三千段目は夏の終わり(2)

 朱塗りの鳥居が連なるトンネルを、一歩一歩確実に進んでいる姿が見えた。紺の絣の浴衣に、カランと涼しい音を立てる下駄。頭に斜めにのせた狐のお面に、中途半端な長さの髪。


「覚兄っ」


 上がった息でそう叫ぶと、その人物は驚いたように振り返った。驚きで大きく見開かれた鳶色の目。覚兄がこんな顔をするのは珍しい。何せ、ボーっとした無表情か、人をからかうようなニヤニヤ笑が常だから。


「宏……? なんで、こんなところに?」


 ぼんやりとした口調で呟く。


「覚兄だって。ばあちゃんに近づくなって言われたじゃんか。早く降りよう。祭りが終わっちゃう」


 そう言って、一段飛ばしに階段を上り、覚兄の腕を掴んで引っ張った。


「ちょっ……ここ階段急なんだから危ないだろう」


 そう言う様子はいつも通り。だけど、いつもだったら引っ張ればすぐに諦めてついて来るのに、今は自分がいる段に必死で踏みとどまっている。


「宏、まじで危な……っわ」


 とうとう覚兄がバランスを崩して石段から滑り落ちた。


「うわっ」


 当然名がら僕も一緒に落ちる。内臓がひっくり返るような奇妙な浮遊感に思わず目をぎゅっと閉じる。そういえば昨日もこんなことがあった。あの時は下が池だったから大事には至らなかったけど、今は傾斜の急な石段があるだけだ。


「ったく、危ないって言ったのに」


 そう、こんな事態だというのに冷静な覚兄の声が耳元で聞こえて、途端に落下がとまった。恐る恐る目を開けると僕の足は地面に届いていなくて、覚兄に脇から抱えられている。しかし、その高さがどう考えても高すぎるのだ。覚兄がいくらひょろ長い背丈をしてるといっても、この高さは届かないだろう。驚いて後ろを振り返ると、そこには……


「へ……?」


 そこには、背中の辺りから鳥居の両側の柱に届くような大きな黒い翼を広げた覚兄がいた。


 僕の視線を受け、覚兄は不機嫌そうに口元を歪め、目を逸らした。無言のまま、ばさりと翼を羽ばたかせ、元の段まで戻り、僕をそっと地面に降ろす。


「怪我、なかったか?」


「あ、うん、ごめん」


 覚兄の聞き方も場にそぐわなかったが、それ以上に僕の返事も情けない。しかし、覚兄はちゃんと意味を汲み取ったらしく、一つ頷くとようやく僕と目を合わせた。見慣れたはずの鳶色の瞳が、すごく神秘的なもののように見えた。黒い翼はまるでそこに闇を広げるように、覚兄の背後にある。


「えーっと、どっから話せばいいのかな? んー……宏、説明面倒だから、記憶消しちゃっていい?」


「……は? いい訳ないだろうが」


 やはり、その飄々とした真剣みの乏しい語り口はいつものものだが、今は返答を間違ってはいけないような雰囲気がある。


「んー……まぁ、見ての通り俺さぁ、人間じゃないわけ。今まで騙してて悪かったな」


 そう言って、微笑む。口元の両端をくっと持ち上げて、少し目を細めて。本人は上手く笑っているつもりなんだろう。だが、僕に言わせると明らかに引きつった笑い方だった。


「俺は」


 そこで一度言葉を切る。風が吹き、覚兄の中途半端な長さの髪が靡いて、一瞬表情が見えなくなる。


「この山の神だ」


 きっぱりと、堂々と厳かに告げたとき、覚兄はいったい何を思ったのだろう。僕がただ沈黙したまま見た姿は、神の名にふさわしいとは言い難い、どこか寂しげな姿だった。


「覚兄が? 山の神様?」


 驚いたが、そんなに突飛なことには思えなかった。昔からばあちゃんの昔話で慣れ親しんでいたからかもしれない。『山の神様は、夏を送って、秋を迎え、山に遊びにいく子供を守ってくれる。迷ったら鳶色の目を持つ青年の姿をして、麓まで送ってくれる。木や崖から落ちそうになったら、その大きな漆黒の翼を羽ばたかせて助けてくれる。だから、信じないといけないよ。信じて、感謝して、決して忘れたりしないように』今思うと、その話はそのまま覚兄の姿を指している。


「何で、神様が町にいたの? ……ですか?」


 僕の言葉に覚兄は手で口を押さえて吹き出す。


「いや、いきなり言葉遣い変えても……ってか覚兄のままでいいから」


「え、でも……」


「その名前気に入ってるの。悟る、またははっと気付くって意味だったかな? 目的に合ってたから」


「目的?」


「そ、目的。さっきお前が訊いた『何で』と同じこと。俺は、自分が守っている人がどんな人か知りたかった。どんな生活を送って、どんなことに幸せを感じるのか」


「神様なんだから、そんなこと知ってるんじゃないの?」


 『神様』は、完璧なんだと思ってた。何でも知ってて、何でもできて。人間と違って、不可能というものがない。それが、『神様』だと。だけど、僕の知っている限り覚兄は完璧じゃなかった。泳げないし、木から僕と一緒に落ちるし、ボーっとしていたせいで僕に髪を切られそうになったことすらある。そんな覚兄が神様だなんて、信じられなかった。


「神なんてものは何にも知らないのさ。人間と違って寿命がないからこそ、何かを真剣に知ろうとも思わない。ただ、漠然とそこに存在している。俺だって十年前まで自分がそんな存在だなんて知らなかったさ」


「十年前?」


「そ、お前が三歳で、初めて一人でこの山に来てものの見事に遭難したときのことだ」


 例の人をからかうときのニヤニヤ笑い。かっと僕の頬が熱くなる。


 確かに僕は昔一人でこの山に来て迷い、あとで両親にこっぴどく叱られたことがあった。しかしそれを何故覚兄が……。


「あ、もしかして」


「お、思い出したか」


 暗くなって、道が分からなくなりべそをかいているところに、誰かが声をかけた。よれたTシャツに色あせたジーパン、そして何故か下駄を履いた、不思議な色をした瞳の『誰か』が。その人が僕を背負って僕を麓まで連れて行ってくれた。もっとも僕は寝てしまったので、そう言ってたのは、たしか……


「じいちゃん……じいちゃんになんか言われたのか?」


「お前って段々勘が良くなってきてるよな。流石、あの食えないじじいの孫。そう、お前のじいさん――あの日はちょうど、この浴衣だったな――が、ひとしきり礼を述べた後にいきなり哲学論吹っかけてきやがった。『さて、貴方は何のためにここにいるのかな?』と、こう来たもんだ。俺は『この町を守って、町の人々が安心して、幸せに暮らせるように見守っている』と、答えた。まぁ所謂、模範解答だな。そしたらお前のじいさんなんて言ったと思う?」


 去年死んでしまったじいちゃんの言いそうなこと……。ひねくれてて、屁理屈ばっかり言ってるくせにそれが妙に的を得ている。あのじいちゃんが、言いそうなこ……。


「幸せってなんだ? ……とか?」


「ご名答。が、そんな生易しい言い方じゃなかったぞ『ほう、最近の神はわしらの幸せがどんなものかちゃんと把握しているのかね?』ときたもんだ」


 覚兄はわざわざじいちゃんの口真似までする。その偏屈な声の調子がそっくりだったので、思わず笑ってしまった。


「それで、分かった?」


「そーれがさっぱり。いや、分かったよ。ただし、なんとなく。なんとなくは分かったけど、それが行動に直結するほどは、はっきりと分かってない」


「それなのに……帰っちゃうの?」


 帰る。そう、帰るのだろう。神様なのだから、いつまでも留守にはしていられない。


「自分で決めてた。期限だから」


 覚兄はそう言って石段の上の方を見上げる。永遠に続くように思っていた階段の終わりが、ほんの十数段上のところにあった。


「期限って?」


「聞いたことないか? この祭りは夏を送る祭りだ。俺は……」


「神様だから、夏を送らなきゃいけない」


「なんだ、知ってんじゃねぇか。夏を終わらすときに帰るって決めてたんだ。そこの」


 覚兄はそう言って、石段の最後の段を指差す。


「そこの三千段目に上ったら、夏の終わりだ。ここは夏と秋の回廊。麓は夏で、頂上は秋。この回廊が開くのは今日だけだから、宏が知らなくっても不思議はない」


「ばあちゃんの話は本当だったんだ」


「……お前のところって、じいさんもばあさんも侮りがたいな。じゃ、俺行くわ。そろそろ祭りも終わるし」


 そう言って階段を上りだそうとする覚兄の袂を掴む。覚兄は振り返ったようだが、僕は俯いたまま口を開いた。


「せっかく兄ちゃんができたと思ったのに。これで、和に自慢ばっかりさせておかなくてすむと思ったのにな」


 ゆっくりと顔を上げて覚兄の戸惑ったような顔を見る。本当にこんなこと言ってしまっても良いか分からないけど、一言ずつ区切って、慎重に言う。


「俺さぁ、去年じいちゃんが死んじゃってから怖いんだ。また、誰かがいなくなるかもしれないって」


 いなくなってしまったじいちゃん。もうあの屁理屈も聞けない。ばあちゃんだってじいちゃんと同い年なんだ。母さんと父さんは常に無理な生活してるし。不安に囲まれた生活で、颯爽と現れたのが


「覚兄はさ、僕にとって安心だったんだ。きっと、いなくならないからって。家族みたいな、絶対いなくならない人だから。さっき、幸福にするためって言ったよね。僕が何言いたいか分かる?」


 きっと、覚兄なら分かる。ずれていても、ぼけていても、この夏の間ずっと一緒にいたのだから。


「あぁ、分かるさ。この山では決して誰も死なせない。怪我だって極力させない。それに俺はいなくなるわけじゃない。毎年ここを上るわけなんだから、来たって構わない」


「本当っ?」


「ま、もっとも、そのうちお前の外見年齢が俺より上になっちゃうんだなぁ。楽しみだなぁ」


「うっ」


 僕が思わず詰まると、やはり覚兄はニヤニヤと笑った。


「お前が飽きるまでは付き合ってやるよ。俺も、結構……」


「え? 何て?」


 どうも僕は、人を褒めるのが苦手な覚兄が口にするには、非常に珍しい言葉を聴いてしまったような気がする。『気に入ってたし』と。


「……聞こえてて言っただろ」


 そう言ってふいと背を向ける覚兄の耳が微かに赤い。


 そしてそのまま石段を登り始めた。一段一段そこに階段があるのを確かめるようにゆっくりと。僕はその場で見守っている。


 覚兄が三千段目に上ったら、黒い翼を自分を覆い隠すように広げる。闇と同化するように先に上がっていく覚兄を見守っていたら、提灯が消えた。


 夏は、終わってしまった。



    * * * *



 ツクツクボーシ、ツクツクボーシ・・・。


 毎年恒例の奇妙なツクツクボーシの鳴き声を聞きながら、僕は縁側で寝転んでいた。すぐそばではばあちゃんが洗濯物を畳んでいる。


「覚さんは帰ってしまったのかい?」


「……うん」


 祭りの日から一週間。今日で夏休みも最後だ。誰もが忘れてしまった覚兄を、ばあちゃんだけは覚えていた。だけど、祭りの日に落ち込んで帰った僕には何も聞かず、ただ覚兄がよくやってたように、くしゃりと髪をかき混ぜた。何もかも知っていたのかもしれない。なにせ、あのじいちゃんと結婚した人だし、思えばあの思わせぶりなセリフの数々。


「三千段目を通って?」


「……うん。じいちゃんに、覚兄のことなんか聞いてた?」


 寝返りを打って、ばあちゃんの顔を見ようとする。逆光でよく見えない。


「聞いていたよ。『もしも来たらスイカでも食べさせてやりなさい。宏紀と遊びに来るはずだから』ってね」


 遊びに……確かにそうだろう。夏の初めにやってきて、夏を終わらせて帰っていった、飄々とした謎の人物。誰もが忘れてしまったのに、僕とばあちゃんだけが覚えている。


「宏紀ー、お母さん出かけるから、ちゃんと宿題しときなさいよ」


「……やばっ」


 僕は跳ね起きて自分の宿題の山を見た。明日から学校なのに……なのに全く宿題をやってない。やった記憶もない。覚兄のせいだ。覚兄が、僕が宿題をしようとしたときに限って遊びに来たから。


「くっそー。覚兄の馬鹿ーっ、絶対来年文句言ってやるーっ」


 そう、来年の夏になればまた会えるはずだから。誰の記憶に残っていなくても、僕だけは知っているから。覚兄は神様で、だけど虫取りは得意で水泳は苦手。どこか抜けていて飄々としている。うっとうしい中途半端な長さの髪の毛に、鳶色の瞳。山で迷った子供を助けてくれて、本当に僕たちのことを考えてくれる。来年からも会ってくれると約束した。そんな人だって。


「さーて、夏も終わっちゃったし、宿題しないとな」


 僕はそう独り言を言って、宿題が積まれた机の前に座った。





      了

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三千段目は夏の終わり 小鳥遊 慧 @takanashi-kei

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