天つ風

@amonataru

第1話

足を後ろに引こうとしたが、釘で止められたように動かない。

何が起きたか理解できないうちに、相手の竹刀がゆっくりと自分に届くのを彼は見ていることしかできなかった。

重い衝撃が面金から頭の芯まで響いた時、与之介はしばし呆然した。

それは周りの道場生も同じだったらしく、稽古場は水を打ったように静まりかえった。

踏まれたのか、足を。

道場には再び竹刀を打ち合う音が聞こえだした。

相手は何事もなかったかのように蹲居の姿勢に入っている。顔は見えないが、わずかばかり顎を上げているのが得意気に見えた。

野郎、どこであんな小技を覚えたのだ。

与之介は自分も蹲居の姿勢をとりながら息を吐いて、腹のなかのどす黒い苛立ちも吐き出そうとした。

衆目が見守る見本試合ではなく、相手を適当に見つけて打ち合う乱取り稽古であったため、まわりには与之介がただ見事に面を打たれたようにしか見えなかっただろう。

道場の席次ではあの男は与之介にはるかに及ばない。

彼の面目は潰れた。

それに与之介は勘定方という藩の中級役人の息子でありながら、変に気位の高いところがあった。そのため自分より実力が劣っていると思う男にこうしたかたちで負けるのは我慢ならなかった。

卑怯ではないか。


稽古が終わって井戸端で水をかぶっている時も、ふつふつと怒りが湧いてくる。

ええいっ、畜生め!

水桶を井戸の中に叩き込むと、滑車がガランガランと揺れた。屋根からスズメたちがいっせいに飛び立った。

『荒れておるなぁ』

笑いをふくんだ声の方を見ると師範代がニヤニヤしながら立っていた。

『はあ…』

与之介は言葉にならないため息のような返事をした。

『足軽の家の子に負けたのがそんなに悔しいか?』

『そうではありません。私は一一一』

師範代はときおり兄のような顔を与之介に見せる。彼は懐手をして首を振った。

『足を踏まれても負けは負けだ。お前ー、白刃のしたの命のやり取りに卑怯もなにもないんだぜ』

与之介は唇を噛んだ。ここは実戦ではなく道場ではないか。ただ勝てばいいというものではない、剣にも品というものが求められるはずだ。

そんなことを言いたかったが、話がややこしくなりそうなので止した。

与之介の不満気な顔を見て師範代はやれやれというため息をついた。

『与之介よー、お前さんはもっと負けたほうがいいぜ。こんな奴にと思う相手に何度も負けて、自分の底を綺麗に割っちまったほうがいい』

それも早めにな。

師範代はそう言い残して、じゃあなと去っていった。

与之介は片付かない気持ちのまま身体を拭うと着替えて道場を出た。途中で出会った門下生たちが好奇の視線を向けているように思えたが黙殺した。


昼間はあれほど暑かった外気も、夏空に浮かぶ雲が黄昏色に染まる頃になるといつしか和らいで、お堀に沿った松並木からわずかばかりだが涼風が流れてくる。

日差しを避けて屋内にいた人も、夕涼みに出てくるので通りは夜までの短い時間に一瞬の賑わいをみせていた。そんな人々に混じって与之介は浮かない表情で歩いている。

もっと負けたほうがいいぜ。

師範代の言葉が耳にこびりついている。

負けてなんになるというのだ、という思いと、師範代のいう通りかもしれないという思いが交互に湧いてくる。

俺はどうも気位の高いところがある。そのせいか闊達さに欠けるところがあって、自分の枠に縛られているのではないか。それが俺自身も剣も伸び伸びとすることを妨げている気がする。師範代はそれを指摘したのかもしれない。

そんなことを考えていると小さな子供の笑う声が聞こえた。

顔をあげると道場で自分の足を踏んだ男が、弟らしい少年と戯れている。少年が枝切れで剣術の真似事をしているところを見ると、兄に手ほどきを受けているものらしい。二人の様子に与之介は感じるものがあった。

あの男、喋ったな。

与之介に勝ったことをである。

足軽の息子が上士の息子に勝つのは誉れといっていい。足を踏んだとはいえ、あの男はそれを無邪気に弟に自慢したのだろう。

自分が情けなくなった。

剣も学問も人並み以上にできると思っていた。しかしできるといっても抜きん出てできるわけではない。自分程度なら日本中を探さずともこの藩だけでも何十人といるのだ。

ひぐらしのカナカナと鳴く声が聞こえてくる。

俺程度の男などいくらでもいるのだ。

与之介の鬱屈した気持ちとは裏腹に、目の前の兄弟二人は心底楽しそうである。

あの男ーー

与之介は思った。

俺に勝ったのがよほど嬉しかったのだろうか。


二人を見ているうちに、与之介の胸に暖かいものが溢れた。

男は与之介に気づいたようだった。

罰の悪そうな顔をして、頭を下げる。そこには上士である彼への礼儀だけでない、謝罪のようなものがあった。足を踏んで勝ちを得たことか、それを自慢したことか、その両方であったのか。そんな兄を少年は不思議そうに見ている。

与之介は二人の横を通り過ぎながら、苦笑してその礼に答えた。それでも道場でのことを思い出したせいで自分の顔がわずかにこわばるのを感じた。

坂を登って途中まで来た。

夏雲が夕焼色から紅を濃くして空に浮かんでいる。

うっすら白い月も出てきたようだ。

与之介は今度は一人でもう一度苦笑した。

今日のところは負けといてやる。

あの兄弟が嬉しがっているのだから、それでいいじゃないか。

そう思うと、さっき二人に会った時にもっと気持ちよく笑ってやればよかったなと思った。

肩にかついだ稽古道具をがたりと鳴らすと、与之介は再び坂を登って家路についた。

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