アイリス(WD編)
それから夜が更けるまでわたし達は、一緒の時間を楽しんだ。
すっかり出来上がってしまったヴェンデルさんを、慣れた様子でライナーさんが背負っていく。レオナさんは温泉に行くと、足取り軽く去ってしまった。
わたしとアルトさんは、いつものように自室までの廊下を並んで歩く。旅に出る前も、旅に出てからもわたし達のこういうところは変わらない。
「クレア、少しいいか」
「はい?」
両腕にホワイトデーの贈り物を抱えたわたしが、自室に入ろうとした時だった。わたしの腰に手を回したアルトさんが、自分の部屋に招こうとする。どうかしたかと不思議に思うけれど、わたしはひとつ頷いてアルトさんの部屋に入った。わたしも渡すものがあったから、ちょうど良かったのもある。
テーブルに贈り物を置かせてもらう。部屋にいつも感じるムスクの香りは留守だったせいか薄れている。
わたしがソファーに腰を下ろすと、その隣にアルトさんが座った。肩を抱いてくれる腕に甘えて、体を寄せた。
「楽しかったか?」
「とっても。アルトさんは楽しかったです?」
「そうだな」
柔らかな声。いま思うと、この声はわたしと二人だけの時の声だ。甘さを含んだ穏やかな声。それに気付くとなんだか嬉しいような、恥ずかしいような不思議な感覚に襲われる。
「アルトさん、わたしからもホワイトデーの贈り物があるんです」
「俺に?」
「チョコレート、くれたでしょ」
花を模したチョコレート。あの花達の花言葉を調べた時は顔から火が吹き出るかと思った。
わたしは空間収納を片手で開くと、細い長方形の箱を取り出した。それをアルトさんに渡すと、口元を綻ばせて受け取ってくれる。
アルトさんは箱のリボンを丁寧に解いて箱を開ける。中に鎮座しているのはガラスペンだ。持ち手は星空を閉じ込めたかのように、群青色と小さな気泡で彩られている。これを東国で見つけた時、アルトさんに似合うと思ったのだ。
銀細工のデザイン画を描く時に使って貰えたら嬉しいと思って、ついつい買ってしまっていた。
「綺麗なペンだな。持ちやすいし、手に馴染む。ありがとう、クレア」
ペンを持ち、くるりと上手に回してから嬉しそうにアルトさんが笑う。わたしまで嬉しくなってしまって、込み上げてくる感情を誤魔化せずにアルトさんに抱きついた。
腰から背中に手を回してぎゅうぎゅうに抱きつくと、アルトさんが肩を揺らした。丁寧にガラスペンを箱にしまってから、わたしをしっかりと抱き締めてくれる。
伝わる鼓動も温もりも、すっかり体に馴染んでしまった。
「どうした?」
「アルトさんが喜んでくれたら、わたしも嬉しいんです。これが好きって、ことなんですかねぇ」
わたしを抱き締める腕の力が強くなる。苦しいはずなのに、心地いい。なんて愛しい矛盾なんだろう。
「煽るな」
「煽ってないですー。本音、っ……」
笑いながら軽口を返そうとしたのに、わたしの唇はアルトさんのそれで塞がれていた。顎にかけられた指が肌を擽る。
解放されたわたしがアルトさんを睨んで見ても、彼はくつくつと低く笑うばかり。
「もう、アルトさん!」
「煽るお前が悪い」
アルトさんはわたしを胸元に抱き寄せると逆手でわたしの手を握る。その温もりがずるいくらいに優しくて、わたしは口をつぐむしかなかった。
「東国に戻る前に、山に寄るか? ご両親にも土産を渡した方がいいんじゃないか」
「うぅん……やめておきます。もっと色んな国に行ってから寄ろうかな、と」
不思議そうにアルトさんが首を傾げる。
「いま山に行ったら、アルトさんが絡まれちゃいますよ。父がちょっと……アレなもので」
わたしが旅に出ると行った時に、唯一反対をしたのが父だ。わたしの隣にいるアルトさんにやきもちを妬いているのだと母は笑っていたけれど。
アルトさんがわたしを守ってくれたのを知っているから、無下にする事も出来ないけれど、どうにも父の心は複雑らしい。
「俺は絡まれても構わないが。いつかは認めて貰わないといけないしな」
「認めてはいるんですよ。ただ……理解は出来ても納得出来ないというか……」
「父君が複雑なのも、まぁ分かる」
「なのでもう少し経ってからにしましょ。わたし、ネジュネーヴェの王都にも行ってみたいですし」
「そうだな」
ぽんぽんと頭を撫でられる。顔を上げると優しい東雲の瞳と目が合った。
そして、左手に感じる違和感。
不思議に思ったわたしが顔の前に左手をかざすと、薬指に指輪がはめられている。銀で出来たお花の指輪。これを誰が作って、誰がはめてくれたのか問うまでもなくて。
「……これは」
「ホワイトデーのお返しだ。想いを伝える日で、合っているんだろう?」
「わたし、もうお返しもらいましたよ。ハンドクリーム」
「あれは日頃の感謝を。これは、改めてお前が好きだと俺の気持ちを」
銀で出来ていて触るとしっかり固いのに、ふわりとした花びらが印象的だ。この花は――
「……アイリス?」
「そうだ、よく分かったな」
「最近、花言葉辞典をよく捲っているので。花の挿絵もあるからお花も結構覚えたんです」
「それじゃあこの花言葉は、俺が言わなくても分かるな?」
アイリスの花言葉は……【愛の約束】
「アルトさんは……結構ロマンチストですよね」
「そうかもしれないな。お前に会うまで、そんな自分に気付かなかったが」
「さらっとそういう事を言うのはやめて下さいよぅ」
アイリスの中央に飾られた紫の石はアメジストだろうか。わたしと同じ色。
「でも、どうして指輪を?」
「……東国では恋人に指輪を贈る風習があると聞いた」
「そうなんですね。じゃあアルトさんにも指輪を贈らないと」
「まぁそのうちな」
アルトさんがわたしをぎゅっと抱き締めてくれる。甘えるようにその胸元に頬を寄せると、抱き締める腕に力が籠る。
「だめだな。言葉を口にしても、いくら触れても、気持ちを全て伝えられそうにない」
「伝わってますけど……伝え足りないなら、いくらでも伝えて下さいな。その口で、この腕で」
「お前が嫌がらないといいが」
「なんでわたしが嫌がるんです? わたしだって、同じ気持ちなのに」
腕の力が緩まって、わたし達は視線を重ねる。それから笑った。
わたしだけが見る事のできる、色を濃くした東雲の瞳。独占欲が満たされるのに、違う熱が胸に灯る。
「好きですよ、アルトさんのこと」
想いが口から零れ落ちる。嬉しそうに笑うアルトさんに、鼓動が跳ねた。
「そろそろ眠るか」
「そうですねぇ。ではわたしは部屋に……」
言った時には既に抱き上げられていた。アルトさんはベッドにわたしを下ろすと髪を留めていたヘアバンドをサイドテーブルに置く。それからわたしのリボンカチューシャを解いてくれるのだけど……ええ? ここで、わたしも寝るの?
「いつも同じ部屋だろう」
わたしの心を読んだアルトさんが、何でもない事のように言うものだから、それもそうかと納得しそうになる。いやいや、待って。
「同じベッドじゃないですよぅ!」
「何もしない」
欠伸を噛み殺したアルトさんが、上掛けの中にわたしを押し込む。それから隣に潜り込んできた。
何もしないって断言されるのも、恋人ととしてどうかと思うが。いや、そんな事よりもわたしは今日眠れるんだろうか。
「おやすみ、クレア」
わたしの葛藤をよそに、アルトさんがランプを消す。一瞬で部屋が暗闇に包まれて、射し込むのはカーテンの隙間から月明かりが一筋だけ。
「……おやすみなさい」
アルトさんがわたしを腕に抱き込んで、これだとまるで抱き枕状態だ。絶対に離してくれないのが、腕檻から伝わってくる。
ドキドキしているのが伝わってしまいそうで、わたしはゆっくり息を吐いた。
「……動揺しすぎだろう」
アルトさんが低く笑う。誰のせいだと思っているんだ。
わたしはアルトさんの胸を一度拳で小突いてから、その胸元にすり寄った。アルトさんが息を詰めるのが分かった。
「寝れなくても知りませんよ。可愛いクレアちゃんの寝顔を堪能しすぎて寝不足になったら、笑ってやりますからね」
「朝になってクマが出来てたら治してくれ」
「それはライナーさんにお願いして下さい」
軽口を叩いている間に、眠気が襲ってくる。わたしより高い体温はすっかり体に馴染んでいて安心するのだから仕方がない。
ふぁ、と欠伸を漏らして、自分からも抱きついた。聞こえる鼓動。子守唄のようなそれを数えてる間に、わたしの意識はゆっくりと落ちていくばかり。
「愛してる」
眠りに落ちる間際、アルトさんが何かを言った気がする。その優しい声に表情が緩む。
夢の中でもアルトさんに会えますように。
そう願った。
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