童女、涸れ井戸の中から空を見上げる(穴)(救済)

 丸い穴から覗く空はどんな表情でもとても綺麗で、まるで旦那様に見せていただいた万華鏡のよう。

 くるりくるりと変わる顔色は、見ていて飽きることはない。

 それが青であれ、赤であれ。


 とりわけ好ましいのは曇り。うねる暗雲は不安げな様相を帯びてぐねぐねと歪む。

 更に美しいのは雨。決壊した堰のように雨水を流す様はまさしく甘露そのものだ。


 わたしは空を見上げる。涸れた井戸の底から。

 突き飛ばされ、落ちた際に折れた左脚がじくじくと痛む。

 もう腐り始めているのか、立ち上がるどころか、みじろぎ一つで激痛が走る。


 死ぬのだろうか。

 それは、嫌だな。



 事の始まりは一年ほど前だ。

 わたしは飯炊き女として奉公に出された。よくある話で、我が家は明日の食事にも事欠いていたのだ。だから、両親を責める気持ちは全くなかった。


 寧ろいっそ晴れやかな気持ちですらあった。

 女はどれだけ学があっても、大成できないどころか頭を出したら金槌で打たれるような世の中だ。

 父の教育には感謝しているけれど、兄たちのためになるなら、まぁ仕方ないと割り切れたのは幸いだった。


 そんなわたしを待ち受けていたのは、華族の家。

 とはいえ名ばかりで、見栄はあっても金がない。典型的な没落武家の成れの果てだった。


 なのにどうして女中など、と思っていたわたしの耳に飛び込んできたのは、婚姻話。

 一人娘のお嬢様が、成金商人の次男坊を婿に取るのだとか。


 あちらは名前が欲しい。

 こちらは金銭が欲しい。

 よくある話だ。他愛もない話。大政奉還の影響は未だ、お上に近しければ近しいほど大きく、しかし庶民にはさほど影響もない。

 合点はいったけれど、わたしには無関係と日々仕事を黙々とこなしていた。


 けれど、この家の連中を見下すようになっていくのには時間はかからなかった。

 わたしは、父のおかげで算盤も弾けたのだ。

 だから、破綻した金遣いをしていることはすぐにわかった。


 やれどこそこの反物だとか、名産の酒だとか、なんたらの絵だとか。

 莫迦なのか。

 愚かなのだろう。

 糊口を凌ぐ話の次にそんな言葉が出てくるのだ。


 わたしは、婿になる男性を不憫に思った。

 こんな理不尽な思考しかできない家に入るのだ。

 ほとんど交流のないわたしですら嫌気がさすのだ。

 本物の家族になると考えると、怖気が走る。


 たしかにお嬢様は見た目にはとても美しい。

 手入れの行き届いた長い黒髪。

 陶器のような白くかがやく肌。

 紅も引かないのに真っ赤な唇。


 けれど、中身はただの浪費家だ。

 恬淡というわけでは決してない。

 収集癖というのとは少し違うか、あれもこれもと欲しがり、手に入れた先に飽きてしまう。

 興味が失せたからといって、他人にあげてしまうでもなく、ただ捨てる。


 ただ捨てるならまだしも、誰かが欲しがったものを率先してごみにしてしまう。

 いつだったか、近所の子どもが欲しがった本を、その子の目の前で引き裂いていた。

 無益にもほどかある。

 要は、所有や支配という欲を満たしたいだけなのだ、あの女は。


 あれほど愚昧な女であっても、見た目が麗しいものなら男は満足するだろうか。

 可哀想に。

 いや、それで幸せなら、そのままでいいのかもしれない。


 不幸になるのは周りだ。

 巻き込まれるのはわたしだ。

 それはそれで嫌だった。

 ただ、兄たちのためになるのなら、わたしの忍従は無駄にはならない。そう信じている。


 それでも暗鬱な思いを胸に日々を過ごしていたことに変わりはない。わたしにできることは何もない。

 ただ、見栄っ張りな連中の元で小銭を稼いで、父母が飢えないよう、兄たちが心置きなく才を発揮できるよう、手助けのために生きるだけ。


 そんな日常のなかでは、空を見上げることなんて一度もなかった。


 けれど、旦那様が婿にやってきて世界は一変した。

 無駄に大きな家は補修され、隙間風も無くなった。

 わたしの他にも女中や働き手が幾人か入り、家事に忙殺され続けることもなくなった。


 わたしは最初、怯えていた。

 華族の連中はわたしのことをただの便利な道具としてしか見ていなかった。だから、成金についてくる同輩も同じようなものかもしれない、と。


 実際は全く違った。

 歳の割にしっかりしていると、よく褒めてくれる人。

 数字に強くていつも助かると、目線を合わせながら言ってくれる人。


 特に、旦那様……婿養子に入ったばかりのあの人はわたしを贔屓していた。


 きっかけは大したことではなかった。

 ただ、帳面の数字が合わないと顔を突き合わせていたところに、たまたまわたしが間違っている部分を覗き込んで、うっかり口に出した。

 それだけだ。


 爾来、旦那様はわたしを重宝するようになった。

 女中の皆がそれにやっかむようなこともなかったのは幸いと言える。

 理由は、単にわたしが幼い点だろうと思っていた。


 しかし、それだけでもないらしいと気づいたのは最近だ。

 比較対象が自分の家族や愚鈍な一家しかなかった頃にはわからなかったが、どうやらわたしは仕事が早く頭も回る子どものようだ。


 環境が違えばそういう子どもは疎まれるだろう。

 幸いなことに商人の家で生まれ育った旦那様は合理的で、働く人々もその考えを叩き込まれていたようだ。


 心は軽くなっていった。

 行動に理由があり、言葉に意味がある。たったそれだけのことで。

 我ながら即物的だ。


 もちろん、こんなことになればわたしを気に入らない女がいる。

 お嬢様だ。

 旦那様を自分のものと思い込んでいるあの女は、事あるごとにわたしをなじるようになった。


 やれ掃除が行き届いていないだとか、それ味付けが薄いだの濃いのだとか。

 わたしがやっていない仕事にすら、わたしのせいにする始末だ。


 そして、旦那様にやんわりと咎められる。

 そこから、むっつりとした貌を作り黙る。

 こっちは笑いを堪えるのに必死だ。愉快というよりも、あまりの滑稽さに。


 そういったごたごたがある度、旦那様はわたしを慰めようと、舶来品などの珍しいものを見せてくれた。

 地球儀。

 方位磁石。

 硝子細工。

 万華鏡。

 新品の紙やインキの出る筆なんてものもいただいてしまった。


 きっと、商売の道具なのだろう。

 本棚には外国語の本もあった。

 随分と先進的で、それゆえに少しばかりズレたところのある人だった。


 旦那様のその慰めこそ、お嬢様の怒りの根源だというのに。

 算盤も、外国語も、商売もできるのに、他人の気持ちという簡単なことだけはわからない、そんな人。


 だから、お嬢様がわたしを連れて少し出かけようと言い出した時には、何があるのだろうと諦め半分だった。


 折悪く、家には使用人を除いて誰もいなかった。

 旦那様は新しい商談のために外出していたし、放蕩華族は小金が入ったと喜び勇んで遊びに出ていた。

 忙しく働き回る女中たちの目を盗むのも容易だったろう。


 具合が悪いなどと嘘を吐いてまで家に残ったお嬢様に逆らおうものなら、この後何が起きることか。

 辞めさせられるわけにはいかない。家族のために、わたしは働いていたのだから。

 そうでなくとも問題児と吹聴されれば、今後も同じような仕事ができなくなってしまいかねない。


 八方塞がりのまま、わたしは山奥に連れ出され、迂闊にもこの涸れ井戸に突き落とされた。

 間抜けな話だ。





「あら、まだ生きてらっしゃったの?」

 井戸を覗き込む女。

 見上げる女と目と目が合う。


 覗き込むのは十代後半。髪の長い美しい女。目白鳴く春の山奥に似合わず着飾った姿。

 見上げるのは十そこそこの幼さ。仕事の邪魔にならぬようにと肩口に揃えた髪に、地味で装飾の無い身なり。


 井戸底の女の左脚は、脛の中程でぽっきりと折れ、飛び出た骨が白く咲いていた。


「はい、残念ですが」

 にこりと笑う童女。

 女は顔を赤くする。

「しぶとい。早く死んでしまえばいいのに」


 くすりと笑う童女。

 女は眉を潜める。

「何を笑っていますの? あなたは今、出られもしない、助けもこない、脚が腐って死ぬしかないのよ? ついに頭がおかしくなったのかしら?」

 一息に怨嗟を吐き出すと、女は肩を下げた。


「おかしくなるだなんてそんな」

 痩せ細ってやつれた童女は、なお笑みを崩さない。

「お嬢様がわたしを気にかけているということは、まだ旦那様が探し回っている証左に他なりません」


 覗き込む女の顔が、今度は真っ青に変わる。

 童女は謡うように言葉を紡ぐ。

「よしんばわたしが死んだとして、この壁の日記を見たら、それだけでわたしは救われるでしょうね」


 覗き込む女は目元に涙を溜めて、罵声を残して逃げ去っていった。


「さよなら、また明日。空お嬢様」

 くつくつと、童女は嗤った。

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殺伐百合用 くろかわ @krkw

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