睡蓮抄(3)
それから何日か経ったが、相変わらず私の生活は雲海さんが加えられた以外ほとんど変わらなかった。
朝から鏡を磨き、時折、仙人様にお茶に呼ばれて話に付き合い、気がついたら転寝をしていた仙人様に布団をかけ……変わったことといえば、朝昼晩と雲海さんのために食事を作るようになり、お茶に呼ばれる時に用意する茶器が三人分に増えたこと。あとは……屋敷の掃除の最中、ふらりと現れた雲海さんととりとめもないことを喋ったりすることぐらい。
どうやら雲海さんも、暇な仙人様と碁を打つ以外は大した用もないらしく、よく私が掃除している姿を柱にもたれかかって眺めている。時折何か言いたげな顔をするのだけど、何度か尋ねても誤魔化されてしまったので、ここ数日は諦めていた。
「ちょっと、外に出てみない?」
まだ日も出ていない早朝。私が朝食の仕込をしていると背後からそんな声が聞こえた。薪を入れる手を止めてかえりみると、雲海さんがいた。
「え、でも、どうやって……?」
思わずそう口走るが、そんなことは決まっている。雲海さんにも笑われてしまった。
「俺が乗ってきた舟で。……なんか外に興味もあるみたいだったし。嫌?」
「いえ、そんなことは全然。朝食が少し遅くなりますが、いいですか? …………じゃあ仙人様に断ってきます」
そう言い置いて駆け出そうとするが、その前に
「彼は今出かけてるみたいだよ」
と、言う声に止められた。
「屋敷全体を調べたわけではないけど、東屋にもいつもいる部屋にもいなかった。出かけてるんじゃないのかな?」
その言葉に、私は少し首を傾げた。私は何も聞いてない……またいつもの気紛れだろうか。
私の疑問に気付いたのか
「なんだか急用があるみたいなことを昨晩言ってたけどね」
と、雲海さんは付け足した。
確かに雲海さんは昨晩遅くまで仙人様と碁を打っていた。しかし二人共かなり相手の打つ癖が分かってきたためか、少しつまらなそうだった。それで出かけることを思いついたのかもしれない。あの、気紛れな人ならありそうなことだ。
「なるほど……何かいるものはありますか?」
「いや、特にはないよ。……行こうか」
雲海さんは先に立って歩き出した。私は慌ててその後に続く。雲海さんは歩くのが早くて、私は半ば小走りになっていた。耳元で髪飾りがシャラシャラと涼しげな音を立てた。東屋に向かう桟橋を渡る。今日はあまり霧が濃くない。空を仰げばおぼろげに半分の月が見えた。その月光に照らされ、蓮の花は閉じていた。霧によってついた雫にそっと触れる。葉に触れたとたん、そこに溜まっていた水が私の手の上に零れ落ちた。
ぱしゃん。
と、水音がする。その方向を見ると、雲海さんが舟に乗り込んだところだった。彼はおいでと手を差し伸べる。片足を舟にかけたとたん舟が揺れ、私は固まってしまった。恐る恐る、雲海さんの顔を見上げる。彼は私を安心させるように微笑み、手を取った。思い切って舟に乗り移る。そのとたん舟は激しく揺れ、私は思わず雲海さんにしがみつく。また、懐かしい香りがした。
あぁ、沈丁花の香りだ。
この人の庭に植わっていた花の香りだ。
湖を覆いつくしているように見える蓮を避けて舟は進む。私も彼も黙って舟に乗っていた。まるでそうするのが当然のように。
何故、こんなに彼といると懐かしいのだろう。
彼といるとほっとするのだろう。
思考は徐々に空転していく。
きぃっ、きぃっ……と、舟を漕ぐ音だけが湖に響き渡っていた。
唐突な風により霧が割れ、月光が湖の水面に落ちた。
その部分だけが明るく照らし出される。
蓮の花が開き始めているのが見えた。夜明けが近いらしい。
その蓮の花や葉の狭間。
そこにはこの湖にとって異質なものがあった。
白い、手。
そこから腕の上部に辿っていくと、白の死に装束を纏った薄い肩。
肩に散らばり、水面に浮き、水中に沈んでいる、漆黒の乱れた髪。
蓮の花をかたどった、珊瑚の髪飾り。
生きているとは思えない、血の気のない顔。
安らかで、むしろ嬉しそうに淡く微笑まれた表情。
そこには、私がいた。
私が、死んでいた。
紛れもなく、私だった。毎日鏡越しに見ていた顔がそこにあった。
「どうして……?!」
震える手を握り締め、私は掠れる声で叫んだ。
「私はここにいるのに……あれは誰……?」
爪の先が掌に食い込むほど握り締められた手に、雲海さんが手を重ねる。その温度には覚えがあった。冷え性の私よりはかなり温かく、乾いた掌。
「まだ、思い出せない?」
彼が耳元で囁いた。この声にも聞き覚えがある。
覚えがあることばかりなのに、それがどこでの記憶なのかが思い出せなく、もどかしい。
「あの人は誰なの? そうだ、助けなくちゃ、まだ助かるかもしれない」
私が立ち上がりかけたとたん、舟が傾き、ぱしゃんと水音が鳴った。そのまま身体が傾ぐのを雲海さんが抱きとめる。
「落ち着いて……。あの人はもう助からないから」
その感情を押し殺した静かな声の奥底に、後悔と悲しみの色が見て取れた。
再び一陣の風が吹き、霧を吹き飛ばす。かなり霧が薄くなってきていた。
「あ……」
霧が薄くなるのに伴って、思考が、記憶が明瞭となってくる。
その死体は、間違いなく私のだった。
「私はもう、貴方と共に死んでいたのね」
私の譫言の様に紡がれた言葉に、彼は苦しそうに頷いた。
「死んでも死に切れていなかった私を助けに来てくれたのね」
今度は返事の変わりに強く強く抱きしめられた。彼の肩はまるで痛みを堪えているかのように震えていた。少し苦しかったのは確かだったが、決して嫌ではなかった。心地よかった。ようやく帰るべきところに帰ってこれた。そう思うと少しだけ涙がこぼれた。
* * * *
湖の中、霧と蓮に閉ざされた東屋に、人が二人座っているのが見える。卓の上には勝負が終盤に入っている碁盤が置かれており、それを挟んで片や黒の碁石を持って憮然としている年齢不詳の男が、片や白の碁石を持ち淡く微笑んでいる青年が向かい合っている。
「まさか、負けるとは。……この勝負は勝つつもりだったのにな」
年齢不詳の男――仙人は面白くなさそうに碁石を碁笥に放り込み、目元にかかった前髪を掻き揚げた。
「俺も本気でしたから。……勝ててよかった」
青年――雲海はほっと肩の力を抜いて碁石から手を離した。この勝負というのは碁のことではない。
「どうでもいいが、屋敷から連れ出すというのは反則じゃあないのか? しかも俺が古馴染みに会いに行っている間に」
「それではこちらの分が悪すぎます。まさか霧が暗示の術を使うためのものでもあるとは思いませんでした」
「普通だ。良くある手だ。それにそんなに強い暗示の術は使っていない。暗示の術は難しいからな。弱すぎれば効かないし、強すぎれば精神が壊れかねない。瑞香は効きやすい方で助かった」
実はこの二人、雲海が瑞香に紹介される前の晩に出会っている。その日は朔月であった。この湖の周辺にある霧には仙人が迷いの術を使っており、普通は屋敷には辿り着けないのだが、朔月の晩だけはその術が緩み、屋敷に行くことができるようになってしまう。雲海はその日を狙ったのだった。
そして、その晩に仙人はこんな勝負を持ち出してきた。
『君が瑞香を返して欲しいのはよく分かった。だが、瑞香はもう死んでいるし、ここで働いてもらっている。だから取引をしよう。君は俺の旧友で、たまたま訪ねてきた振りをする。そして瑞香に本当のことは教えずに、自分が死んでいることを気付かせてみたまえ。もし一ヶ月以内にそれができたら、瑞香を生き返らせて君の元に返してあげよう。しかしそれができなかったら、君にも少々特殊なところで働いてもらおう。なに、そんな胡散臭いところではない。俺の古馴染みのところだ。さあ、この勝負に乗るかい?』
そして、雲海はこの勝負に乗り、翌朝から勝負は始まった。
「さて……いつだったか?
「そんなに昔のことじゃありませんよ。精々五年以内です」
雲海はすっと目を伏せた。
当時のことを思い出すと、たとえ瑞香が生き返ると分かっていてもまだまだ辛く、瑞香に対して悪いことをしたと思う。
その楊家のお坊ちゃんというのが雲海のことであり、女中というのが瑞香のことである。家の者に捕まれば、雲海は跡継ぎなので無理矢理家に連れて帰られるだろうし、瑞香にいたっては雲海を誑かした奴ということで殺されかねない。だから、追いつかれそうになった二人は死を選んだ。
なのに……。
「しかしこの湖を心中の舞台に選ぼうなんて、なかなか無茶なことをしてくれたね。俺も見ていて呆れた。蓮があるくらいなんだから、ここはそんなに深くはない」
それがため雲海は生き残った。
瑞香は見殺しにされて死んだ。
仙人は頬杖をついて、冷め切った茶を啜る。そして眉をしかめた。
「不味いぞ」
「なんで俺が貴方に美味しいお茶を淹れなきゃいけないんですか」
「やっぱり不便だ。瑞香を返してくれないか?」
「返してって……瑞香は貴方のじゃないでしょうが」
「明日から自分で掃除もお茶を淹れるのもしなきゃいけないんだぞ。面倒だ。お前が悪い」
「それくらい自分でして下さい」
ここまでくると駄々っ子のようである。しかし本人は至極真面目だ。これが瑞香にさっぱり分からないと言われる所以である。
「で、約束の方は?」
「少々時間が掛かる。なにせ人1人生き返らせようというのだからな。そうだな……明日の夜明け時にこの湖の南の岸に届けよう。ちょうど山道から出てきた辺りのところだ。だからそれまで近くの村で時間でも潰していろ。ここに居られても邪魔なだけだ」
仙人は犬でも追い払うように雲海を手で払う。その動作にムッとした様に雲海は眉を寄せて、念を押した。
「……本当ですね?」
「本当だ。しつこい。早く帰ってくれないと、明日までに間に合わん」
「では、失礼します。ですが、もし約束を破られたら、どんな手を使ってももう一度ここに押しかけますよ」
「分かった、分かった。人の恋路を邪魔したら碌なことにならないということもよく分かった。これ以上君の恨みを買わないためにも約束はきちんと守ろう」
本当にうんざりしているようだ。雲海はその表情をしばらく胡乱気に見ていたが、やがては信じることにしたらしく東屋から出て行った。そしてきい、きぃと舟を漕ぐ音が聞こえてきた。
それを聞きながら、先ほどは忙しいと言っていたくせに、仙人はのんびりと不味いお茶を啜っていた。
「やれやれ……本当は生き返らせるなんてしてはいけないのだがな。ばれたら面倒だな……。また
そして、至極真面目な表情で付け足したのだった。
「俺って、性格がいいから損するんだな」
* * * *
翌朝。東の空、山の稜線が明るく白み、空の色が黒から紺に変わってきた頃。
その湖には天上の世界のような光景が広がっていた。
霧が晴れて、湖の一面に薄紅色や白の蓮の花が咲き乱ているのが見える。ようやく山の間から出てきた太陽の光に、その水面はキラキラとまるで極上の玉を敷き詰めているように煌めいた。それは深い午睡でさえも覚ましてしまうような光景であった。
了
睡蓮抄 小鳥遊 慧 @takanashi-kei
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