睡蓮抄(2)

 あくる日、私は小さく溜息をつきながら廊下の鏡を拭いていた。この屋敷には50は下らない数の鏡があちこちにかかっている。当然のことながら一日で全部の鏡を磨けるわけもなく、何日か置きに同じ鏡を拭くことになる。廊下は通ることが多いので、下のほうに汚れがたまっていた。


 なんだか雲海さんがきてから屋敷の空気がおかしい。どこがおかしいとは言えないが、今まではぬるま湯につかっているような、午睡を貪り、夢と現の間で微睡んでいるような心地よさと停滞感があったのだが、雲海さんが来てから急に空気に動きが見られ、風通しがよくなったような感覚がある。飽くまでも感覚でしかないのだが。特におかしいのは雲海さんと仙人様が二人でいる時。二人共微笑んでいるのに、何故か空気がぴりぴりしている気がする。


 下の方を拭き終わり、続いて椅子の上にのぼって上の方を拭こうとする。しかし、考え事をしていたせいか、元々あまりのぼり易い形をしていなかった椅子が不意に傾く。


「ぅわっ」


 小さく声を上げて身を竦め、目を強く閉じる。


 落ちる!


 そう思ったがいつまで経っても痛みは訪れなかった。恐々と目を開く。


「大丈夫ですか?」


 そこには心配そうに私の顔を覗き込む雲海さんがいた。どうやら椅子から落ちそうになった私を支えてくれたらしい。


「あ、はい、大丈夫です。申し訳ありません」


 慌てて身を離し、椅子から飛び降りる。


「この椅子、脚にガタが来てますね。……直しましょうか?」


「いえ、お客様にそんなことして頂くなんて……私が叱られてしまいます」


 考え事をしていたため、ちゃんと確認していなかった自分が恥ずかしい。赤面性の嫌いがあるため、今も顔が真っ赤になっているだろう。それが恥ずかしくて、ますます顔に血が上っていく。


「そうですか。では、気をつけて下さい」


 案外あっさりと引いてくれたので、ほっとしつつ別の壊れかけていない椅子を取りに行った。


 私が戻ってきた時、雲海さんはまだそこにいた。そして私が掃除を再開してからも、廊下の柱にもたれて私を見ていた。どうやら先程は引いたものの、私が心配だったらしい。心配されるほどとろくはないつもりなのに。私がよろける度に眉を顰め、手を伸ばそうとしているのが鏡越しに見えた。


 何も言わずにただそこにいる。私も黙々と掃除を続けていた。存外居心地は悪くなかった。見られているのも余り気にならなくなってきた。やはり昨日は初対面だったから緊張していたのだろうか。


「変わった所ですね」


「え?」


 不意に声をかけられ、思わず振り返る。その際に椅子から足を踏み外しかけ、彼はギョッとした顔で柱から背を浮かした。私がちゃんと椅子の上に踏みとどまったのを見届け、彼は再び柱に背を戻した。


「続けてもらって結構です。俺はここで勝手に喋ってますから」


「えっと……変わった所って、ここがですか?」


「霧と蓮に覆われた大きな湖の中央に建つ屋敷。出入り口もない、霧と蓮に囲まれた密閉空間。なかなかおかしな所だと思いますけどね」


 そういえば……この家は母屋と東屋から成り立っているのだが、外と通じる扉がどこにもない。それにもし外に出られたとしても、蓮の葉や花が邪魔をして容易には舟も出せないはずだ。仙人様はもしかしたら雲にでも乗って出かけるのかもしれないと思っていたのだが、未だにその姿は見たことがなかった。時折屋敷のどこにもいないことがあるので、その時はどこかに何らかの方法で出かけているのだろうが。


 私は雲海さんの話に興味を持ち、またそちらに気を取られて椅子から落ちないように、先に椅子から下りて彼と向かい合った。


「では、雲海様はどうやって来られたのですか? 船ではとても渡れないはずなのに」


 私がそう尋ねると、彼は困ったようにどこか悲しそうに苦笑した。


「その雲海様ってのはやめてくれませんか。そんなにいい身分でもない」


 その割には服装は裕福そうなのだが、私は言われたとおりに


「では……雲海さん?」


 と、躊躇いつつ言った。そして続けて昨日から思ってた言葉を続ける。


「あの、お客様にそんな丁寧な言葉で喋られるのって落ち着かないのですが……」


「分かりました……いや、分かった」


 ついでに、にこりと微笑まれて、気を悪くはしなかったようだとほっとする。


「俺は舟で来たんだよ」


「え? でも……」


「舟って言っても、小舟。一人か……詰めて乗っても二人が限度かな。東屋のほうに泊めてある」


 昨日は気付かなかった。昨日はそんなに霧が濃いほうでもなかったので、それでも気付かなかったということは相当小さいのだろう。


「はぁ、なるほど」


 と、いうことは、仙人様じゃなくても……私でもここから出れるということか。


「ここではどれくらいの間働いてるんだ?」


 何の脈略もなく話が変わった。


「えーっと………どれくらいでしょうか? 一ヶ月や二ヶ月のことじゃないし、五年や十年ってわけでもないし……二、三年……でしょうね」


「覚えてない……?」


 軽く眉を顰めて、そう聞き返されて初めてそれが奇妙なことだと気付いた。ここでどれくらいの間働いているかが、何故思い出せないのだろう。私が失ったのは過去の記憶だけのはずなのに……。


 不意に襲ってくる不可解な不安を押しとどめる。


「ここは外界から遮断されているし、一年中霧が濃いので時間の感覚がいまいち掴めないので……」


 言ってから、ああきっとそうだと、すとんと納得した。


 まるで、他人の考えに頷くように。


「でも、食事は? 材料はどっからか買ってこなきゃいけないだろ? あの仙人はともかく、君は人間なんだから」


「そりゃあ……」


 答えようとして、言葉に詰まった。……分からない。昨日は貯蔵庫にあった材料を使った。じゃあその前は? 大体、その貯蔵庫にある食材はどうやって誰が手に入れたのだ? と、いうか、私はここに来て以来何を食べていただろうか。


 そう考えればおかしなことがたくさん出てくる。


 例えば先程の舟の話。


 私は舟でここに来たと、来られると聞いて何と思った? 私にも出れるんだ、と思った。しかし私は元からそのうちは出て行くはずだったのだ。なのに何故方法も何も考えていない? ここは閉ざされていると勝手に考えていた?


 大体、私はどうやって来たんだろう?


 そう考えたら、どうしてだか顔から血の気が引いた。


 まるで恐ろしいことにでも直面しているかのように。


 混乱する私を雲海さんはただじっと見ていた。このおかしな理由を早く見つけなければいけないような気がして、私はますます焦ってくる。息が浅く、忙しなくなる。


 雲海さんの背後では、水面に蓮の葉と花が浮いている。花は既に閉じようとしていた。霧が濃くなり、ゆっくりと廊下に入り込んで、私を包んでいく。霧に包まれて、ふわりふわりと意識が浮ついた。緊張で冷えた指先が眠りに落ちるときのように温かくなり、考えるということが酷く億劫になった。呼吸が落ち着いていく。


「大丈夫……?」


 ……考え込んでいるときの私は酷く顔色が悪かったのだろう。また心配されてしまった。


 ――いつも心配されてばかりなんだから、しっかりしないと。


 何故そう思ったかは分からず、ただそんな思いだけが胸を満たしていた。


 考えることをやめた今は、さっきまでの焦燥感や緊張感が嘘のように落ち着いていた。


「大丈夫ですよ?」


「それにしては顔色が悪い。少し休んだ方がいいのでは?」


「……じゃあ、お言葉に甘えてそうさせていただきます。昼食のころには起きますから」


 私はぺこりと一礼して椅子を片付け、部屋へと戻る。その時背中に、雲海さんの心配そうな視線を感じた。


 部屋に戻って寝台にどさっと身を投げ出した。


 窓の唐草模様の透かしを指でたどる。そうしてぼんやりと疑問を並べた。


 ここに来てから私は何を食べていたのだろう。

 ここに来てからどれ位の時が経ったのだろう。

 どうやって、どうして、ここに来たのだろう。


 何故……雲海さんを見ていると、酷く懐かしいのだろう。

 何故、雲海さんの纏う空気にどこか覚えがあるのだろう。


 髪飾りを外すと蓮の花とは別の端から垂れるようになった飾りが、シャラシャラと涼しげな音をたて、なにか思い出せそうな気がした。しばらくそれを軽く振りながらも、私はいつしか心地よさに負けて、午睡に引き込まれていった。


 

    

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