七夕前夜

 街の至るところに、大きな笹が飾られている。

 夏風に煽られた潮騒のような音が耳に響いて、わたしは気持ちが浮かれてしまうのを自覚した。


 笹は色紙で作られた飾り物でめかしこんでいる。

 色とりどりの飾り物。花のくす玉や、風になびく吹き流し。細かな細工の網飾り。連なる星綴り。隙間を埋めるように、願いを書いた短冊がその身を主張するように揺らめいていた。



「うぅん……願い事かぁ」


 宿の前に飾られた大きな笹を二階の窓から眺めているわたしは、水色の短冊を指先に持ち、それをゆらゆら揺らしながら何度目かも分からない溜息をついた。


 ここは東国。

 この国で過ごしてもう三ヶ月になる。大きな夏のイベントだという、この七夕の星祭りが終わったら、次の国に向かう予定だ。


「願い事はないのか?」


 部屋に誂えられた椅子に腰掛け、本を読んでいるアルトさんがわたしの呻きに顔を上げた。彼の手元にも短冊があるはずだが……と思うと、椅子の側にあるテーブルに、黄色の短冊が置かれていた。


「願い事って言っても、誰かさんが何でも叶えてくれますからねぇ」

「恋人の願いは可愛らしくてな。何でも叶えてやりたくなるのさ」

「アルトさんはわたしを甘やかしすぎなんですよ」

「俺以外に、誰がお前を甘やかすんだ?」


 低く笑ったアルトさんは、栞を挟んでから静かに本を閉じた。その本をテーブルに置くと、ベッドに座っていたわたしの隣に腰を下ろす。

 肩を抱いてくれる温もりに甘え、わたしはアルトさんに体を預けた。伝わってくる温もりが心地よく、それ以上に広がるのが愛おしさ。


「アルトさん以上にわたしを甘やかしてくれる人なんていませんし、甘えられないですよ。知っているでしょう?」

「ああ」


 低く笑った彼の東雲が細められる。ふたりだけの時に見せてくれるその優しい眼差しが大好きだ。


「七夕の夜には、彦星と織姫が会えるんでしたっけ? 天の川を渡って」

「そう言われているな」

「雨が降ったら会えないんでしょうか」

「雨が降ると川の水嵩が増して渡れなくなるらしいが。その場合はかささぎの群れがやってきて、翼を連ねて橋としてくれるらしい」

「えっ、橋が掛かってないんですか。最初から掛けておけばいいのに」


 川を渡るって、そのまま渡るの? 鳥頼み?

 わたしの驚いた表情が可笑しかったのか、アルトさんがまた笑った。そんな笑顔を見せられたら、わたしの心臓はこれでもかと早鐘を打つ。今でもドキドキしてしまうなんて、恥ずかしいから知られたくはないんだけど……この超人には全てお見通しなんだろうな。


「二人はお仕事をしなくなって、会えなくなったんですよね?」

「そうだ。織姫は機織りをしなくなり、彦星は牛の世話も畑の世話もしなくなった。そこで天の神が、天の川の西と東へ引き離した」


 お仕事を放棄した二人が悪いんだけど、好きな人と無理矢理引き離されるのは可哀想だとも思ってしまう。それはわたしが今、好きな人と一緒に過ごしているから、そう思うのかもしれないけれど。

 なんとなく胸の奥がちりちりして、アルトさんの腰に両手を回して抱きついた。


「引き離された二人は泣き暮らして、結局仕事をする事はなかった。天の神は二人に、毎日真面目に働くのなら一年に一度だけ会うことを許した。それが七夕だと言われている」


 アルトさんがわたしの肩を抱いたまま、優しい声で七夕の話をしてくれる。


「アルトさんなら、天の川に自分で橋を掛けてしまいそう……なんて思ったんですけど、その前にお仕事を放棄したりはしないですよね」

「お前だってそうだろう? 例え俺が仕事なんてしないで遊ぼうと誘っても、この仕事を終わらせてからと言いそうだ」


 お互いその通りになりそうで、顔を見合わせて笑ってしまった。


「アルトさんはどんなお仕事でも、要領よくこなしちゃいそう」

「別に要領がいいわけではないんだが」

「超人が何言ってんですか。何でも出来ちゃうくせに」

「何でもは出来ない」

「え、出来ない事ってあります? 気になる」


 この超人が出来ない事。

 わたしには思い当たらないんだけれど、本人が自覚しているそれは気になる。非常に気になる。


 わたしの様子に苦笑したアルトさんは、わたしを抱く腕を解いてしまう。離れた温もりを恋しく思うのも一瞬で、アルトさんの両手はわたしの頬に添えられていた。親指が優しく頬を撫で擽る。


「言わない」

「えー、教えて下さいよぅ!」

「クレアの前では、何でも出来る男で在りたいからな」


 頬から唇へ親指が移動する。唇の形を確かめるように撫でられて、体の奥が甘く疼く。この温もりに自分はどれだけ慣らされてしまっているのか。


「俺が何でも出来るとお前は言うだろう? そう言ってくれる度に、本当に何でも出来る気がするんだ」

「アルトさん……」

「だからこれからも、俺が何でも出来ると信じていてくれ」


 東雲の瞳が色濃くなる。瞳に映るわたしが小さく頷いた。

 アルトさんが嬉しそうに笑って、触れるだけの口付けを落としてくれる。重なった唇が熱をもって、火傷をしてしまいそう。


「それで、短冊はどうするんだ?」


 未だ唇の距離が近いままで囁かれると、くらりと眩暈がする。わたしは自分の理性の為に、アルトさんの唇を両手で塞ぐと少しばかり距離を取った。


「決めました。『みんなが笑っていられますように』かな」

「お前らしいな」

「そうです? 本当は『もう二度と変なことに巻き込まれませんように』とか『アルトさんとずっと一緒に居られますように』とかも考えたんですけどね。願わなくてもアルトさんが叶えてくれますから」

「それは違いない」

「でしょ。だから大切な人達の事をお願いします。わたしの事は、アルトさんに叶えてもらうので。アルトさんは何にします?」

「さて、どうするかな」

「えー、なんかずるい。わたしだけ飾るとか嫌ですからね。ちゃんと決めてくださいよぅ」


 わたしが口を塞いでいるから、アルトさんはくぐもった声で返事をしてくれる。したいようにさせてくれる、その優しさが擽ったくて、なんだか笑ってしまった。

 ゆっくりとアルトさんがわたしの手を外させる。左手に飾られた指輪を一撫でしてから、わたしの手を膝に下ろした。


「明日の朝には決めるさ。願い事は何でもいいんだ」

「何でも?」

「俺の願いはいつだってクレアに関する事ばかりだからな。それならお前が叶えてくれるだろう?」

「……善処します」


 超人じゃないもの、言い切るなんて出来なくて。

 それでも、彼が願うなら何でも叶えてあげたいと思うのも本当で。


 わたしの返事に満足そうに目を細めると、アルトさんはベッドに横たわってしまった。枕に体を預け、片腕を伸ばして場所を空けてくれる。


「おいで」


 優しいのに、優しいだけじゃないのを知っている。

 その声に潜む甘い情欲に気付かない程、鈍くもなくて。でもそれに抗うなんて出来ないくらい、わたしはアルトさんに焦がれている。


 誘われるまま、アルトさんの腕を枕に借りて横たわる。ぎゅっと抱き締められると同時に部屋の明かりが落ちた。


「クレア」


 わたしの名前は、アルトさんが紡ぐとこの世界で一番美しい響きに聞こえる。

 胸がきゅっと切なくなって、返事も出来ずにわたしはアルトさんの顎に唇を寄せた。


 間近で重なる吐息も、触れ合う肌も愛しいのにそれらを全て伝える事なんて出来やしない。だからもう言葉は諦める事にして――


 窓を閉めても緑の潮騒が聞こえてくる気がする、暑い夜だった。

 とても暑い夜。


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ノイギーアの朝未き 花散ここ @rainless

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