試合前

「嘘?どういうことですか?」

茜は、全く心当たりがないという様子で須崎に聞き返した。


「まあ分からなくてもいいよ」


「は…はあ」

あまりの意味の分からなさに、茜は戸惑う。

そして須崎は、その後に何を言うわけでもなくその場を立ち去った。


「嘘ついてるんですか?」

美咲が中学生くらいにまで許されるような躊躇のないことを茜に言う。

それに対して茜は、特に何も思わなかった。

気づかれてはいけないようなことを、大人には気づかれているような気がしていたから。


「何かの勘違いじゃないかな」


「ですよね」



約2週間の時間が過ぎた。

すっかり愛斗も元気になり、学校に復帰していた。

「やべえ、めっちゃドキドキする」

愛斗と夏海と岳の3人で弁当を食べているが、今日の岳は定期的にそのようなことを口走る。


「今から緊張してどうするんだよ」


「そうですよ。緊張しすぎは良くないですよ」


そう、明日からインターハイ予選の和歌山県大会なのだ。

岳はその1500メートルの出場権を持っている。そして、明後日がレースなのだ。

しかし、明後日だというのにも関わらず、岳の箸は微動だにしない。

動くのは饒舌な口だけだ。


「俺なんて別に期待もされてないしどうでも良いんだろうけどさ、そう思っても緊張するよなぁ」

いつものチャラい日高岳の面影はそこにはなかった。ただのへなへなの茶髪の抜け殻だ。


「そんなこと言うなよ。扇ヶ浜の代表なんだし、勝ち上がって県に出るんだから自信持てよ」


「あぁ、愛斗。やっぱいいこと言うなぁ」

わざとらしく顔をゆがめて、感動した雰囲気を出す岳。

愛斗はそれを軽くあしらった。


「やめてくれ。ほら見ろよ千代間さんの顔」


そこまで、へなへなの茶髪男を蔑むような目をしているわけではなかったが、愛斗は、なんとなく夏海に岳を押し付けてみたかった。


「えぇ、そんな目してないですよ。してないですよね!?」


柄でもなくテンパる夏海があまりにも珍しかったので、それを見た男2人は爆笑した。

これで大丈夫だ、と愛斗は笑う岳を見て思った。

この3人の関係こそが、岳の緊張をほぐす数少ない方法なのだ。



今日は土曜、午前授業だ。

だが、岳の席は空いている。

彼ら陸上部は、紀三井寺きみいでら公園陸上競技場に、県大会のため行っているのだ。


昨日の放課後、段々と伸びてきた日が沈みそうなとき、愛斗と、部活を終えた芽衣は一緒に帰宅していた。

愛斗と肩を並べて歩く幼なじみからは、緊張感が漂ってくる。

彼女自身がわざとそうしている訳でもなく、愛斗が勝手に想像している訳でもない。

大会が明日に迫っているという時間がそうさせているのだ。


「芽衣は緊張してる?」


「『芽衣は?』ってどういうこと?他に誰が…」


「あー、岳が今日めっちゃ緊張してて」


「確かに、走りもガチガチだったような気がする」


「そうだったんだ。で、どうなの?」


「そりゃあするよ、緊張くらい」

そう言う芽衣だが、口調と言ったことが合っていない。

自信に満ちた声と、少し不安そうな言葉。


「やっぱそうだよね」


「だけど明日は行けるって思うんだ。今日すごい調子よかったし」


「おーいいじゃん!…明日は行けないけど学校から応援してる」


「ありがと」


2人はバスに揺られながら、流れゆく景色を、それぞれ違う想いで眺める。

応援の気持ちと静かに燃える闘争心。

その2人の想いは、果たして実を結ぶのだろうか。

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記憶を失った僕と彼女たち 天笠愛雅 @Aria_lllr

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