世界という囹圄

 男は、あてどなく歩いていた。身に、簡易な検診衣だけをまとって。


 彼はまた、精神病棟へと運ばれた。起きた時には、拘束着をまとっていた。自由を奪われたことが、また彼の精神を削った。数日の悪夢の後、彼は入浴前のスキをついて、病院を飛び出した。


 閉ざされた空間にいることが、何よりも苦痛であった。裸足で駆け回った足は傷だらけになったが、少しも気にならなかった。


 とにかく、彼は今、どこにも閉じ込められず、また、どこにも座っていなかった。自分はどこにでも行けると感じた。それだけが彼の心を癒した。


「いいえ、あなたはどこにも行ってはいけないわ。どこにも、行けやしないのよ。」


 不意に、女の声が響いた。彼は、その声を無視しようと努めた。


「いつまで逃げられると思うの? あれを見てごらんなさい。」


 不意に、街灯のオーロラ・ビジョンが目に入った。高々と掲げられたテレビジョンには、彼の顔が映っていた。"行方不明者情報"のテロップを伴って。


「誰も彼もがあなたを探しているわ。この国のどこにも逃げ場なんてないのよ。」


 不意に、制服姿の警官を視界の隅にとらえた。彼の脳裏に、最悪の想像がよぎった。

 幻聴が、ほほほほほ、と、嗤った。


「あなたはどこにも行けないの。なのよ! 」


 警官が、道行く人すべてが、オーロラ・ビジョンに映るキャスターが、あの蛇の貌をして嗤う。


 彼は、壁に頭をぶつけて、声を振り切るように走った。額から流れ出た血が視界をふさいだが、かまわずに走った。笑い声は少しずつ遠ざかっていった。


 彼は、遠い、名も知らぬ国へ行く船に飛び乗った。貨物室にひそみ、ネズミを食っては泥のように眠った。夢も見ぬように、深く深く、数週間を意識の暗黒に潜んで過ごした。


 船員が遠い国で彼を見つけた。貨物室の扉から覗く日の光と港を見て、男は船を飛び出した。船員たちの制止を振り切り、密航者は遠く遠く、千里を走った。


 気が付くと、男は草原にいた。抜けるような青空の下の、どこまでも続くような草原にいた。男は草原に倒れ込み、実に数か月ぶりに笑った。彼は、彼の思い描く「自由」というものを、象徴するような景色の中で笑った。もう誰も、僕を閉じ込めることはできないと笑った。


「あなたはそこで、何から逃げたつもりなの? 」


 女の声がして、男の笑い声が止んだ。


「自由とはなにもしないことではないわ。あなたは、そこで何を得るつもりなの? ただあるだけの空間と、あなたを囲む壁との間に、いったいどれだけの差があるの? 」


 笑うことをやめた男は、女の言葉を無視しようと努めた。ただ青空に目を向け、何も考えないように、ただ女の声が遠ざかっていくことを祈った。


「あなたがそこで死んだって、あなたは自由になりはしないわ。あなたの骸を獣が喰らい、土が喰らい、あなたは永遠に地球の中をさ迷うの。あなたは雨になり、川になり、海になるわ。あなたは風になり、火山になり、空になるでしょう。それでも、地球の重力から逃れることは決してないのよ! 」


 幻聴が、ほほほほほ、と嗤った。


「あなたは閉じ込められているべきよ。諦めて社会の中に帰っても、そこで朽ちていこうとも、あなたは逃げられないの。生命という、世界という檻の中なのよ! 」


 青空がその形を歪ませて、蛇の貌を浮かばせた。


 男はもう、叫ぶことも気絶することもなかった。

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