習慣という牢獄

 数か月の療養を経て、男は元の生活へと戻った。医者の提言を振り切って、異例に早められた退院であった。


 ただただ、という実感が欲しかった。精神病院の病室には、毎夜、かつ、かつとハイヒールの音が響いた。眠気の限界に耐えかねて瞼が落ちるたび、生暖かい感触と絶叫とともに、男は目を覚ました。


 病室は、何一つあの地下室と変わらぬ密室であった。目をつぶるたび、あの女の高笑いが聞こえてきた。


 彼は学生であるからして、当然に学校へ通った。行方の知れなかった数か月、何があったのか。彼の周りの者たちは当然に承知ではあったが、分別の知れぬ年でもなく、また、諸機関の通告もあり、彼らは男に、努めて平穏な時間を送らせた。


 男もまた、努めて平穏に過ごした。もはや、彼がいるのは密室ではない。重く閉ざされた扉も、コンクリートをたたく悪魔も、小指の痛みすら、過去のものだ。


 その、はずだった。


 退院から数週間たって、未だに彼は十全には寝付けていない。毎夜寝床につく際にも、扉を開け放ち、いつでも出ていけるのだという心の平静を取り戻さねばならなかった。

 そんな生活がたたってか、とある授業の最中、彼はこくりこくりと船を漕ぎ、その瞼を閉じようとしていた。


「私、になるわ。」


 ふいに、はっきりと女の声が聞こえた。


 男は飛び起きて、辺りを見回した。数か月の間、顔にそそぐ生暖かさは彼を苦しめ続けたが、その言葉を思い出すのは、それが初めてだった。


「あなたは、いつまでここにいるの? 」


 女の声は止まなかった。男は、とうとう自分の頭がおかしくなったのだと思った。


「一日中、ここに座っているのは本当にあなたの意思なの? 」


 男はぶんぶんと頭を振って、耳を抑えるようにうずくまった。教師と、数人の生徒はそれを不思議に思ったが、例のごとく、彼の行いに触れようとはしなかった。


「いつまで、これを繰り返すの? 今だけじゃないわ。あなたは死ぬまでずっと、一日を過ごすの。決して、歩いて出ていくことはしないのよ。」


 男は、少しだけ顔を上げ、教室の扉をちらりと覗き見た。今、この教室を飛び出せば、この悪夢は覚めるのだろうか、と考えて、教師の姿が目に入った。


 (出ていけないのではない。僕は、閉じ込められているのではない。いつだってここを飛び出すことができるのだ。)


 男が心中でそう唱えると、幻聴はほほほほほ、と嗤った。


「出ていかないということと、出ていけないということに、どれだけの違いがあるの? あなたは一生、べきよ! 」


 ごん、ごんと、男は数度机に頭をぶつけた。見るに堪えかねて、教師が彼の名を呼んだ。彼は振り切るように顔を上げた。


「あなたは、閉じ込められているべきよ! 」


 彼は絶叫した。教室の中の人々は、誰もかれも、あの蛇の貌をしていた。

 幻聴はほほほほほ、と嗤った。数十人分の高笑いの中、彼は気絶した。

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