睡蓮抄
小鳥遊 慧
睡蓮抄(1)
中国山奥に険しい山々に囲まれた広い湖がある。その湖には数え切れぬほどの蓮が自生し、水面を覆っている。特に夏の朝は蓮の花が咲き乱れ、まるで天上の世界のような光景だとか。ただし、その『天上の世界のような光景』というものを見るためには、一つだけ条件がある。
晴れていること。
単純なようでいて、かなり難しい注文である。何故なら、その湖の周囲は霧が出ることが多いからだ。しかも生半可な霧ではなく、三尺先が見えるかも怪しいような濃い霧なのだ。
しかしその霧が故に神々しく煌々しい天上の世界は見えないが、代わりに少し不気味なまでの厳かさ、神秘性がある。
そんな湖だ。
蓮があるが故に漁などはできなかったが、昔からある種の信仰の対象になっていた。
だからこそ数え切れぬほどの噂、伝説がある。
「こう、山が連なっててな、その真ん中のへこんだところに湖があるんだよ。俺は猟の途中に迷っちまってそこに辿り着いたんだがな、その日はたまたま晴れていて……朔月だったから暗かったが、ほんに綺麗なとこだったよ。なんていうか……道に迷ってたっていう不安が一掃されて、心が洗われたっていう……」
「なぁ、聞いたか?」
「何をだよ」
「あそこの湖には仙人が住んでるらしいぜ。何でもその湖の中央に大きなお屋敷と離れの東屋を建ててそこに一人で住んでるらしい。しかもその屋敷には出入り口ってのがなくって、その上湖を渡るための舟や橋もないから完全に閉ざされてるんだってよ」
「すげぇ嘘くせぇ。大体、俺もあの湖見に行ったことあるけどさ、そんな建物なんて見えなかったぞ」
「つったって、あそこの湖対岸見えねぇじゃん。霧も濃いし。お前が見に行った時だって霧出てただろ? もしかしたらあるのかもよ?」
「馬鹿なことばっかり抜かしてねぇでさっさと職探さねぇと、またかみさんにどやされるぞ」
「ねぇねぇ、聞いた? 湖に若い女の子の幽霊が出たんですって。何かきれいな珊瑚でできた髪飾りをつけた」
「えー? 私は怪我人って聞いたけど? あそこで溺れたんですって。あんなとこ誰も入らないから嘘だと思うんだけどね」
「仙人がいるって話は?」
「そんなの昔っからあるお伽噺じゃない。嘘嘘」
「あのねー、あの湖に行くと失くし物が見つかるんだって。ねぇ、私大切にしてたお人形さんなくしちゃったの。一緒について来てよー」
「そんなの無理だって。父ちゃんにあの湖には近づくなって言われてるだろ?」
「大哥(一番上のお兄ちゃん)だって、この前お父さんに内緒で行ってたもの」
「大哥はもう大人だろ。大体あの湖には怖ーい妖怪が出るんだぞ」
「そんなの嘘だってお隣のお兄ちゃんが言ってたよ」
そんな、湖が中国の山中にあった。
* * * *
「んしょっと」
私は、小さく掛け声をかけながら椅子を持ち上げ、壁際の鏡の前に置いて、そこにのぼり鏡を磨き始めた。
私には、記憶がない。
私には、思い出がない。
私には、しがらみがない。
私には自分の名前はあった。
それと、握り締められていた髪飾りが私の全てだった。
髪飾りはこの屋敷を囲んでいる同じ花が模られていた。
珊瑚でできた、薄紅の花びらを幾重にも重ねた蓮の花。
瑞香という名前とその髪飾りだけを持って、他の何も持たず途方に暮れていた私を拾ってそのまま女中としてお屋敷に置いてくださったのは、仙人様だった。
仙人様は特に何もせず、ほとんどの日は蓮と霧に囲まれたこの屋敷にいる。日がな一日中黙って本を読んでいたと思ったら、次の日には屋敷と桟橋で繋がっている東屋で私を呼んでお茶をしながら一瞬の沈黙もなく喋っていたりする。何か真剣な顔で考え込んでいると思ったら、次に見た時にはそのままの格好で転寝をしていたりする。真面目なのか不真面目なのか、老成しているのか幼いのか、お喋りなのかそうでないのか………全く分からない。何を考えているのか全く分からない。年齢も二十代と言われても、五十代と言われても『そうですか』と頷いてしまいそうになるほど曖昧だ。ただ分かるのは、喋り始めるときの癖が、長すぎる黒い前髪を鬱陶しそうに掻きあげることで、その喋り方が変に文語がかっていることだけだ。はっきり言わせて頂くと変な人だ。
しかし、矛盾が多いというか、気紛れな仙人様も私にはよくして下さる。何せ身元も知れない記憶喪失の女を雇ってくれる。恐らく私がいなかったら私がいなかったで全く何も困らなかっただろうに。何せ私が任されている仕事は屋敷の掃除……特に家中のあちこちに張り巡らされている鏡を磨くことだけだ。仙人様は仙人だから食事の用意も要らないし。
私がそのうちここを出ると言っても、微笑んで首を振るだけなのだ。無理をしなくてもいいと。どうせ記憶がないまま外界に出ても余計に困るだろうと。そう言ってやんわりと止めるのだ。だから思わず甘えてしまう。いつかは記憶を取り戻して、外に出なくてはいけないのに。
そうして時間の感覚もなく、何日も何週間も何ヶ月も経ってしまっている。
* * * *
ある日、お客様が来た。私がここで働くようになってから初めてだ。
仙人様はその朝唐突に窓の外に咲く蓮の花を見ながら、
「今日は午後になったら東屋にお茶を三人分持ってきてくれないか?」
と、言い出した。二人分ならまだ分かる。私がお茶に呼ばれるということだろう。しかし………何故三人分? 仙人様と私以外にここには誰もいないはずなのに。
「三人分……ですか?」
思わず困惑して聞き返すが、
「そう三人分」
にやりと笑ってそう返すだけで、説明する気は更々ないらしい。こういう時はいくら尋ねても無駄だということは身にしみて分かっているので、溜息をつくだけで追求はしなかった。どうせ午後には分かるのだし、大したことはない気紛れだろうから、と。
だが、私は午後になって心の臓が止まるかと思うほど驚くことになる。東屋には仙人様と向かい合って碁を打っている見知らぬ男の人がいた。上等そうな服をしっかり着込み、髪をきちんと結い上げている。私より少し年上だろう。あまり喋らないような固く引き結ばれた唇。意思を持って強く光を宿した目。全体的に物静かなようでいて、それでも自分の意志を曲げない力強さがある。どこか良家のご子息……しかも長男、という印象だ。パッと見でも分かるほど、身なりはよかった。誰かは知らない。だけど……どこか胸の締め付けられるような感じがした。どこか懐かしい香りがした。確か……この香りは。
「瑞香……」
彼は私を見て喜びとも驚きとも安堵とも取れるような、複雑な声で私の名を呼んだ。
「……どうして私の名前を?」
「俺が言ったからだ。お茶はちゃんと持ってきてくれたかい?」
入り口で立ち尽くす私に仙人様は手招きをする。卓の上に茶器を並べる私に仙人様は説明を始めた。今日はよく喋る日らしい。
「こちらは旅人の
「はい。……女中の瑞香といいます。ご用事の際はどうぞお申し付けください」
お盆を手に私は頭を下げた。彼は私が入ってきた時から片時も私から目を離さない。……なんだか少し気味が悪い。
「こちらこそよろしくお願いします」
雲海さんは言葉少なに先程と違って感情を抑えたような抑揚のない声で言った。
お客様がいるなら、と出て行こうとする私を仙人様は呼び止める。
「何のために三人分って言ったと思ってるんだい?」
「ですが……」
私は思わず雲海さんの方を窺う。
「俺は別に構いませんよ」
ようやく彼は私から目を離した。そして、丁寧な物腰で茶器を手に取る。
「では……お言葉に甘えて」
そう言って席に着いたものの、空気はかなり気まずかった。仙人様はいつも通りのんびりとした口調でとりとめないことを話しているが、私は小さく返事をするだけで、雲海さんは黙って聞いているだけだった。いや、彼は仙人様の話を聞いてもいなかったのかもしれない。何の気なしに雲海さんの方を見ると必ずと言っていいほど目があった。私のことを窺っているようだった。
なんだか空気が重くて、その日のお茶の時間は休憩のはずなのに余計に疲れてしまったのだった。
* * * *
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