場通笑、平秩(へづつ)東作、山東京伝、宝井馬琴。

 といった一流どころの戯作者があっしを指名してくれるようになりやした。

 ようやく絵師として食っていける目処が見え始めていたわけですが、ところがどっこい、そうはやすやすとは問屋が卸してくれなかったんですよね、これが。


 ここで登場するのが、お内儀さんもご存知の、兄弟子との一件。

 あらためてお話すれば、事の次第はこういうことでごぜえやす。


 あるとき、あっしは両国の絵草紙問屋から招牌(看板)を頼まれました。

 てめえで言うのもなんですが、あっしが描く商店の招牌にはなぜか不思議な力があって客を呼び込むってえんで、けっこうな指名が入ったんでごぜえやす。

 おそらくは、無名時代からの黄表紙の挿絵で鍛えられた、

 ――物語性。

 みてえなもんが、ものを言ってくれたのかもしれませんが。

 そんなわけで、描き上げたばかりの絵を、いよいよ店の庇に取り付けようと梯子に上っているところへ、とつぜん兄弟子の春好の野郎が現われましてね。

 弁解がましく、たまたま通りかかっただけだと言うんですが、根が姑息な野郎のことだ、どこかで見張っていたにちげえねえと、あっしは睨んでおりやすがね。

 その春好の野郎があっしの絵を指さして、悪しざまにけなしやがったんです。


「こんな下手な絵を娑婆にさらしたら師匠の名が泣く。勝川派一門の恥だ」

 そう言うなり、いきなりびりっと引き裂いたんですぜ。

 信じられやすかい、お内儀さん、大人の所業として。

 え、その場で喧嘩に、ですかい?

 いや、かようなあっしにも一応の分別めいたものはごぜえやすから、大事な顧客の前ではありますし、弟分のあっしが頭を下げて、おとなしく引き下がりやした。

 ですが、あのとき受けた恥辱と忿怒は、金輪際、忘れがたいものになりやした。


 そんなこともあってますます勝川派に嫌気がさしていたとき、ひょんなことから浜町狩野家五世の狩野融川師匠と知り合いましてね、絵だけじゃなく詩もよくするという奥行きのある人柄に惹かれ、内密に入門させてもらったんでごぜえやす。

 そんなことが通るのか、ですかい?

 へへ、狭い絵師の娑婆ですからねえ。

 ご案じいただいたとおり、勝川派にそのことが露見したときの大騒動ときたら、そりゃあ手ひでえもんでしたが、平謝りにあやまってなんとか事を治め、しばらくは勝川派と狩野派の両派に二股かけたような、中途半端な塩梅でおりやした。

 しかし、あっしの心持ちはとうに勝川派を離れていやしたから、春章師匠が亡くなると、あっしは自ら身を引き、勝川姓を返上して叢(むぐら)を名乗りやした。



18

 

 その翌年、正式に、

 ――二代目俵屋宗理。

 と改名し、勝川派とはきれいさっぱり縁を切って、以後は狂歌師と組んだ摺物に専念いたしやしたし、住まいも小伝馬町から浅草大六天神の脇町に移しやした。

 さようです、まさに心機一転というところでごぜえやす。

 いや、そうですか。

 その当時の摺物「潮干狩」「夕涼」を、お内儀さんもご覧になってくださった?

 しかも、お好きでいらっしゃる?

 そりゃあ、てえへんありがてえ。

 目の前で申し上げるのも、ちと照れやすが、ほかのだれでもねえ、お内儀さんに認めてもらえるってえことは、あっしにとってなによりの贅沢でごぜえやすから。

 お内儀さん菩薩さま、なんまんだぶ、なんまんだぶ……。


 で、唐突ゆえ面食らったというのは、俵屋宗理の跡目を継いだことですかい?

 いきさつはいろいろありやすが、ごくおおざっぱにお話させていただきやす。

 初代宗理のことはご存知で?

 へえ、さようです。

 琳派の末流の絵師でして、そうですね、有名なのは「楓図屏風」「朝顔図屏風」あたりでごぜえやすが、花鳥画に優れた才を発揮された大先達でごぜえやす。

 で、役者絵の錦絵に飽き足らなくなり、風景や花鳥画に惹かれていたあっしは、僭越ながら宗理の画風にてめえと似通ったものを感じていたんでごぜえやす。

 そのことをふと話しましたら、そういうことならばってえんで、その人の計らいで思いがけなく二代目を継がせてもらえることが適ったという次第でごぜえやす。

 ひょんなことからひょんなことが起きるものでごぜえやすねえ。

 え、あっしが引き寄せるものを持っている?

 そうかなあ、てめえじゃわかりやせんが。

 

 話が前後するが、勝川春章師匠がご存命中に破門されたという説がある?

 さようですか、そんな有象無象がお内儀さんのお耳にも入っていやしたか。

 いや、面目ねえ。

 なにね、それも春好一派が流した埒もねえ与太話なんでごぜえやすよ。

 狩野派への入門の件で申し訳ねえことにはなったものの、あっしに絵の手ほどきをしてくださった春章師匠への不義理は、最期まで慎んだつもりでごぜえやす。

 ですが、どこへとも知れねえ娑婆へ向かって、そりゃあ事実とちがうと抗弁してみても仕方がねえですから、そう思いたがるやつらには思わせておきやしょう。


 え、まだほかにも気になることが?

 やだな、お内儀さん、はっきりおっしゃってくだせえよ。

 あっしが二股かけた片っ方、狩野融川師匠にも破門されたという話ですかい?

 まったくもって、やれやれですなあ。

 まあねえ、悶着と言えば言えそうな一件が、あるにはありやしたよ。

 二代さま(徳川秀忠)暗殺の嫌疑をかけられた本多正純公の宇都宮吊り天井事件ならぬ、宇都宮柿採り絵事件とでも名付けたいような、ちょいとした出来事がね。


 融川門下が打ちそろって日光東照宮へ向かうときの話でごぜえやす。

 宇都宮の旅籠の主人に請われ、融川師匠がその場で絵を描かれたんですよ。

 男の子が長い竿の先で熟柿を落とそうとしている場面を、さらさらっとね。

 旅先のくつろぎのまま、力まずひょいひょいと絵筆を運んだような洒脱な作品がほんの寸の間に出来がったのはさすがでごぜえやした。

 ところが、あっしが横から拝見していますと、竿の先は柿の実を通り越して枝の上に出ているのに、竿を操っている子どもの足は、草履の上で爪先だっている。

 あれはおかしいと、あとで、つい口にしたんでごぜえやす。

 すると、そのことを師匠に言いつけたやつがいたんですな。

 弟子が師匠を評するとは生意気だと、大目玉を食らう覚悟でいたんですが、先刻も申し上げたとおり、詩心のおありになる、ふところの広い師匠でしたから、

「こいつは参った。まさに負うた弟子に教えられたようじゃな」

 そう言って一笑に付されやした。

 それが事の真相でごぜえやすよ。

 

 え、いろいろな諍いの根っこは、あっしへの嫉妬にある?

 さあて、そういうことにはいたって疎えほうですから、あっしにはなんとも。

 まあ、そう言われてみれば、たしかにそういうこともあったかもしれやせん。

 ですがね、お内儀さん。

 魑魅魍魎が犇めく人の心の内なんぞ、斟酌してみたって仕方ありますまい。

 それより大事なのは、

 ――どれだけの仕事を成し得たか。

 その一点じゃあねえでしょうかね。

 

 そんな妙ちきりんな話よりお内儀さん。

 とっておきの吉事はご存知でしたっけ?

 あっしの絵師としての在り様をきっちりと定めてくれた、ささやかな逸話を。

 まだお聞かせしていなかった?

 それじゃあ、ちょうどいい、お耳直しのつもりでお話させていただきやしょう。


 二代目宗理を名乗ってしばらくしたころのことでごぜえやす。

 ある大店の大旦那から、初孫のための五月幟の注文をいただきやした。

 貧乏なくせに客の品定めをしていたあっしは、棒手振りから叩き上げた成功者にありがちな銭の亡者っぺえところが微塵もなく、この上なく人の好さそうな顔立ちとやさしそうなまなざしが気に入りやしてね、大事な初孫の魔よけになるように、いつも以上に丹念に鍾馗の絵を描いて、定められた日に持参したんでごぜえやす。

 すると、大旦那さま、こちらが面食らうほど喜んでくだせえやしてね、

「これはすばらしい出来栄えだ。せいぜいご祝儀をはずませてもらいますよ」

 と言って、なんと大枚二両もはずんでくださったんでごぜえやすよ。

 極貧は脱していたものの、当時のあっしにとっても二両は大金でごぜえやす。

 このときほど絵師冥利に尽きる感激を味わったことはいまだにございやせん。


 それで、あっしはあらためて妙見菩薩さまに祈願しやした。

 ――これを励みに、あっしは生涯を絵師として生き抜いてめえりやす。

 同時に、勤勉な百姓の、

 ――朝星夜星。

 あれを見習うことにいたしやした。

 さようです、朝は未明から夜が更けるまで絵の研鑽をつむぞ、とね。

 妙見菩薩さまに誓ったことを、あっしはあくる日から実行に移しやした。

 暗いうちに起きて即座に絵筆をとり、日がな一日がむしゃらに描きつづけ、疲労で腕があがらなくなり、描いた絵を行燈にかざす目が霞むようになってから絵筆を置き、遅い夕餉の蕎麦二椀を食べてから床に就く、そういう毎日でごぜえやす。

 へえ、あっしはいまでもその習慣を欠かしたことはごぜえやせん。


 

19

 

 おっしゃるとおり、まあたしかに制約めいたことはごぜえやした。

 由緒正しい二代目俵屋宗理を名乗るからには、それまでのように黄表紙の挿絵を気楽に描き散らすことなんざあ、げんに差し控えなけりゃあなりやせん。

 ですが、みんなを食わせていくには、どうしても必要な仕事でごぜえやす。

 そこで、ひと思案いたしやして、てめえの考えながらいさささか姑息ではごぜえやすが、背に腹は代えられませんゆえ、雅号を遣い分けることを思いつきやした。

 すなわち、

 ――黄表紙にはいっさい名を出さず、摺物と狂歌本で宗理を名乗る。

 へえ、そういうことでごぜえやす。

 

 いまでは娑婆にちいっとばかり知られるようになっている北斎の雅号。

 それをはじめて遣ったのは寛政九年(一七九七)のことでごぜえやした。

 最初は北斎宗理の名を思いつき、摺物と狂歌本に遣ってみたんですが、そのうちに少しくどいような気がしてきたので、思いきって北斎のみにあらためてみると、これが意外と落款の座りがよかった。

 とまあ、そういういきさつです。


 恥ずかしながら、このころから、

 ――「腰をひねり前かがみになった美人画」の北斎。

 なんて言っていただけるようになりやした。

 え、さようですか、「辻君図」「二美人と小童」「着物のはだけた美人」なんかお内儀さんもご覧になってくださっていて、しかもお気に召してくだすった?

 いや、うれしいなあ。

 美人画っちゅうもんは、女子に好かれてなんぼでごぜえやすからねえ。


 へえ、さいです、雪舟にも、唐絵にも、それから欧州画にも学びやした。

 それもあっしの場合、これといった師匠に就かず、てめえで好き勝手に勉強し、それぞれのいいところだけ頂戴するっちゅう我儘な方法を取りやしたんで、むかしの絵の朋輩衆とは考え方も描き方もますます異なる方向を向くようになりやした。


 

20

 

 ここでまたまた雅号を変えた、その訳ですかい?

 さいですね、つぎからつぎへと興味のおもむくまま、いろいろな絵の勉強をしていくうちに、てめえでも、てめえの娑婆っちゅうもんがわからなくなっちまったんです。

 で、俵屋宗理の名を門人の宗二にゆずりやして、これからはどの派にも属さず、いわば一匹おおかみの絵師として活動していくことを決意したんでごぜえやす。

 そして、妙見さまの北斗七星にちなんで、

 ――北斎。

 を名乗らせてもらうことにいたしやした。

 同時に、やはり妙見さまにちなんだ辰政(とき)や雷震、可候の雅号、やがては画狂、画狂老人、また葛飾北斎などの雅号も遣い分けるようになりやした。


 独立の挨拶状に、

 ――師造化(しぞうか)。

 と大きく記したのは、

 ――森羅万象こそ唯一の師。

 狭隘な派閥にとらわれがちな絵師の娑婆への三下り半でもごぜえやした。


 へえ、うっかりしておりやした。

 ――写楽。

 を名乗った時期もたしかにごぜえやす。

 黒雲母(くろきらら)を背景に役者の上半身をやや大げさに描いた大首絵で、意外なほどの評判をいただきやしたが、娑婆にはいっさいあっしの素性を明かさぬまま、一年ほどですっぱり撤退いたしやした。

 なにね、日銭欲しさに、いったんは足を洗った役者絵に返り咲いてみたものの、あっしの本業はやはり役者絵ではねえと思い知ったからでごぜえやす。

 

 恥を忍んで私事を打ち明けますと、このころのあっしは四十路に足を踏み入れておりやしたが、三人の子を成した恋女房に死なれちまいやして、寂しいは寂しいし男やもめは不自由で仕方ねえしで、親戚の紹介で後添いをもらいやしたが、早々に餓鬼も生まれやしてね、新しい家族の暮らしが始まっておりやした。

 かたや仕事の面では、風景に絵師の喜びを見い出すようになっておりやしてね、お内儀さんもご承知の「東都名所一覧」「隅田川両岸一覧」なんぞを手がけさせてもらいやした。

 てめえで継いでおきながら、いっときはがんじがらめになって苦しんでいた宗理の雅号の束縛から解き放たれやしたので、黄表紙の挿絵も描くようになりやした。

 最初に手がけたのは、当代一の人気作家の山東京伝と組んだ『化物大和本草子』でごぜえやすが、やはり流行作家の宝井馬琴と組む仕事も増えてめえりやした。



21

 

 そういえば、いつだったか馬琴がこぼしていやしたが、

 ――鈴木牧之(ぼくし)。

 なる越後の呉服商がこちらにも出入りしているとか。

 やっぱりね。

 いえね、馬琴が申すには、雪国の生活をつぶさに著した大量の原稿の出版を目論んでいるとかで、版元を紹介してくれと、うるさくせがまれてやりきれねえとか。

 信濃屋さんにさような話は?

 さいですか。

 その野郎も一応の心得っちゅうもんは持っているんでしょうな。

 これも馬琴の評でごぜえやすがね、田舎者は一見朴訥そうに見えやすが、なに、ぞんがい厚かましくて、物事の限度っちゅうもんを知らねえから困りやす。

 ちょいと考えてみりゃわかりやしょう、花のお江戸にゃまったく縁のねえ、遠い雪国の暮らしなんぞに爪ほども興味のある者が、いってえ何人おりましょうや。

 え、お内儀さんも田舎の出?

 そういえばそうでしたなあ。

 いや、こいつは参ったなあ。

 あの、決してそういう意味で申したんじゃあござんせん。

 あくまで一部のという意味でごぜえやして、どうかわるく思わねえでくだせえ。

 

 言い訳ついでっちゅうわけじゃあねえですがね。

 戯作者の馬琴とは、大当たりした『小説比翼文(ひよくもん)』をしょっぱなに『椿説(ちんせつ)弓張月』『新篇水滸画伝』などの読本で、たびたび組むようになりやして、いずれの本もそれなりの評価をちょうでいしておりやす。

 おかげさんであっしは、

 ――読本の北斎。

 なんぞと言われるようになりやした。


 あくまで文の添え物で、隅っこのほうにちまちました場所しか与えてもらえねえ黄表紙とちがい、読本は、見開きの両頁にまたがる大きな絵を描かせてもらえやすから、同じ挿絵といっても、見映えっちゅうもんがまったくちがいやす。

 最初はそのことに満足し、大いに張りきっていたんでごぜえやすが、生まれつき根性の捩じくれたあっしのことですから、じきに物足りなくなってめえりやして。

 あ、絵じゃなしに、文のほうに。

 で、僭越とは思いながら、馬琴が書いた文に注文をつけたんでごぜえやすよ。


 するってえと、あんな荒唐無稽な絵空事を、さももっともらしく書いているようなやつでも、やっこさんにもやっこさんの矜持っちゅうもんがあったんですなあ。

 あっしのつけたいちゃもんに、めっぽう怒りやしてね。

 怒髪天を突くありさまを絵に描きてえぐれえでしたよ。

 ですが、あっしは一歩も退かねえ、向こうも退かねえ。

 で、いつまで経っても埒があかねえんで、ちょいとばかり一計を案じやしてね、逆にしてやったんですよ、なにをって、登場人物の位置関係を。

 文では右に立っている男を絵では左に、左に立つ女を右にってえな具合にね。

 しかも、遅筆を理由に、締切ぎりぎりまで絵を渡さねえ戦法でごぜえやすから、やっこさんが文句をつける暇もなく、そのまんま本になっちまうってえ仕組みで。

 いや、やっこさんの怒るまいことか。

 ふたたび怒髪天を突きましたなあ。


 ですがね、お内儀さん。

 先方もさるものでごぜえやしてね、そのうちに、あっしの肚の内を見越し、文をわざと逆に書いてくるっちゅう戦法に出てまいりやして、あれには笑いやした。

 ははは。いまのところ、どっちどっちの勝敗ですなあ。

 しかもですよ、お内儀さん。

 食い詰めた一時期、あっしは家族ともども馬琴邸に食客として世話になっていたんでごぜえやすが、その最中にも文と挿絵の関係についてはいっさい手加減せず、丁々発止でやり合ったんですから、どうです? 呆れたもんでごぜえやしょう。

 いまさら申すまでもござんせんが、あっしっちゅう男はそういう野郎でしてね、てめえで得心できねえものは、飯の世話になろうとなるまいとがんとして受け付けねえんですから、てめえながら、てめえ自身が手に負えねえんでごぜえやすよ。

 ですからね、お内儀さん。

 あっしが申し上げてえのは、田舎者は厚かましくて閉口するだのなんだの、馬琴の野郎の言うことなんざあ、いっさい気にしねえでくだせえっちゅうことでして。



22

 

 ふうう、大汗をかいちまいやした。

 で、なんでしたっけ、発禁本のこと?

 あいたた、さようなことまでご存知で。

 もっともお内儀さんは出版の玄人さんですから、当然といえば当然ですがね。

 ――『潮来絶句集』

 それがお上から大目玉を食らった本ですが、いささかのいきさつがごぜえやす。

 ことのはじまりは富士唐麿という儒者でごぜえやして。

 その野郎がね、学者のくせして新吉原仲の町の浪速屋という茶屋の女に入れあげやしてね、三日にあげず、どんちゃん騒ぎをしておったそうでごぜえやす。

 そうこうするうちに、茶屋の女たちが慰めに唄う、

 ――潮来歌。

 に耳をとめ、こいつは面白えってんで、漢詩に作り直したんそうでごぜえやす。


 ♪ お前主持ち わたしは抱え 天井つかえて ままならぬ。

 ♪ 潮来好くような浮気な主に なぜなぜ惚れた わしが身の因果。


 さような文句でしたが、さすがは学者先生、一見こむずかしげに書き直した。

 でね、そのことを知った蔦重がね、あっしに絵を描かせたんでごぜえやすよ。

 ところが、これがまた運よく腕のいい職人に当たったおかげで、彩色摺が絶妙にうまくいきやしてね、てめえで描いておきながらなんでごぜえやすが、上々出来の惚れ惚れするような仕上がりになりやした。

 ――これはいける。

 そう思ったとおり、人気が出て飛ぶように売れ、版元の蔦屋のふところを大いに潤わせた、とそこまではよかったんでごぜえやすがね、そのう、なにがね……ですから、あっしの絵筆がね、ほんのちいとばかり、そっちのほうに滑り過ぎやして。


 へえ、さいです。

 やっぱりお内儀さんは察しが速えや。

 あっしとしてはあるがままを描いたつもりでごぜえやしたが、町役人の曰く、

「ここまで生々しく描写されると、見る者によっては妙な心持ちを起こしかねぬ」

 ってえんで、いたくお叱りを受けたってえ次第でごぜえやす。


 蔦重は蔦屋重三郎。

 へえ、さようです、寛政の改革の出版統制のときに、五十日の手鎖の刑を受けた山東京伝と共に、身代の半分を召し上げられた、あの地本問屋でごぜえやすよ。

 なに、少しも案じるこたあござんせん。

 なにがどうあってもお堅い良質本しか出版なさらねえ信濃屋さんとは正反対に、銭儲けの種を選りすぐる才にとりわけ長けている蔦重のことですから、その程度のお咎めなんざあ痛くも痒くもなかったでごぜえやしょう。



23

 

 え、長崎のオランダ商館長とその侍医から二対の絵巻を依頼された、あの一件でごぜえやすかい?

 こいつも参った話でごぜえやすなあ。

 さぞかし因業絵師として、お内儀さんのお耳にも届いているんでしょうなあ。

 いや、商売人として当たり前?

 それどころか、むしろ天晴れ?

 ほかのだれでもねえ信濃屋のお内儀さんにそう言っていただけると、日本人の恥呼ばわりされたあっしのここんところも、少しは晴れるってえもんでごぜえやす。


 そろって碧い目に金色の髪をしたやっこさんたち、国への手土産にしてえから、あっしら日本人の一生を絵巻に描いてほしいというんでさあ、それも男の巻と女の巻の二巻立てでね。

 人物も風景も花鳥も描いてきたあっしにとっちゃあ、願ってもねえ注文ですし、内々ながら御足も相当はずんでくださるっちゅう話もありやしたんで、張りきって描かせていただきやして、てめえでも満足のいく出来栄えに仕上がりやした。


 ところが、お内儀さん。

 旅の恥は掻き捨てっちゅうのは、ああいう輩をいうんでしょうなあ。

 いえ、商館長さんはさすがに人物でごぜえやしてね、出来上がった絵巻をお届けすると、約束の百五十金を、その場でぽんと気前よく払ってくだせえやした。

 とんでもねえのは、侍医の野郎のほうでごぜえやす。

 いつも医者然としてふんぞり返っていやがるくせに、

「銭がねえから、約束の半値に負けろ。この程度の絵巻ならそれで十分だろう」

 ぬけぬけと言い出しやがったんですよ。

 さようです、日本人の通訳を介してね。


 ここだけの話ですがね、お内儀さん。

 あっしの経験からすると、異国人は二種に分けられるようでごぜえやす。

 すなわち、縁あって住むことになったからには、一所懸命にその国の言語を覚えようとするやつと、はなっからその気がなくて、長い人生の寸の間の腰かけ程度の島国のみょうちきりんな言葉なんざあ、覚えるだけ損だと割りきっているやつと。

 さしずめ、商館長さんは前者、侍医の野郎は後者っちゅうところでしたなあ。

 

 外(と)つ国の人たちの目にさらされたとき、日本人の恥にならねえようにと、それこそ全身全霊を打ちこんだつもりの絵巻をあっさり値切られたあっしは、

「冗談じゃねえ、騙し打ちもいいところじゃねえか。そんな話に納得できるかよ」

 ってえんで、いきおいよく尻を捲ったんでごぜえやすよ。

 むろん、いったん広げた絵巻をくるくると巻き直してね。


 するってえと、あとでそのことを聞き知った商館長さんが、

「さすがは侍の国の漢。なかなか気骨のある絵師ではないか」

 ってえんで、侍医の不足分に自腹をきってくだすった。

 とまあ、そういう話でごぜえやす。

 だれが流したうわさか、その件が尾ひれ付きで面白おかしく広まったおかげで、あっしはけちだの、欲張りだの、強情っ張りだの、さんざんな言われようでした。

 だが、お内儀さん。

 ほんとのけちは、どっちでごぜえやすか?

 思い出すだに、むかっ腹が立ちやす。


 

24

 

 ああ、音羽の護国寺観世音の御開帳のときの、あの一件でごぜえやすね?

 たしかに、百二十畳分の継紙に達磨の半身を描かせていただきやした。

 藁ぼうきの柄の先に石を結び付けやしてね、長い柄をえいやっとばかりに肩にしょっかついで、だだっ広い継紙の上を、息せききって駆けまわりやした。

 やんやの喝采でしてね、てめえながら絶頂でしたなあ、あんときゃあ。

 似たような話は、まだまだありやすよ。


 本所合羽千場じゃあ、ばかでけえ馬を思いきり紙の上に跳びはねさせやしたし、両国回向院じゃあ、継紙からはみ出す布袋さまと対照的に、一粒の米に二羽の雀を描きやしてね、言っちゃあなんですが、観衆の度肝を抜かさせていただきやした。

 さようなことが好きなんですな、性分的に。

 大向こう狙いだの、奇をてらっていやがるだの、大道芸人だのといろいろ言われやしたが、なに、あっしとしちゃあ、てめえが楽しけりぁあそれでいいんで。

 

 なかでも極めつけは、

 ――立田川紅葉流るるの景。

 の一件でございましょうなあ。


 場所は浅草伝法院のこの先ですから、お内儀さんもご承知と存じやすが。

 公方さま(徳川家斉)が鷹狩の帰路の座興に絵描きの実演をご所望ってえんで、谷文晁とあっしにご使者が来たときにゃあ、さすがに足がふるえやした。

 ですが、落ち着いて考えてみると、生涯に一度あるかどうかの機会でごぜえやすから、当たりめえの花鳥山水を披露しても芸がねえってえもんでごぜえやしょう。

 で、一計を案じやして、鶏を籠に入れて持参したのでごぜえやす。

 へえ、さようです、あの鶏を籠に押しこめて、公方さまの御前に。


 それでもって唐紙を横に長く継ぎ足し、太い刷毛で藍の筋を付けておいてから、籠から出した鶏の足裏にね、朱肉をたっぷり塗りつけて放ったんでごぜえやす。

 さて、やっこさんの驚くまいことか。

 真っ赤な鶏冠(とさか)を振り立て、

 ――コケーッコッコッコ。

 大騒ぎでごぜえやしたが、思惑どおり藍の筋に点々と紅を散らしてくれやして、

「これぞまさに立田川紅葉流るるの景にごぜえやす」

 畏れながら口上を申し述べさせていただきやした……。


 こう大見得をきりてえところでごぜえやすが、てへへ、事実は異なりやしてね。

 あっしがこいつこそと目星をつけた鶏野郎がぞんがいなすっとこどっこいだったおかげで、しょっぱなから墨壺にけつまずきやがりやしてね。

 こらっと叱る間もなく、足裏がベタベタするのをいやがって、すたこらさっさと逃げ出してしめえやして、そりゃあもう、さんざんでごぜえやしたよ。

 仕方がねえですから、鶏の野郎がこぼした墨をあっしの爪に付けやして、にわか仕立ての「雲龍の図」にでっち上げ、冷や汗三斗で、なんとか事を治めやした。

 いや、それがお内儀さん。

 さすがは雲上人でごぜえやすね、お咎めになるどころか、公方さまは腹を抱えて面白がってくださり、よくやったってえんで、けえってご褒美までくださった。

 あれにゃあ畏れ入りやした。



25

 

 おおっといけねえ、こんな時刻だ。

 公方さまのお話が出たところで、本日は一件落着といきやしょうか。

 ところでお内儀さん、ちいっとばかり紙と筆をお貸しくだせえまし。

 なにね、流行りの疫病よけの絵を描いてさしあげようってえんで。


 こうこうこうで、こうこうこうっと。

 へえ、出来上がりやした。

 え、妖怪だか幽霊だか知らねえが、見たこともねえすがたかたちだ?

 それでようがすよ。

 性質のわりい疫病にゃあ、ふつうの呪いぐれえじゃあ効かねえようですから。

 なに、お気に召さなかったら、うっちゃっておいてくださっていいんですぜ。

 おや、お内儀さんの座っていなさる帳場格子の上の特等席へ貼ってくださる?

 そりゃあ、ありがてえ。

 信濃屋さんの帳場にあっしの絵を掲げてくださっているとなると、なんかこう、このあたりがぽうっと、あったかあくなるような気がしてきやすからねえ。

 

 そういえば、お内儀さん。

 一茶ってえ野郎をご存知で?

 へえ、俳諧師の。

 なにね、どこかでちょいと袖を振り合った、ただされだけの縁でごぜえやすが、あっしと同じく年中米びつの底を気にする貧乏人でありながら、ここんところのどっかに錆びねえものを残している、ふとそんな気がしたもんでごぜえやすから、あれからどうしているか、ちいとばかり気になりやしてね。

 さようですか、故郷の信濃で生きる道筋がつきやしたか。

 そいつはよかった。

 あっしのような生粋の江戸っ子とちがい、田舎から出て来た野郎に、江戸というまちは微塵も手心を加えたりはしねえと、かねてそう思っていたもんですからね。

 

 それじゃあ、お内儀さん。

 この辺で失礼させていただきやす。

 へえ、ありがとうごぜえやす。

 お内儀さんもお達者でいらしてくだせえ。

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