モルデ 旅の始まり 1-2

      2


 まだ、ほとんどの者が寝息をたてている早朝。

 城内に建てられた家畜小屋の傍らで、一人の男が木剣を振るっている。剣は見習いの平騎士や歩兵が稽古に使う物で、重い樫材で作られた汎用品である。鍛錬を積んだ者ですら振るうのは苦行であるが、その男の手に握られているのは通常の木剣を何本も束ねた武骨な代物であった。

「見ろよ、またやってやがる」

 城壁沿いの塔、丈夫に作られた木柵の奥から見張りの兜がひょっこりと頭を出す。ひび割れた砂岩や石灰岩からなる塔は、長い年月をかけて増築されてきた城の一部だ。見渡せば似たような物がいくつも並び、塔壁には矢狭間やはざまと呼ばれる細長い穴が無数にある。そこからも何人かの見張りが覗いているようだった。

「あの大男、毎晩ああだぜ? 騎士でも傭兵でもないくせに」

「そうなのか? 俺は初めて目にした。城への配属は昨日からでな」

 家畜ですら大人しくしている丑三つ時、守衛たちの声はよく響く。

 数年前まで国同士の争いが頻発していたが、近頃は矢が飛んでくるようなことはない。鉛板を丁寧に敷き詰めた屋根に出番はなく、よじ登ってくる敵兵にぶつけるための石も苔むしている。衛兵たちにとって今の敵とは『暇』であり、目下で鍛錬に励む小間使いなど格好の餌食であった。

「どうりで若いと思った。前の所属は?」

「物心ついてからは戦士組合に入りびたりさ。これでもカッパー階級さ。ギルド長が倒れちまって、それからはこの城の地下牢ダンジョンを見張りしていた」

「地下牢だって? それならの噂も聞いてるのか?」

「ああ、噂って言うより、この目で見たよ」

「っ……」

 ごくり、と守衛が唾を飲み込む気配。

「罪人のいないはずの牢獄から唸り声が聞こえてくるってんだから、一人で見張っていた日にゃあやってられんよ。俺以外の若い奴らはみんな止めちまった」

「どうりで、地下牢の塔だけ出入りが激しいってわけだ」

「辞める奴らはみんな金貨を握らされているらしい。この件にはあまり首を突っ込まんほうがよさそうだぜ。俺だって運良くこっちの配属になっただけなんだ」

「まったく、勘弁してほしいぜ。しかし、それだけの腕なら組合に居たほうがよほど高給取りだったろうに」

「それがよ、近頃になって凶悪な魔物が増えたような気がしてな。コエントならまだしもウルラーレの村には目もあてられねぇ。情けなくも命惜しくなっちまってな」

「はっはっはっ、そりゃこっちに来て懸命だ。ここだけの話、城でも長期間未達成の不審任務が増えてきたって話よ」

「まさか、またんじゃないだろうな。だとしたら世も末だぜ? この城にですら攻略できない魔物が潜んでるってんだから」

「お前、洗濯係の女に手を出したのか?」

「おうよ。ありゃ美人の皮を被ったオークのに違いねぇ。兜がぶっ飛ばされた」

 がはは、と酒場のような笑い声が中庭に反響する。

 例の男はと言えば、家畜小屋の横でやはり木剣を振り続けている。

 守衛たちの視線が再び男に向かう。

「……あいつもかなりの図体だが、組合から逃げてきた類か? 名は?」

「そんな大層なもんじゃねえよ。柔らかい肉の塊さ、あの男は。ここに来る前は物乞いだったと聞いている。名前は確か『モルデ死神』という」

「モルデ? 笑えない冗談だ。まさか本名ではあるまい」

「詳しくは知らん。ただ、騎士隊長のイラーきょうがことあるごとに悪態をついていらっしゃる。だから従者の間では有名なのさ。明るいうちは外套がいとうで隠しているが、俺は顔も拝んだことがあるぞ」

「すごいのか?」

 若い守衛の食いつくような問いに、先輩の守衛は自らの顔を引っ掻くようなを仕草をして見せる。

「ざっくり、さ。額、目元、頬、首にまで酷い傷痕がある。ありゃ賊か何かに拷問されたんだろう。もしかしたら、本当に俺たちを迎えに来た死神なのかも」

 ひえぇ、と新人がわざとらしい声をあげた。

「まあ、ただの噂話さ。本当のところは傭兵か騎士かに無礼を働いたんだろう。城から面倒を見て貰えるんだから運のいい物乞いさ」

「オルゴーリョ城伯も相当な物好き……失敬、慈悲深き御仁であるな」

 見張りたちの遠慮ない談笑は続く。

 しかし木剣を振るう男――モルデがそのように言われても、仕方のないことだった。城で最も身分の低い小屋住まいが、剣士や騎士様の真似事をして体を鍛えているのだ。世間では修道院での葡萄酒作りも終わり、寒さと飢えに備えて家畜をせっせと肉にしているのに、鍛錬の恰好は半裸とくる。傍からしたらまるで無意味な努力であり、家柄や実績で登り詰めた騎士からすれば侮辱にすら捉えられてしまう。

 しかし、実際は噂だけが独り歩きして、モルデの顔以外は誰もしっかりと見たことがないのだ。鎧のような分厚い胸板も、これでもかと筋肉を詰めた岩のような腹も、分厚い皮膚に包まれた貫禄のある手のひらも、丸太のごとく発達した腕や腿も、夜闇に飲まれてはっきり見えない。守衛が見たと自慢する顔の傷すらも、全身のあらゆる箇所に伸びている。切傷、裂傷、火傷、凍傷、この世の痛みを凝縮したような痕跡は、モルデが人として外れた道を歩んできたことを物語る。彼がその気なれば、この城を単独で制圧することも可能であろう。

 幸いなことに、モルデは他人からの悪意に疎く、根は亀のように温厚だ。日中は雑務に励み、に目立たずに行動している。周囲から見えにくくなる夜半の稽古は、愚かな小間使いとしての立ち位置を守るために他ならない。

 モルデの素性を知るのは、城の主オルゴーリョ城伯と、騎士隊長であるイラー卿だけである。

「そろそろ交代の時間だ。死神に連れて行かれる前に撤収するぞ」

「へいへい。あの世に行くのは『フォラータ騎士団』だけで充分だってな」

「フン、奴らじゃ間抜けすぎて死んだことにも気づかんだろうに」

「違いねぇ」

 今夜で一番の笑い声が庭に木霊する。

 ざく、と地面に強く木剣が刺さったのは、それとほぼ同時である。

「ああ……?」

「ほっとけ。関わらないほうがいい」

 見張りたちはにやにやと笑みを浮かべ、塔の内側へ消えていく。

 モルデはしばし、守衛たちの背中を睨んでから、木剣の束を引き抜いて小屋に立てかける。黄ばんだ麻布のシャツに腕を通し、地面に敷かれていたベッド兼用の外套をばさりと羽織る。無駄に大きな外套はモルデの体を平坦に見せる。深くフードを被れば、そこには高さだけが取り柄の細長い小間使いしかいなかった。

「凶悪な魔物が増えてきた、か」

 モルデは呟き、耳に残る守衛の笑い声を――が残していった最後の言葉を、溜め息で一蹴する。

 かつて、盟友ベルティーナは言っていた。

 永遠は存在しない。夜が来れば必ず朝が来る。

 太陽は出る時と沈む時が一番早い、と。

 ――夜明けを急ぐ空が、わずかに光を滲ませている。その光は頼りなく、闇の混ざる様は脆弱で、しかし何かを訴えるような穢れない純粋さをまとっている。

 モルデはこんな夜明けを、様々な場所で、色々な思いを抱きながら、たくさんの人たちと何度も目にした。

 何度目にしても、美しい光景だと思った。

 そうしているうちに、光は赤みを含み、やがて白さを帯び、闇を溶かしながら朝焼けに姿を変えていく。朝日がまっすぐに伸びてきて、空や地面に城壁の影を落としていく。

 街の方角から、慎ましやかな鐘の音が聞こえた。

 息を潜めていた鳩たちが、城のそこかしこから飛び立っていく。

 一日が始まろうとしている。

 モルデは背伸びをすると、顔を洗うために井戸へ歩き出すのだった。

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水晶奇譚 森野 @kakuy0mu118

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