三千段目は夏の終わり
小鳥遊 慧
三千段目は夏の終わり(1)
「そおっとだぞ」
「分かってるって」
僕はそう答えて、そろりと虫取り網を持った右手を伸ばす。左手は
「うわっ」
いきなりクワガタが飛び立った。しかも僕の顔をめがけて。あまりにびっくりしたので、木の枝から足を滑らせてしまって……
「
「ヤダ。なんでそんなに薄情なんだよ」
木に必死ですがりついている覚兄の腕にぶら下がっている。ここで放されたら池に落ちてしまう。そんなに深い池ではないのだが、危ないことには変わりない。
しかしひょろりとした覚兄が、片腕で小学六年生を支えるというのも無茶な話で、第一……枝がぎしぎしと鳴っている。しまいには……折れた。
「うわーっ」
池のほとりに二人分の叫び声とそれに続く水音が響き渡ったのだった。
* * * *
覚兄を見つけたのは終業式の日だった。
手提げに入った通信簿と夏休みの宿題が多少気がかりなものの、長い長い夏休みに、それを上回る期待を抱いて歩いていた。
天気が無駄によく、舗装されていない道が土埃を立てる。風が田んぼの稲を波立たせている。多少でも風があるのがありがたい。家にスイカ、もしくはアイスがあるのを期待して隣の家の前を通った。もっとも、隣といっても僕の家から大分離れているのだけど。
その辺りでようやく僕の家の前に誰かが倒れているのを見つけた。駆け寄っていって顔を覗き込むと真っ赤になっていてすぐに熱中症だと分かった。だから、僕は庭からホースをひっぱて来て、思い切り水をぶっかけてやったのだ。
それが、覚兄との出会いだった。
* * * *
「ったく。覚兄、手離せとか酷すぎ」
「だって俺落ちたくなかったもん。だいたい、あれぐらいで驚いて足滑らすなよ。虫取り下手だし」
「覚兄。あんな浅い池に落ちて溺れてるところを助けてあげたのは、誰だったけ?」
「さぁ、誰だろうな」
そう言って目を泳がせて、アイスを舐める。下手な誤魔化し方だ。
僕達は池に落ちた後、虫取りを諦めて近所の駄菓子屋でアイスを食べている。着ていたら乾くだろうと考えて、濡れた服はそのままだ。覚兄のただでさえ中途半端な長さの髪が、額やら頬やら首筋やらに張り付いて、余計に暑苦しい。
「ん? 何だ?」
僕の視線に気付いたのか、覚兄は少し灰色がかった茶色――鳶色というそうだ――の常に笑ったような瞳をこちらに向ける。
「その髪うっとおしい。切ってもいい?」
「駄目に決まってんだろ」
「ちぇっ」
アイスの棒をかみ締めると甘い味がした。覚兄はゆっくりと食べているので、まだアイスが残っている。……少し羨ましい。
「そーだ、覚兄。明日お祭り行かない?」
アイスの棒をかんでいて不意に思い出した。明日は夏祭りなのだ。この町では夏祭りは毎年八月二十四日に行われる。つまり、夏休みが終わる一週間前なのだ。盆祭りとは少し時期がずれるので、この時期に祭りがあるのは珍しい。神社の近くでやる、なかなか盛大なお祭りなのだ。
「え? 祭り?」
覚兄が戸惑ったような表情を浮かべる。いつも勝気な、不敵な表情をしているので、こんな表情は実に珍しい。
「あ、なんか用事でもあった?」
「いや、それはないけど……」
「じゃあいいじゃんか。明日夕方五時にうちの家ね」
「んー……ま、いっか」
どうにも煮え切らないが、まぁいいだろう。
「じゃあ明日、約束な」
半ば一方的に約束しておいた。
* * * *
「ごめんくださーい」
覚兄ののんびりとした声を聞いて、僕は玄関まで走っていった。
「遅いよ」
「……ってか、何でお前浴衣なんだ?」
そう言う覚兄は、いつも通りよれたTシャツに色褪せたジーパン、それからミスマッチな下駄だった。
「だって、ここの夏祭りほとんどの人が浴衣だよ」
「へぇ、今時珍しいな。でも、俺浴衣持ってないからいいや」
「駄目だって。ばあちゃーん、覚兄に浴衣貸してあげて」
「だからいいっての」
嫌がる覚兄を無理矢理部屋まで連れて行く。
「あぁ、いらっしゃい。浴衣なら確かこの辺りに……」
ばあちゃんはそう言ってのんびりと箪笥の中を探す。やがて、紺の絣の浴衣を出してきた。
「え、でも、悪いですよ」
「いいんですよ。もう着る人はいないんですから。去年死んだじいさんが着ていたんですよ。良かったらもらってください」
「……すみません」
覚兄は意外に礼儀正しく、お辞儀をしてから浴衣に袖を通した。
「でも、本当にいいんですか?」
覚兄の浴衣姿は意外と似合っていた。丈もピッタリだ。と、言うことはじいちゃんと背丈が同じくらいだったはずだが、じいちゃんの背はそんなに高かっただろうか?
「ええ、いいんですよ。宏紀が世話になってますから。本人から聞いたかもしれませんがね、この子の親は両方とも忙しくって、私と死んだじいさんと暮らしていたようなもんなんですけどね。よその子と違って兄弟がいないし、いっつも表で遊んでくれていたじいさんはいなくなってちょうど一年ほどになるしで、最近少し落ち込み気味だったんですよ。それがね、貴方が来てから……」
「ばあちゃん、そんなこと言わなくてもいいだろ」
慌てて割り込むが、ばあちゃんは気にもせずに続ける。
「元気になって、元気になって。毎日貴方のことばかり話してくれるんですよ。『今日はこんな大きいカブトムシを捕まえた』とか『今日は和哉達と缶蹴りをやったけど、覚兄が一番強かった』とか」
「ほぅ」
覚兄はニヤニヤと笑ってこちらを見る。あとでどんだけからかわれることか。
「もう、覚兄、着替えたなら早く行こうよ。祭り始まっちゃうよ」
「へいへい。お前どうせ金持ってないだろ。頼りになる覚お兄さんが何か奢ってやろうじゃないか。何がいい?」
そう言ってぐしゃぐしゃと、髪の毛をかき回してくる。ちょっと褒められたからって、いい気になって。それが癪だったから
「じゃあ、りんご飴と綿菓子と、とうもろこしに、風船ヨーヨー釣り、ベビーカステラ、あ射的もしてみたい……」
「ちょっと待った、そんなに金ないって」
「奢ってくれるんだろ? 頼りになる覚兄が」
覚兄の真似をして、にやっと笑ってやった。
「あ、宏紀」
覚兄を部屋から押し出したところで呼ばれ、振り返る。ばあちゃんが、いつも通り温和な表情で、だけど声は少し心配そうに言う。
「祭りの間、石段に上ってはいけないよ。いや、近づいてもいけない」
「石段なんかあったっけ?」
記憶によれば神社は小さく寂れており、石段とは言っても二、三段しかなかったはずだ。
「おい、宏。行くんじゃないのか?」
いつの間にか覚兄は玄関のところまで行っていて、下駄を履いて待っている。僕も走っていった。
* * * *
「あれ? 覚兄どこ行った?」
ふと周りを見回すと、覚兄がいなくなっている。綿菓子や風船ヨーヨー。そんな物を売る店と、その店を覗き込む人々はたくさんいるのだが、覚兄だけがいない。絶対あるはずの物がぽっかりと風景から消えてしまったような、喪失感。どこか間抜けた顔をした狐のお面を頭にのせて、片手に三つも風船ヨーヨーを下げていた覚兄がいない。さっきまで隣でりんご飴と綿菓子を持って、楽しそうに食べていた覚兄がいない。
「ねぇ、おばちゃん。覚兄知らない?」
そばにいた駄菓子屋さんのおばあちゃんに、そう尋ねると心底驚いたような顔して、
「誰だい? それは」
と、訊き返された。
「え?」
おばあちゃんが知らないなんて事はないはずだ。だって、覚兄はこの夏休みの間、僕と一緒に何度も駄菓子屋に行ったのだから。
僕は身を翻して走り出した。こんなに多くの人がどこにいたのだと問いたくなるような人ごみの中を駆けて、手当たり次第に覚兄の行方を聞いて回る。しかし、誰一人として覚兄の行方どころか、覚兄のことを覚えている人がいない。一緒に遊んだ和哉達でさえ、
「宏紀、お前大丈夫か?」
と、本気で心配しているような顔で言ってくる。
「どこに行ったんだよ、覚兄。ってか、何で誰も覚兄のこと覚えてないんだ?」
思わず呟いた時、ふと、見覚えのない長い石段が目に入った。祭りの輪からは離れた藪の奥。見えないかのように、誰も見向きもしない。見つけたとき、同時にばあちゃんの『祭りの間、石段に上ってはいけないよ。いや、近づいてもいけない』と、いうセリフを思い出した。
「石段に……?」
長くて、最後が見えない石段は、朱塗りの鳥居の中を通るように連なっている。そしてその鳥居十本ごとぐらいに、祭り用の提灯が下がっている。どこか……不思議で幻想的な光景。しかしその景色に覚兄の雰囲気が重なった。どうしてかは分からないが、ただそう思った。
覚兄はこの先にいる。
石段は見上げると、際限なく長く、暗く見える。しかも、ばあちゃんの曰くありげな言葉を聴いたばかりだ。上るのには少し……いや、かなりの度胸と根性がいる。
「えーいっ、覚兄め、みつけたらしばくからな」
大声で宣言して駆け出した。石段はちょうど歩幅に合い、非常に登りやすい。ただ、先の見えぬ不安と、異様な雰囲気を醸し出す朱塗りの鳥居と背後の闇さえなければもっと良かっただろう。
何度も何度も朱塗りの鳥居と、ところどころにある提灯を追い越していく。
やはり、ここには来たことがない。それどころか、こんなところはなかったはずだ。いつ、現れたのだろう。ぞわり、と背中に寒気がして後ろを振り返る。しかし、そこには何もなく、ただ鳥居と木々の間から祭りの光が遠く見えていた。
もう、こんなにも高いところにいる。なのに階段は終わる兆しも見せずに、だんだんと傾斜がきつくなってきた。まるで、終わりのないかのように。しかし、そんなことを考えていても仕方がないので、また足を動かす。ただしかなり息が上がってきているので、今度は歩いて。
本当に、いつになったらこの階段は終わるのだろう。
いつになったら覚兄は見つかるのだろう。
よく考えたら、僕は何で覚兄がここにいると思ったのだろう。
こう考えてみると、夏休みの間ずっと一緒に遊んでいた覚兄のことを全くといっていいほど知らなかった。覚兄が何のためにどこからここに来たかも、時折どこか一点を見つめてボーっとしているわけも、どうしてずっと僕のそばにいてくれたかも。
……だから、覚兄がいなくなった今もこうして右往左往しているしかない。的確に探すことができない。本当に正しい道を選択できない。
それが酷く、悔しい。
後ろを振り返るとそこには深淵のような闇が広がっていた。真っ暗で底がないような暗闇。僕が歩くとその後ろは提灯が消えていっているようだ。後戻りはできない。ならば……
「行ってやろうじゃねぇか」
小さく呟き、額の汗をぬぐう。戻れなければ進んでやる。この方法しかなければやり遂げてやる。
僕は再び駆け出した。ただ、その先に覚兄がいると信じて。
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