鏡面アンビバレンツ

NOZZO

鏡面アンビバレンツ

紫乃しのはもっと笑ったほうが可愛いと思うんだけど」と紅乃くれのは言う。

「あんたみたいにヘラヘラ笑って生きるなんて御免だわ」と私は答える。

「だいたい可愛いって何よ。同じ顔してるくせしてナルシストかっての」

「ナルシストとは違うんじゃない? お互い自分の顔を見る機会、中々無いもの」

 

 自宅の二階、私の部屋。昔は二人部屋、今は私一人の部屋。

 携帯は充電中、PCのボイスチャットも今は起動していない。

 誰もいなくて誰とも繋がらないこの部屋で、私はひとり鏡に向かって話している。

 両親が二人で共用するようにと買ってきた、学生には少し高価なドレッサー。

 その三面鏡に向かって話しかける私の姿は、この世の誰よりも馬鹿みたいだろう。

 

「写真があるじゃない。カメラになら映るでしょ、自分の顔」

「紫乃って、自分の顔が見たくて自撮りしたりしてるの?」

「んな間抜けなことするわけないでしょ、紅乃が一人でやれって言ってんの」

 暗に間抜け扱いされたというのに、鏡の中の『私』はおかしそうに笑う。

 見る者をほっとさせるような笑顔。対する私はおかげさまで仏頂面だ。

 でも、私がどんな顔をしようと『私』はお構いなしで、勝手に口を動かし始める。

 

「紫乃がしないなら私もしないよ。だって私達、二人で一人でしょう」

 いつの話よ、と毒づきたくなる。

 私達が二人で一人だったのは、もう十七年も前のことだろうに。

 母親の胎内で受精卵が二つに分かれて以来、私たちが一人だったことなんてない。

 だから結局、鏡に映るこいつは「私」のようで「私」じゃない。


 あがた紅乃くれの。二年前に死んだ私の双子の妹。


 彼女は忌々しいことに、鏡の中で私の代わりに私の知らない笑顔を浮かべている。


   ▼  ▼  ▼


 双子の姉妹は二人で一人。

 少なくとも、周囲はずっと私達にそうであることを期待していた。

  

 小さい頃から買い与えられるものは二人とも同じで、お揃いの服を着せられていると親戚や両親の知人はやたらと喜んだ。呼ばれる時は「あがたさんちの双子ちゃん」だったし、学校に上がってからは「縣姉妹の姉の方」だとか「妹の方」だとか、だ。

 何より名前が二人でセットなのが気に食わない。紫乃と紅乃。四字熟語の「千紫万紅」を二つに分けたのが丸分かりだ。それも私が「千」で紅乃が「万」。馬鹿にしてるのか。私の方が先に生まれたなら立派な数字を年長者に譲るのが筋じゃないのか。


 とにかく成長するにつれて、私は紅乃と反りが合わなくなっていった。

 顔はそっくりだが、私と紅乃は性格が全く違う。外では猫をかぶってはいるものの本質的には気性が荒い私とは正反対で、紅乃は誰に対しても物腰が丁寧だった。それも演技でなく、本当に他人を思いやっているようだった。私と同じ顔の女が取るに足らないような男子に話を合わせて笑っているのを見ると、ひどく腹立たしかったのを覚えている。

 

 そう、笑顔。紅乃と私の決定的な違いは、笑顔にあった。

 学校での私は如才なく優等生として振る舞っているつもりだが、笑顔だけは苦手だった。笑うのが得意でないというより、楽しくもないのに笑うことが出来ないというか。そして学校生活は笑うほど楽しいわけでもないことばかりで、ましてや愛想笑いなど私の性格的に許せるわけもない。舐めた口を利いた奴を蹴り飛ばさないでやっているだけでも十分に理性的だ。

 だけど、紅乃は違う。あいつは、ごく自然に笑顔を見せられる女だった。

 同じ顔、同じ遺伝子なのに、自分がどうやっても出来ないことをやる女。

 心からの笑顔を見せる「私」を見ると、無性に胸がむかついたのだ。

 紅乃のほうもきっと、私に対して同じような感想を抱いていただろう。

 何をしても愛想のない、もう一人の自分。だが私の名誉のために言わせてもらえるなら別にクールを気取ってはいないし、媚びて笑うより無愛想のほうがマシだ。

 そんな具合でこの先ずっと紅乃と生きていくことに、私は心底うんざりしていた。

 

 二年前、中学三年の夏の日。縣紅乃が、車に轢かれてあっけなく死ぬまでは。


   ▼  ▼  ▼


 そして、この奇妙な状況は、紅乃が死んでからすぐに始まった。

 最初に気付いたのは葬式の日だったと思う。私一人のものになった部屋で喪服に着替えていた時、ドレッサーを覗き込んでそのとき初めて違和感を覚えたのだ。

 私達は見分けが付かないほどに似ているとよく言われるが、私達は互いの違いを誰よりもよく分かっていた。二人の写真を並べたとして私達が見間違えることはない。

 何より、中学時代の私達は、互いを意識して別の髪型にしていたのだ。

 鏡に映る、馬鹿みたいにぼんやりした顔の、私と同じ顔で違う髪型の女。

 それが私ではなく死んだ縣紅乃であることに気付くまで、時間は掛からなかった。


 それから幾度となく鏡の中の紅乃と対話を重ねて、少しずつ状況が分かってきた。

 鏡や光を反射するものを覗くと、自分の代わりに必ず紅乃の姿が映ること。

 紅乃は、鏡の向こうで私の代わりに鏡映しの生活をしているということ。

 紅乃にとっては、交通事故で死んだのは自分ではなく私、紫乃の方であること。

 二人は常に同じような行動を取っていて、鏡を覗くといつでも紅乃が見えること。

 そして鏡の向こうの紅乃を見て話すことが出来るのは、私だけだということ。

 どうやら私以外にとっては、鏡に映っているのは紛れもなく私に見えるらしい。

 すぐには受け入れがたい異常事態だったが、現実にはもっと切実な問題があった。

 自分の代わりに紅乃が映る限り、私は鏡を使うことが出来ないということだ。


「紫乃、胸のリボン解けかけてるよ」

「は? そういうことはもっと早く言ってくれない?」

「そういうファッションに目覚めたのかなって思って」

「舐めてんのか。そういうのはあんたの寝癖だけで十分でしょ」

「えっ嘘!? 直してる時間ないよ!」

 毎朝この調子。お互いの顔を見て指摘し合わないといけないのは不便で仕方ない。

 鏡の向こうとこちらで同じような行動を取るといっても、別の人間だから当たり前だが細部は異なるようで、例えばこの日の朝は紅乃のリボンは解けていなかった。

 とにかくそんな状況なので私は紅乃が死んだという実感が今ひとつ湧かないまま受験を突破し、それをどうやら周囲は「自分の半身を失っても強く生きようとする気丈な姿」と受け取ったらしく、皮肉にも私を取り巻く人間関係は大幅に改善された。

 私としても、いちいち紅乃の存在を意識しないで済むというのは思いのほか気楽で、自分でも戸惑うくらいに日々の制約が無くなったのを感じていた。服を選ぶ時も、美容院に行く時も、紅乃と違うのを選ばなければと考えないで良くなったのだ。

 そういうわけで、程なく私は(恐らく鏡の中の紅乃も)この生活に慣れていった。

 鏡を見るたび、いけすかない女と話す羽目になるのだけは未だに慣れないけれど。


   ▼  ▼  ▼

 

 紅乃が死んで鏡の向こうに行ってから二年。

 私は高校二年生になり、普通に高校生活を楽しんでいた。

 高校に上がれば、そもそも私が双子だったことを知らない人のほうが多い。

 私は双子という呪縛から解き放たれ、初めて一人の人間になった気分だった。

 そんな生活を一年も続けていたからいつの間にか気が緩んでいたのかもしれない。


「紫乃先輩……私と付き合ってくれませんか」


 そんな言葉ひとつで、鏡の向こうのことが頭から吹っ飛んでしまったのだから。

 傾いた日差しが差し込む、放課後の部室。

 中間試験が近いので、この文芸部もテスト休みに入ったということになっている。

 だからこの部室にいるのは呼び出された私と、この言葉を発したもう一人だけ。

 蒔原まきはら伶花れいか

 文芸部の後輩で、入部した頃から妙に距離感の近い子だった。ボリュームのある髪をサイドテールに結って流行りのアクセを自然に身につける姿は垢抜けていて、文学少女よりもティーン向けファッション誌に載っている読者モデルのイメージに近い。

 文芸部には似つかわしくない陽の当たる世界の住人が、嫌光性女子の隠れ家であるこの部室に現れたので、聖域に踏み込まれた部員一同は大いに動揺していたものだ。

 もっとも私は単にスポ根だとか日焼けが嫌で文化系クラブに入っただけなので、その手のスクールカースト的なコンプレックスは持ち合わせていなかったのだけど。

 とはいえ、実際に入部してみると部員一同(私以外)の心配は杞憂に終わった。蒔原伶花は見た目に反して頭の回転が速く、課題図書も毎回しっかり読み込んできていた。物怖じしない性格は感想交換会で遺憾なく発揮され、一同に感銘を与えたのだ。

 そんな蒔原伶花だが、当初から私に対して懐いているようだった。入部直後の彼女に対して距離を取らなかったのは私くらいだったからかも知れないが、それにしても距離が近い。文芸部の同学年を含めても彼女と一番会話しているのは恐らく私だし、スキンシップも日常茶飯事。休日に二人で買い物に行ったのも一度や二度ではない。

 今にして思えばあれは、彼女にとってはデートのつもりだったのか?


 私はもつれそうな舌をみっともなく動かし、なんとか声を出す。

「……蒔原さん」

「もー、二人でいる時は伶花って呼んでって言ったじゃないですか」

「伶花……付き合うっていうのはまた買い物? 好きなブランドの新作が出たとか」

「こういう場面ですっとぼけるキャラじゃないでしょ紫乃先輩は」

 ごもっとも。我ながら相当動揺しているらしい。

 ……付き合って、か。

 伶花ははじめから、そういう対象として私のことを見ていたのだろうか。同じ部活の先輩後輩としてでも、気の置けない一歳違いの友人としてでもなく、女同士の恋人に……あるいはそれ以上の関係になりたくて、今まで私と接していたのか。

 率直に言うと、悪い気はしなかった。彼女のぐいぐいと押しの強い部分に辟易することがないとは言わないが、その利発さと裏表の無さには好感を抱いていたし、後輩として目を掛けてもいた。私が休日の時間を他人に割くなど、余程のことなのだ。

 だけど、そういう気持ちと彼女が求める想いは、果たして同じものなのか。

 

 言葉が纏まらずに立ち尽くす私を見て、伶花はへへっと笑って見せた。

「なんだ、意外と告白慣れしてないんすねぇ。ちょっと可愛いかも、なんて」

「伶花――」

「返事は急ぎませんから。テスト明けにでも聞かしてくれれば十分なんで」

 本気ですから真面目に考えてくださいね、と言いたいことだけ言い残して、蒔原伶花は短いスカートを翻して部室から出て行った。取り残されたのは私一人。

 今の私はどんな顔をしているのだろう。鏡があっても見れはしないけど。


   ▼  ▼  ▼


 その日は家に帰って夕食を食べ、お風呂に入って、寝る支度を整えるまで、ほとんど何も手に付かなかった。試験が近いというのに、ろくに勉強すらしていない。

 原因は分かりきっている。蒔原伶花のせいだ。彼女の言葉がぐるぐると頭の中を巡り、他の考えを片っ端から叩き出してしまっている。部室に誰もいないだろうタイミングを狙って私を呼び出したのかもしれないけれど、それで私の成績が落ちるとか考えなかったのだろうか。まったく気が回るのか回らないのかよく分からない子だ。

 だけど、その目下の悩み事についても、一人で答えが出せる気はしなかった。いくら考えても堂々巡りを繰り返すだけだし、誰かに相談できるはずもない。両親は論外だし、そういう話が出来る友人はいるにはいるが、この忙しい時期に面倒なお悩み相談を持ちかけるようなことは出来ない。私には伶花と違ってまともな分別というものがあるのだ。

 

 ……いや、いるか。一人だけ、迷惑を掛けても構わないような相手が。

 私は少しだけ逡巡してから、意を決してベッドから体を起こした。そのままドレッサーの前まで歩き、椅子に腰掛けて呼吸を整え、両開きの三面鏡に指を掛ける。

 どうせ紅乃は死んだ身だ。鏡の向こうの試験がどうなろうが知ったことではない。

 それに認めたくはないが、こういう人の感情の繊細な機微については、私よりも紅乃のほうが得意分野だった。浅ましく他人に尻尾を振るのを日課にしていたあいつなら、私よりもまともな意見を出せるかもしれない。腹立たしいけど利用してやろう。


 そう思って三面鏡を開いたのに、そこで私は思わず言葉を失った。

 鏡の向こうの紅乃は、それこそ私と同じくらいに思い詰めた顔をしていたから。

 顔を合わせてすぐに皮肉のひとつもくれてやろうと思っていた私は、それで完全に出鼻を挫かれた形になっていたけれど、紅乃の側も当惑がありありと顔に出ていた。

 なんであんたがそんな顔してんの。まるで私に何か相談する気でいたみたいに。

 そう考えた瞬間、閃きと戦慄とが同時に走った。紅乃がなぜ今こうして鏡の前に座っているのか、私はその答えをほとんど直感的に理解してしまった。

 その通りであって欲しくはない、でもそうとしか考えられない。

 これまで二年間ずっと、私はこの鏡と向かい合って生きてきたんだから。


「……紫乃、あのね」

 先に口を開いたのは、鏡の向こうの紅乃だった。

 やめろ、聞きたくない。私の中から、その言葉がどうしても出てこない。

「たぶん紫乃も私に訊きたいことがあると思うんだけど、私から訊いてもいいかな」

 ほら、もう全部分かってるみたいな口振りだ。そういうところが気に食わない。

 同じ遺伝子から生み出された私と紅乃の頭脳は悔しいことに同じ速度で回り、私が気付けることは紅乃も気付く。その逆も然りだって、紅乃も分かっているんだ。

「あのね、紫乃……その、今日の、学校であったことを訊きたいんだけど……」

 なのに何故そこで言い淀むんだ。覚悟を決めたんなら最後まで言ったらどうだ。

 無性に腹が立った。

 だから気付いた時には、私は紅乃がしようとしていた質問を奪い取っていた。


「――紅乃。あんた、今日の放課後、蒔原伶花に告白された?」


 その時の紅乃の「そんな馬鹿な」と「やっぱりそうか」が入り混じった顔は普段のへらへらした様子からかけ離れたもので、もはや質問の答えを聞くまでもなかった。

 そしてきっと、今の私の顔もきっと、そっくりそのまま似たようなものだろう。

 考えてみれば当然のことなのだ。鏡の向こう側とこちら側で違うのは、向こうでは私の存在が紅乃に置き換わっているということだけ。二人の性格の違いから些細な差が生まれることはあっても、出来事自体が一方の側だけで起こることなどなかった。

 こちら側で私がした体験は、向こう側では代わりに紅乃が体験する。とっくに理解していたはずのルールを今の今まで忘れていたことが、どうしようもなく許せない。

 いや、違う。

 本当に許せないのは私自身の迂闊さじゃない。私がいない世界の蒔原伶花が、私ではなく縣紅乃に想いを寄せているということだ――。


「――ふっ……ざ、けんなっ!!!」

 衝動的に立ち上がり、ドレッサーの脇に置いてあったゴミ箱を後先考えずに蹴り飛ばした。中に入っていたゴミが部屋中に撒き散らされたが、気にする余裕もない。

「なんであの子があんたなんかを! それじゃ何、顔で選んだとでもいうわけ!?」

 爆発する感情のままに声を張り上げる。自分と何もかもが違う紅乃を私と同じように好きになったのなら、私の内面など関係なく外見に惚れたというのと同じことだ。

 ふざけんな。見てくれだけで私と紅乃の違いも分からない伶花も、そんな伶花に告白されてまんざらでもなかった数時間前の私も、私の代わりに告白されたこいつも。

 ダムが決壊したみたいに、私の感情は洪水みたいに全てを飲み込んで荒れ狂う。

 

「し、紫乃! 伶花ちゃんは見た目で人を判断する子じゃないよ!」

「何が伶花ちゃんだ! 知った風な言い方して!」

「知ってるよ、あの子が入部してから一番面倒を見たのは私だもの!」

「紅乃じゃない! 私! 私なの! 伶花に好かれる資格があんたにあるもんか!」

「そんなことない! この前の日曜日、一緒にイヤリングを選んだ時だって――」

「なんであんたが、私が選んであげたイヤリングのこと知ってるんだぁっ!!」


 限界だった。私だけじゃなくてきっと紅乃も、お互いもう限界だった。

 本当はずっと許せなかったのだ。もう一人の私が私の代わりに存在することに。

 紅乃がいなくなって鏡に映るだけの存在になって、せいせいしたはずなのに。

 私達は未だに鏡映しの互いを意識して、その呪縛から逃れられずにいるんだ。


「ふざけんな……ふざけんな! あんたはいつも、私の邪魔ばかりして!」

「紫乃が言っていいことじゃないでしょ!? 私に散々迷惑掛けたくせに!」

「紅乃が勝手に面倒を背負い込んでただけでしょうが! いつ頼んだのよ私が!」

「紫乃は自分なら頼まれたってやらないでしょう! 大変なのはいつも私だった!」

「被害者ぶってんじゃない――勝手に私の前からいなくなったくせに!」

 一瞬、紅乃が絶句した。

 もしかしたら、これはお互いに言ってはいけないことだったのかも知れなかった。

 だけど、完全に感情のタガが外れた私は、もう止まろうとしても止まれなかった。

「あんたが勝手に死んでなければ、今頃こんなことにはなってなかった!」

「な――か、勝手に死んだのは紫乃のほうでしょう!?」

「あんたの側ではね! でもそういう話じゃない! どうでもいいのよそんなこと!」

 自分でももう何が言いたいのか分からない。分からないのに、開けてはいけない箱の蓋に指を掛けているのだけは分かった。これまで二年間ずっと蓋をしてきたのに。

「私とあんたは違う! 同じ遺伝子を持って生まれてきても、縣紫乃と縣紅乃は別の人間なの! あんたが生きてた頃はそうだった……うんざりするくらいそっくりで、そのせいで散々嫌な思いもしたけれど、それでも私とあんたは別々の人間だった! それが、あんたが死んでから全部おかしくなった! 本当に互いが互いの、鏡映しになって!」

「紫乃……?」

「私はあんたの鏡像じゃない! あんたが私の鏡像でもない! 別の人間なの、それで良かったの! なんで私と鏡映しの人生歩むことになってんのよ! あんたには私に出来ないことが出来たのに! 私の進めない道を行くあんたを、呆れながら見届けたかったのに!」

 鏡に映った紅乃の顔が、滲んでぼやける。ふざけんな。これは私の涙じゃないか。

 なんでこんな女のせいで泣いてやらなきゃいけないんだ。これまで二年間そんなこと一度も無かったのに。紅乃が死んでからずっと私は一度も泣かずにいられたのに。

「何でいなくなったのよ、馬鹿……もう私、あんたをひっぱたいてもやれない……」

 口の中がからからだった。湧き上がる言葉を吐けるだけ吐き出し、それ以上何も言えなくなって、私は糸が切れた操り人形みたいにドレッサーの椅子に座り込んだ。

 紅乃はしばらく何も言わなかった。

 私の泣き顔を見られてると思うと、無防備に弱みを見せた自分が腹立たしかった。


 そのまま、どれくらいの時間が経ったのだろう。

「……紫乃とこんなふうに喧嘩したの、この二年間で初めてだね」

 先に口を開いたのは、やっぱり紅乃のほうだった。

 私に出来ない気遣いというものを、当たり前のようにしてみせる。

 だから私は、こいつのことが嫌いで嫌いで仕方が無いのだ。

 悟られないように涙の跡を擦ってから、私は平静な声を装って答える。

「何よ。喧嘩なんて、それこそ毎日のようにしてたでしょ」

「そうだけどそうじゃなくて。本音をぶつけ合うような喧嘩はしたことなかったよ」

 本音。先ほどの醜態を思い出して、私は一層ばつが悪くなる。

「……私が一方的にぶつけてただけ。あんたの本音は聞いてないわ」

「私も同じだよ。ずっと言いたかった。なんで突然私の前からいなくなったのって」

「後から実は同じですよって言うの、ずるい」

「紫乃が私の言いたいことを全部言っちゃったんじゃない。昔からそうなんだから」

 そう言って、紅乃はくすっと笑う。

「……何がおかしいのよ」

「ううん。私達、やっぱり似てるなって」

「紅乃、私がさっき言ったこと聞いてなかった?」

「私と紫乃は、別の人間だけれど。それでもやっぱり似た者同士なんだよ、私達」

 本当にそうなのだろうか。紅乃の言うことは、今の私にはよく分からない。

「もしかしたら、伶花ちゃんは私達のそういう部分を好きになってくれたのかもね」

「どうだか。本当に顔だけで選んでるのかも」

「そういう子じゃないって、本当は紫乃もちゃんと気付いてるんでしょ?」

「……だからそうやって、分かったようなこと言うなっての」

 今まで通りのやり取り。だけど不思議と、今までのような苛立ちはなかった。

 何か、憑き物が落ちたような……いや、違うか。今の紅乃は憑き物そのものだし。

 自然に話が出来ることに少しだけほっとしながら、私は訊いてみる。

「伶花への返事……紅乃はどうするの」

「ん……たぶん、紫乃と同じ答えになると思うよ」

「私が出し抜くかもって、考えない?」

「そんなことにはならないって知ってるじゃない」

 もちろん分かっている。鏡の向こうとこちらで同じことが起きることは。

 それがそういう運命なのか、二人が本当に似た者同士だからかは分からないけど。

 だけど、そんなことはもう、どちらでもいいのかもしれない。

「そうね。ムカつくけど、私達は昔からずっと……二人で一人なのかもしれないし」

 そう私が呟くと、紅乃は鏡の向こうで優しげな微笑みを浮かべた。


   ▼  ▼  ▼


 翌日の放課後。

 私は、文芸部の部室に蒔原伶花を呼び出していた。

 要件は言うまでもなく、昨日の告白の返事をするためだ。

 相手の気持ちを慮るのが苦手な私にしては、ちゃんと伝えられたと思う。好意を示してくれて嬉しかったこと。一緒にいて楽しいという気持ちに嘘はないこと。だけど私はまだまだ伶花のことを知らなくて、伶花の好意を信じ切れなかった自分がいて。だから私は何より先に、私を好きになってくれた女の子のことをもっと知りたいと思ったこと。

 貴女の想いに向き合えるまでは貴女の気持ちに応えられないと、そう伝えた。

「……あちゃー。振られちゃったんですかね、これ」

 私の言葉を聞いた伶花は、困ったように笑った。

「ほんとは、私のことをよく知るのは付き合ってからでもいいでしょって言おうと思ったんですけど。先輩が本気で考えてくれたの分かっちゃって、言えませんでした」

 惚れた弱みですかね、と頭を掻く伶花に掛ける上手い言葉が私には見つからない。

「ごめんね。卑怯な答え方っていうのは、自分でも分かってる」

「えへへ、なんのなんの。むしろ完全に脈無しってわけじゃないって分かったのは、私的には大収穫ですよ。先輩が卒業するまでには、絶対振り向かせて見せます」

 伶花はそう言ってまた笑ってみせ、ふと何かを思い出したように言葉を続けた。


「そうだ。先輩は私のことをもっと知りたいって言いましたね。それじゃ特別サービスで、私がなんで先輩のこと好きになったのか、そのきっかけを教えてあげます」

 私が聞いてくれるものだと思っている様子で、伶花は懐かしむように話し出す。

「あれは、私がまだ文芸部に入部しようか迷ってた時なんですけど。前の授業が早く終わって、私は一足先に部室へ着いちゃったんですよね。当然まだ部活は始まってなくて、出直そうかと思っていたら、紫乃先輩が先に来ていたことに気付いたんです」

 私は誰もいない部室で過ごすのが好きだけど、そんなことがあっただろうか。

「それで、私も入っちゃおうかなどうしようかなーと考えながら、部室の中を覗いてみたら、紫乃先輩が手に持ったコンパクトミラーに向けて笑いかけたんですよね」

「待って。それじゃまるで、私が一人でニヤニヤしてるヤバい奴じゃないの」

 というか、鏡? 確かに私は、折り畳み式のミラーを持ち歩いてはいるけど……。

「まぁまぁ聞いてくださいよ。私も最初は、鏡で自分の顔見て笑うなんてナルシーの人なのかなって思ったんですよね。でも、その顔が本当に優しい笑顔で……ああ、この人はこんなふうに優しく笑える人なんだって、そう思ったら、もう一直線でした」

 ぶっちゃけ一目惚れですよと言う彼女には悪いけど、私は別のことを考えていた。

 私の顔は鏡に映らない。

 だから私が鏡を見て笑っていたとしたら、それは自分自身を見てのことではない。

 ……ということは、それはつまり、そういうことなのか?


   ▼  ▼  ▼


 しばらく伶花と一緒に過ごしてから、私はまっすぐ寄り道せずに家に帰った。

 通学鞄をベッドの上に放り投げ、制服を脱ぐより先にドレッサーの前に座る。

 三面鏡を開くと、もう見飽きるくらいに見慣れた縣紅乃の姿がそこにあった。

「……その様子だと、紫乃のほうもちゃんと伝えられたのかな」

「あんたもね。私のほうは、なんだかずるい答え方をした気がするけど」

「そういう自覚があるのなら、それは紫乃にとっては大きな一歩だよ」

 そう言って微笑む紅乃の顔を、私は釈然としない思いで見つめる。

 伶花は、私が鏡を見ながら微笑んでいたと言った。

 私が鏡を見る時、その向こうには必ず紅乃がいる。私が自分自身を映せない鏡を持ち歩いているのは、どうしても紅乃と話す必要がある時のためだ。

 つまり私は、紅乃の顔を見ながら「優しそうに笑っていた」というのか?

 ……面白くない。もしそうなら紅乃はそれを知りながら言わずにいたことになる。

 私の中で、このいけ好かない女を困らせてやりたいという気持ちが膨らんだ。

「ま、あんたも大変だっただろうし、たまには労ってあげる。ちょっとこっち来て」

 私が鏡へと顔を近づけると、紅乃も全く疑うことなく鏡面に身を乗り出してきた。

 文字通り鏡映しになって、私にそっくりな私でない顔が間近に見える。

 そのまま私はぐっと顔を寄せ、唇でそっと鏡面に触れた。

 感じるのはガラスの冷たい感触だけ。でも鏡映しでそうすれば、どうなるか。

 私が鏡から顔を離すと、紅乃はぽかんとした顔で私のほうを見つめていた。

 胸がすっとする。いつも余裕ぶって見せてるこいつの、こんな顔が見たかった。

「もしかして初めてだった? ざまぁ見なさい」

 だけど、勝ち誇る私へと次に紅乃が見せた表情は、私の期待と違うものだった。

 紅乃は心からの笑顔を、ふんわりと私のほうへと向けたのだ。

「……ふふっ。やっぱり紫乃は、そうやって笑顔でいるのが一番だよ」

「は? 誰が、笑ってるって」

「気付いてないの? 今の紫乃が、とっても優しい顔をしてるってこと」

 鏡に触れた唇が途端に熱を持った気がして、私は急いで鏡に背を向けた。

   

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